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学会誌11号-第11回年次大会講演(秋葉レイノルズ)

【講演要旨】

My Journey of Gender and Language Study
—Auto/Biographical Approach to the History of Women’s Movement

Katsue Akiba Reynolds

はじめに

アメリカで言語と性差(ジェンダー)の研究注1が可視化したのは1970年代半ばでした。胎動期も数えると40年の月日が流れたことになります。 わたしの在米期間とほぼ重なります。わたしがUCLA で論文を書き終えて教職についたのは、フェミニズム第2の波のさなかで、言語と性差研究が誕生し、 立ち上がろうとしていた頃でした。 アメリカ在住の在外日本人として英語における性差別撤廃運動に関わりながら、日本語・日本文化を問い続けた年月でした。 日本語には言語上のどんな性差があるのか、なぜ日本語では性差がとくに顕著なのか、などなど。 グローバル化が思いも及ばないスピードで進行している今は「日本語の壁」注2 、「日本的言論風土」がひどく気になっています。 アメリカ発の言語と性差研究の構えで日本語の性差研究ができるか? 日本語研究者は、日本の外部と対等に対話していく戦略をもっているか?  言語と性差研究は日本社会に変革を齎すことができるか? わたし自身の研究と運動の足跡を振り返るかたちで、言語と性差研究(あるいは、 フェミニズム)の歴史をわたしの視点で見直してみました注3 。Life writing(あるいは、Auto/Biographical research)として認められつつある学際的研究方法の、 わたしにとっては始めての試みです。シュレッダーにかけて整理してしまおうと思っていた古いファイルから現れたチラシ、記録、 手紙、写真などが記憶再生に役立ちました注4 。インターネットから得られる情報も記憶確認に欠かせません。

書き始めて、二つの問題にぶつかりました。一つは、英語で書くか日本語で書くかという問題、もう一つは、「わかりやすいことば」で書くか、 抽象的な用語を使って目に見えないレベルの問題に挑戦しながら書くかという問題。いろいろ迷いましたが、とりあえず、 過度の「学術化(academicization)」を避け、日米の境界域で生活している「わたし」の「自然体」をこころがけることにしました。 ところどころに英語を挿入しながら基本的には日本語で書くというハイブリッドになりました注5 。「わかりやすいことば」で語りきれない部分もあり、 日本語の性差研究に直接関係ないけれど、グローバル化時代の学問的動向として伝えたい情報もあります。 (アカデミック・プレッシャーに屈したわけではありません。)そうした部分はsubtextとして脚注に入れることにしました。脚注の嫌いな人は、 無視してMain text だけを読み流してください。言語と性差の研究が、わたしたちの生活(ライフ)そのものであることが分かっていただけると思います。 「日本語ジェンダー研究」が、内に閉じこもることも、グローバル化の波にのみこまれることもなく、主体的に世界につながっていく作業になるように、 という思いもこめました。

1.旅立ち―Nineteen Sixty-Eight (1968)

アメリカの言語と性差(ジェンダー)研究の話は、アメリカの歴史を少なくとも60年代まで遡らなければ始められない。60年代は、 アメリカ社会の根幹を揺るがすことになった二つの法改正——Title VII of the Civil Rights Act (1964) と Amendment of Title VII of the Civil Rights Act (1965) ——が実現した画期的な時代であり、続く70年代は差別撤廃運動の戦略としての言語変革が広がった時代であったからである。 60年代、わたしは東京で英語教師をしていたが、アメリカについても世界についてもほとんど無知だった。それでも、 JFK 暗殺のニュースを市川市のアパートで聞いた時のことは生々しく覚えている。ショックだった。あれは1963年(昭和38年)11月22日のことだった。 わたしがなんらかの実感をもってアメリカのことを考え、ぼんやりとではあったが「行ってみたい」と思うようになったのはこのころであったと思う。

1967年フルブライト留学試験にパスした。ちょうど日本人の留学プログラムが見直されていた年で、長期の留学は見合わせられた。 その代り八王子セミナー・ハウスでの1ヶ月の英語教育研修と2ヶ月の短期アメリカ留学となった。セミナー・ハウスでの研修中のことである。 アメリカ人講師の一人が、ある夜わたしのコッテージにやってきた。少し酒の匂いがした。泣いていた。かつての教え子が戦死した知らせがあったと言う。 ベトナム戦争が泥沼化しつつあった頃だ。翌年の夏2ヶ月のアメリカ滞在は、揺れ動く世界を身体で感じる研修になった。

わたしのアメリカ行きが決まっていた1968年4月には Martin Luther King, Jr. がテネシー州メンフィスで暗殺され、 数ヶ月後には Robert F. Kennedy がLAのアンバセダー・ホテルで射殺された。わたしは、その1ヶ月後に家族や生徒に見送られて羽田を発った。

はじめの1ヶ月はジョージタウン大学の学生寮に宿泊し、言語学と英語の研修を受けることになっていたが、 クラスをさぼってはワシントン市内を見物してまわった。教室での勉強よりもアメリカを見たかった。 (当然ですよね。)FBIの建物正面上の横幕にでかでかと Communism Is Our Enemyと書かれた横幕がかかっているのを見て米ソ対立の険しさを実感した。 野外劇場で聞いたRay Charlesのジャズ演奏、夜のDupont Circleに展開されるヒッピー文化。フラターニティで目撃した男たち、女たちの不思議な行動。 研修を終えてデトロイト近郊でのホームステイに移動する日が近づいたある日、寮内に妙な空気が漂った。 学生たちが声を潜めて急ぎ足で向かうテレビ室に行ってみると、「プラハの春」 を阻止しようとしたソ連軍がチェコスロヴァキアに侵攻したというニュースが流れていた。

わたしたちのバスは、そんな空気のキャンパスをあとにし、ノートルダム大学の学生寮に1泊、翌26日にはシカゴに着いた。 学生たちのデモと警察がもみ合うなかで開かれた民主党全国大会が終わった翌日、会場に使われた野外劇場に案内された。ジョンソンは退陣を表明し、 ロバート・ケネディは殺されてしまった。有力な候補者を失った民主党にとって悪夢のような大会であった。ガランとした会場の床は、汚れたままになっていて、 紙くずが散乱していた。ホームステイで見たテレビ・ニュースは学生デモと警察の衝突シーンを繰り返し繰り返し映していた。 ホームステイ家庭の一人息子デーヴィッド(5歳ぐらい)がある日、口を閉ざしてわたしに近寄らなくなってしまったことがあった。 近所の子供たちに「お前のうちにいるのはJapだ」と云われ、Japが何かわからないまま気味悪くなったのだった。近くでホームステイをしていた日本人男性は、 がらんとした地下室をあてがわれ、しかも、犬と同室だったことで傷つき、やがてノイローゼになって入院した。 知り合いになった家族が連れて行ってくれたイッピーの「ラヴ・イン」風景も記憶のアルバムにあって色あせることがない。 わたしがはじめてアメリカを見たのはそんな年だった。

2. 人種差別に立ち向かって

1972年 Chomsky の生成変形文法がピークの時代にICU大学院を中途退学しUCLAに行った。コースワークで精一杯の毎日、 Women’s Center ができたという噂を聞いたり、アメリカ人の友人から Consciousness raising の話を聞かされても、 それが女性の意識変革の方法なのだということに気づくゆとりもなかった。それに、そんな動きを察知するには、英語が不十分であった。 ICUでは生成意味論の神様のように思われていたGeorge Lakoffの講演を聞いても、まるで理解できなかった。社会言語学のWilliam Labovの講演もあった。 しばらく話した後で回転黒板がさっとひっくり返された。そこにはChomsky 理論の象徴である複雑なtree diagramが黒板いっぱいに描かれていた。 会場に爆笑が起こり、わたしもいっしょになって少し笑っていた。(正直いって、何がおかしいのかさっぱり分かっていなかったんです。)

それでも、ただただ与えられた assignments を一生懸命やったおかげで、Ph.D.への進級試験を受ける時がやってきた。 12、3人受験したうちの半分は外国人だったが、わたしも含めて“留学生全員落第”という結果に、みんな「ええっ!」となった。 アフリカからやってきていた留学生たちは、怒って帰国してしまった。日本にいるあいだ、学生が大学当局の試験のやりかたに文句をつけるなど考えたこともなかった、 まだ世界を知らずにいたわたしは、途方にくれた。インド人のサイードとわたしだけが残り、学部長は<採点に不服があるなら writing で出すように>と連絡してきた。 どう書いたらいいのか見当もつかなかった。乾いたタイプライター・テープからぺらぺらのタイプ用紙に打ち出された抗議文は、ダブル・スペースで1ページそこそこ、 いかにも弱々しげで、情けなかった。が、そうやって意図せずして、わたしは生まれて始めて人種差別反対闘争の当事者になったのだった。

長くてつらい夏休み——何をして一日一日を生き延びていたのか、ぼーっとしていて思い出せない。6月4日、 言語学部院生の会Graduate Linguistics Circle (GLC)が招集され、試験のやり直しを求める決議案が採択された。すぐに教授会がもたれ、 学部内には緊張した空気が流れた。しかし、やがてみんなアルバイトやら、リサーチやら、帰省やらで、キャンパスには姿を見せなくなった。 1ヶ月ほどしてからだったろうか、院生有志が学部に抗議するため集まっているから来いという電話がかかってきた。夕食後の時間、 黒人学生と留学生が数人あつまって議論し長い抗議文を書き上げた。学期初めの9月、臨時の学部タウン・ミーティングが招集され、 Faculty 全員と院生80人の半分以上が出席した注6 。教授たち一人一人を名指しで糾弾する学生たちに、驚き、感動し、 <今後わたしは教授たちにどんな顔を向けたらいいのだろう?>と不安でいっぱいだった。結局、学生主体の闘争のおかげで、 わたしとサイードの審査やり直しが決まり、いくつもの会議が開かれ、わたし自身教授たちの批判に応えて defend するというシンドイ立場に立たされもした。 これは、今になって考えるとわたしにとって最高のアメリカ学習だった。後にオレゴンで入居したアパートの landlord から差別的な扱いを受けて small claims court や連邦の人権委員会に提訴した時も、ハワイ大学東アジア言語文学部の人種差別的・性差別的実践について大学当局に女性4人で grievance (不当に対する不満)を訴えた時も、この経験が大いに役立った。わたしの言語と性差研究の根っこにはそれがある。

3. 言語と性差研究と出合うまで

コースワークを終え、進級試験をクリアして、論文テーマを考え始めたころ、Robin Lakoff の Language and Women’s Place が出版され、 その外にも「言語と性差研究」の必読書となった著書が2冊出版されていた。1976年には、言語と性差研究のネットワーキングに重要な役割を果たすことになった Women and Language News がスタンフォード大学の院生によってスタートし、その購読勧誘のチラシがまわってきた。わたしも言語学部のテーブルで見かけ、 ピックアップしたのを覚えている。しかし、論文を仕上げることが先だ。それどころではなかった。
 Ph.D.論文は、Chomsky の分析法を道具にしながら、日本語ネイティヴとしての日本語感覚に拠って考えた自己流の歴史言語学的研究になった注7 。 データを古代から上代の物語りテクストに絞って、そこに特徴的に現れてくるsyntax、あるいは、 discourse patternsを見ていった。ヨーロッパ言語に基づく文法概念では説明のつかない現象もあった。たとえば、Switch Reference(主語交代)だ注8  。アメリカン・インディアンやニューギアの言語のそれと不思議に共通しているのだ。日本語の始まりにピジン・クレオールがあるのではないかという仮説を引き出した。 ピジン・クレオールの専門家として知られていたハワイ大学の Derek Bickerton に手紙を書いたら、思いがけず誠実な返事が返ってきた。1975年、 わたしがまだ一院生であった頃の話である。出来上がった論文をもって学習院大学の大野晋氏に会いに出かけ、一時間ほど話を聞いていただいたこともある。 「うん、なかなか面白いですね」と褒めてくださった。今は懐かしい思い出である。

そんな具合で、わたしが大学院でやったことは、「性差」とも「差別」ともまるで無縁であった。「おかげさまで、もうすぐ卒業になります」 と恩師に挨拶したところ、「卒業ですか。おめでとうございます。女子短大の英語教師の口を探しておきましょうかね。」とご心配いただいた。 有り難かったがうれしくはなかった。大学の仕事がないのなら、何かほかのことをやってもいい、ものを作る仕事とか——と考えたりもした。 父に「日本に帰って家具を作る勉強をしてみようかと思う」と話したら、父はうれしそうに笑った。 わたしがアメリカに残ることになった時はよっぽど残念だったのだろう、「家具の勉強は、どうしたんだ」と抗議するように聞いてきたものだった。
 論文を書き上げると同時に、UCLA大学病院で腹部に巨大な腫瘍が見つかり、摘出手術をした。学生保険も切れ、仕事にも就いていなかった。金もなかった。 (医療費、ものすごく高いんです。)社会福祉家がUCLA医学部と交渉して研究費のなかから6000ドルの医療費を捻出するよう取りはからってくれた。 いよいよ手術という日の朝、医学部で講座を一つもっていた義父が病室を覗きにきた。いつにない優しい微笑みを浮かべていた。あとで分かったのだが、 外科部長に「The curtain will be closed in a few months (あと3、4ヶ月で幕だろう)。」と囁かれたそうだ。わたしも、そんなこともあろうかと思って、 日本の家族宛に「好きなことをやらせてもらって幸せでした」というような内容の手紙を書いて枕の下に入れておいた。 予想に反してカリフラワー状の腫瘍はとりだされ、わたしは術後2ヶ月で回復した。が、仕事はなかった。キャンパス近くのウエストウッドの開発が始まり、 思い出多い木造アパートが取り壊されることになって、うだつの上がらない芸能人の多く住む西ハリウッドに移り住んだ。 エキストラ俳優のダフィーとよく口論した。黒人歌手のエリーとお互いの猫(ペット)のことで喧嘩になり、ホースで水をひっかけあったこともあった。 そんな勝手気侭な貧乏暮らしが嫌いではなかった。数ヶ月後 San Diego State University から電話がかかってきて、日本語を教えることになった。 大学の近くにヴェトナム難民コミュニティがあり、私のクラスにもヴェトナム人の若者が何人かいた。翌1979年にはオレゴン大学に就職した。 1年契約の助教授だった。

4. 草の根運動のなかの「わたし」

オレゴン大学のある Eugene に引っ越すと、大学近くの本屋にLakoff の Language and Women's Place が平積みになって売られていた。 100ページそこそこのペーパーバックは、 以前から気になっていた日本語の性差を把握するのにぴったりの議論がいっぱいだった。 日本語社会言語学の教材を準備しながら Female Speakers of Japaneseを一気に書き上げた。録音データを使った実証研究でもなく、 先端のフェミニズム論争に突っ込んでいこうと意図したものでもない。性差別的な日本語文化に生まれ、 性差別的な日本語文化にまみれて育ったわたし個人の直感に導かれて、たまたま学んだ生成変形文法の手法によって日本語の「女ことば」と思われるものを分析してみた。 そしたら、「女ことば」で話すということがどういう「言語行為」なのか、透けて見えてきてしまったというわけである。もう書かないわけにいかなかった。

カリフォルニア大学デーヴィス校で「言語と性差」をテーマに working paper を募集しているというので送ってみた。 査読にあたったらしい日本語関係の研究者のコメントが送られて来た。「こんなことは日本語をやった者なら誰でも知っていることであり新しい発見は何もないが、 性差に注目が集まってきている時代だから、間違いを訂正して書き直す気があるなら、載せてもいいだろう」という趣旨だった。 ちょうどオレゴンでの契約が切れてスタンフォードへ引っ越しの最中でもあったので取り紛れ、結果としてはチャンスを見送ってしまった。 Publish or Perish の世界の厳しさを知らない駆け出し時代だった。

スタンフォードでは、わたしが Ph.D.論文で提案した「助詞」の発達に関する仮説に学科長の Elizabeth Traugott が興味をもってくれ、 何度か発表の機会を作ってくれた。しかし、当時のスタンフォードでは、上記したように、すでに院生のあいだにフェミニズム研究熱が昂まっていて、 院生が立ち上げた Women and Language News (WLN)を言語学部の名前で出版するまでになっていた。言語と性差研究の育ての親である Barrie Thorne注9 もスタンフォードの研究所に招かれてきていた。1981年の秋(10月2日だった)Barrie の住居(スタンフォード教員住宅)で会合があるという知らせが回ってきた。 手書きでBAY AREA GENDER and LANGUAGE DAY/Saturday, October 2nd/ 10AM to 4PM/Potluck Lunch and munchies/chez Barrie Thorne….. とあり、 趣旨が簡単にタイプされ、地図が添えられていた。続いて、バークレーの Ervin-Trippの自宅で会合があるという知らせが届いた。 わたしが参加したのは年の暮れも押し迫った UC Santa Cruzの Wendy Martyna 注10 の自宅での会合だった。この日のことは、写真もメモもないが、 昨日のことのように覚えている。

冷たい雨の降る日、まだ運転免許のクラスで勉強中であったわたしは、連れ合いに運転をたのんで会場に向かった。Palo Alto のアパートを出て、 Sunnyvale, Los Gatos を通って Santa Cruzの町に入る。もらった地図をたよりにガソリンスタンドで道を尋ねながら大学北側の山中、 カーブの多い道を上っていった。わが家のラビット車は長距離を走るとエンストを起こすことが多く、雨の山道が心配であった。無事に着いてほっとした。

Wendy Martyna の家は、木立の中にたてられた山荘風であった。入り口では彼女の夫が子供を抱いて出ていくところだった。男子禁制の集まりだったのだ。 わたしの連れ合いも中に入れてもらえず、雨の中をすぐに下山してスタンフォードに引き返すことになった。途中で車がエンストを起こさないように祈りながら、 いかにも心細そうな表情の彼を見送って中に入った。中には、20人ほどの女性たちがさまざまな格好で床に座り、車座になって情報交換を始めていた。 窓際のテーブルに食べ物が並び、ボトルが数本開けてあった。わたしは、赤ワインを注いだプラスティックのグラスをもって車座に加わった。 ほっとして気がつくと、言語と性差研究の草の根運動にしっかり入り込んでいるわたしがいた。帰りは、サン・ホゼ州立大の Pat Nichols に送ってもらった。 南部農村部に住み込んで黒人女性の言語を長期にわたって調査してきた人である注11 。「フィールドワークをしなさい」とアドヴァイスされた。

5. 一期一会

Bay Area Language and Gender Day の、その会で、わたしはFemale Speakers of Japanese の原稿コピーを何人かに手渡した。そのうちの一部が、 こともあろうに、バークレーのFeminist Issues注12 の編集者 Mary Jo Lakelandに渡り、Advisory editor の Monique Wittig の眼に触れたのだ! そして、Monique 自身の論文 The Mark of Gender に続くページに掲載されることになったのである。コロンビア大学フランス語・ロマンス語学部主催の 国際詩学学会ですでに発表されていたMoniqueの論文は、深い深いところで人称詞の性差別性を論じているもので、 後にわたしの日本語研究のこだわりとなった日本語人称詞の問題につながっていた。その時まだわたしは、そのことにまったく気づいていなかったけれども。

Mary Jo Lakeland とは、1985年のコンファランス (Conference) で隣り合わせに座ったことがある。したたかなフェミニズム第2波一世だった。 Monique Wittig については当時何も知らなかったし、逢ったこともなかった。彼女が MFL(the Mouvement de libération des femmes フランス女性解放運動) の創設者の一人だということ、hetero-sexual contract(社会契約としての異性愛)という概念を提案したradicalな理論家、レズビアン・フェミニストだということ、 そんなことを知ったのは80年代後半になってからだった注13 。すごい人だなー、いつか会えたらいいなーと思っていた。 ある時、グーグル (Google)していて偶然に彼女の訃報が目に留まった。2003年、心臓発作だった。

Bay Area Language and Gender Dayは、第2回、第3回と続いたが、わたしは就職活動があったりして出席できなかった。 インフルエンザ流行のため4回目は流れてしまったが、言語と性差研究ネットワークは急ピッチで進行していた。 Thorne らによる言語と性差研究論集第2弾が整って印刷に入るところだと聞いた注14 。わたしは、1982年夏ハワイ大学に就職が決まってカリフォルニアを離れた。

わたしのハワイ着任後間もなく、カリフォルニアではBerkeley Women and Language グループが立ち上がっていた。もはや草の根運動ではない。 院生中心の公然たる研究グループである。第1回BWLコンファランスに招待を受けたのは1984年初めであった。すぐに大学の日本研究センターに旅費を申請したが、 センターは<そんな会の名前は聞いたことがない>とすぐには受け付けてくれなかった。バークレーから日本研究センター長あてに痛烈な抗議の手紙が届いて、 結局どこから旅費が出ることになったか覚えていないが、とにかくBerkeley Women and Language Group による第1回目のコンファランスに行って大いに刺激を受けて帰島した。発表論文では、<言語は変化するものであり、変えられるものである> という言語観をより明確にし、タイトルはFemale Speakers of Japanese in Transition とした。

時代の風ということもあっただろう。日本語における性差研究は、学科や日本研究センターなどからは敬遠されたが、ハワイ大学上層部は応援してくれていた。 夏休み中のフィールドワークをサポートしてくれたり、Dean主催で Women’s Voices / Men’s Voices: Language and Gender というテーマのコロキアム (colloquium) を開かせてくれたりした。アメリカの研究財団も女性問題の研究に熱心だった。1986−7年には、ニューヨークのSSRC (Social Science Research Council) からグラント (grant) が出て1年間の日本滞在が可能になった。

カリフォルニアを離れたことで言語と性差研究運動の最前線からは遠のいたが、日本のフェミニズムに出合い、日本の女性たちにぐんと近づいた。 神田の古本屋で見つけた駒尺喜美の「「妻」と「近代」」(1977年11月号)には言語と性差についての深い洞察が述べられていたし、 高群逸枝の『女性の歴史』は日本の女性が女らしいことば使いを内面化していった歴史を鋭く描いていた。 日本研究の学生が日本の女性について修士論文を書きたいと言って来たので高群逸枝の話をしたら飛びついて来た注15 。80年代、ハワイ大学にもそんな学生がいた。

1983年、はじめて日本でのフィールドワークに行くことになったが、日本の女性運動についてはまったく経験がなかった。井上輝子さんに助言と協力を求めたら、 丁寧な返事が届いて、国立婦人教育会館での『女性学講座』にお誘いいただいた。それがきっかけで発表した 「言語と性役割」にたくさんの若い研究者や一般の女性が熱く反応してくれた。井上さんは、 その後トヨタ財団の研究費で女性雑誌研究プロジェクトに取り組んでいたが、その仲間にも入れていただいた。日本の若い研究者たちとの合宿討論は、 アメリカの大学ではできない経験だった。

フィールドワーク中、言語と性差研究を最初に日本に紹介した井出祥子さんともコンタクトがとれた。その後、 京都ウィメンズブックストア松香堂のニュースレターで『ことば』を見つけ、編集した遠藤織枝さんを探し当てた。91年、遠藤さん、井出さんと女3人、 日本語性差研究の将来を語り合ったのはニッコーキスゲの咲き広がる蓼科高原であった。1年後、 現代日本語研究会のメンバーを中心に女性20人による3日間のワークショップが実現した。94−5年、神戸甲南大学国際交流センターの resident director として滞日中、 阪神淡路大震災で東灘区の住宅が崩壊。たくさんの、たくさんの友人に支援されるなかでセンターは閉鎖。経過報告に出向いたワシントンD.C. では、 ポトマック河畔の桜が満開だった。桜吹雪の明るさが無性に悲しくて地べたにしゃがみ込んで泣いた。その夏に行われた蓼科ワークショップには、 寿岳章子さんも参加された。「ああ、美しい!」と山の緑を称える寿岳さんの声が聞こえてくるようだ。

インタヴューという名目で大勢の日本の女性たちに出会い、東京および近県のさまざまな運動グループの会合、中学校の教室を観察してまわった。 雨の日の日本母親大会、夫婦別姓の会、女性校長の集まり、PTA役員会、労働省や都庁の女性管理職、「れ組」メンバー・・・。 わたしにたくさんのことを教えてくれたあの人たちに再び巡り会うことがあるだろうか。 人生(Life)は、まさに「一期一会」だ。

6. フェミニズム研究理論と実践

言語と性差研究は、社会・言語の変革をめざす実践との接触・一体化を旨として出発した。研究室に閉じこもってする言語研究と違って、 既成の学問区分の内側では把握できない現実をしっかりと見ていかなければならないという考えだった。だから、言語と性差研究には、 アカデミアの世界にない人間的な出会いがたくさんあった。ここではわたしが関わった二つの実践活動を思い起こしておきたい。

6.1. The Honolulu Committee on the Status of Women, Media Task Force

かつて EALL (East Asian Languages & Literature) の学科長であった John De Francis に誘われてホノルル女性の地位委員会の委員になった。 共和党ながら、ポピュラーだった Frank Fasi 市長の時代であった。ホノルル市庁舎は、King St.と Punchbowl St.の角にあるスパニッシュ風のコロニアル・ スタイルである。歴史的建築物に指定されている。(ホノルルにいらっしゃったら、ぜひ見てください。 日本のツーリストが必ず記念写真を撮りにいくカメハメハ大王銅像のすぐ近くです。)二階の角が市長室。そこで市長に向かって右手を上げて宣誓する。 子供の時から儀式が嫌いだったわたしだが、なぜかこれをやる時だけはわくわくした。中学生の時に「新しい憲法」 を教えてくれたM先生の真剣な表情を思い出してしまうようなのである。

I do solemnly swear that I will support and defend the Constitution of the United States, and the Constitution of the State of Hawaii, and that I will faithfully discharge my duties as a member of the Commission on the Status of Women ... to best of my ability.

3年が1期で、2期務めた。わたしは メディア・タスク・フォース(MTF)に属し、隔月の女性の地位委員会と月一度のMTFミーティングに出席した。 新聞・雑誌・テレビ・広告などをチェックし、差別的な英語に対してどんな行動を起こすか話し合う注16

わたしをMTF につないでくれたJohnは、 中国語の専門家であった。この頃彼はリタイアして著作活動に打ち込んでいた。多数の中国語テキストブックを出し、辞書を編纂し、社会・文化・ 言語についての著書もある。貧困が蔓延し、大多数が文盲だった中国を見ていたJohnは、彼らに読み書き能力を行き渡らせること、 漢字を廃しローマ字書きを取り入れることを党指導部に進言したが受け入れられなかったという。そのことに失望して中国を離れ、 以来、中国に一度しか帰っていない。わたしは、Johnの漢字廃止論には同意できかねたが、彼の平等主義は本物だと思った。 第2波フェミニズム運動の初期からずっと NOW (National Organization of Women) の会員でもあり、英語の脱性差化にはだれよりも積極的で、 新聞の投書欄では保守主義者たちを批判した。州庁舎でのMTFミーティングに行く時、わたしはいつも彼にピックアップしてもらった。 難聴になっていたが短気な運転であった。  連れ合いを早くに亡くし、一人暮らしであった。自炊も板についていて、手作りのレンズ豆ランチに呼んでくれたりした。人情深い人柄でもあった。 中国語社会言語学専門の同僚が癌で亡くなった時、弔辞を述べに進み出たJohnが声を詰まらせ、泣き崩れた光景が忘れられない。 98歳で亡くなるまで中国語辞典の編集に打ち込んだこの先輩をわたしは心のそこから尊敬し、彼に巡り会えた偶然に深く感謝している。 言語と性差研究の縁であった。

MTF を創設し、グループを引っ張ってきた Ruth Liebanも Johnと前後して亡くなった。地元の新聞雑誌に丹念に目を通し、 問題を見つけてはコピーを配ってくれた。長々と説明するRuthにちょっと辟易することもあったが、彼女ほど時間があり、仕事ができる者はほかになかった。 帰りの車の中で短気のJohnはTHAT WOMAN! と舌打ちしたあと、But she IS a hardworking woman! と彼女の働きぶりを認めるのだった。 Ruthから渡された新聞雑誌の切り抜きやメモがいっぱいある。もう使うことはないと思うものの、捨てきれないでいる。90年代半ば、 英語の脱性差化運動は明らかに一つの節目を迎えた。

6.2. President Commission on the Status of Women, University of Hawaii

90年代はじめ、ハワイ大学学長の諮問機関である University Commission on the Women’s Status に推薦され、 教職員の給与是正という大仕事があった年に委員長まで務めてしまった。「こわいものしらず」の軽挙であったとも言える。委員長はRobert's Rules of Order というルール集に則っててきぱきと会を進行することになっている。(日本の英語教育では教えてくれませんでした!)歴史的な「給料是正」 をなんとか果たせたのは、経験もあり、統計調査に詳しいメンバーにしっかり支えられたおかげであった。

任期中いくつかのイベントを企画した。一つは、Women’s History Monthに講演会を開催すること、 一つはコミュニティーの活動家たちを招待してパーティを開くことであった。

Robin Lakoff 講演会:Women’s History Month は、女性が人類の歴史に寄与して来た事実を祝う月ということで、アメリカでは3月がこれに指定されている。 ハワイでも3月中、あるいは、その前後にさまざまなイベントが企画される。大学の女性の地位委員会として、講演会を開くことになった。わたしは、 松井やよりさんを講演者として推薦した。松井さんからどっさり資料が送られて来た。しかし、「松井さんを知っているというジャーナリストが松井さんについて negative な評価をしている」という発言があり、「アカデミックでない」という批判もあって受け入れられなかった。「アカデミック」 という条件にわたしは大不満だったが、時間が迫っていた。(松井さん、ごめんなさい。)代わりに提案したRobin Lakoff はすんなりと受け入れられた。 資金集めと広報活動に忙しくなった。MTFのRuthがいくつもの女性団体にコネを付けてくれ、おかげで200ドル、50ドル、300ドル・・・と寄付の約束がとれた。 大学でも law school、ethnic studies、Commission of Diversity などガ100ドル、50ドル・・・と出してくれた。 Lakoff は、 大講演会のほかに二つの講演を引き受け、ヒロ・キャンパスにも飛んでくれた。地元新聞2社と大学新聞に記事を依頼し、 キャンパスの掲示板にフライアーを貼り付けて回った。かいあって、どの講演も大盛況であった注17

Alice Cook 90歳のパーティ:Aliceは、戦後日本の女性労働者の問題に深く関わった「進歩的」女性研究者。北海道から九州まで日本各地の労働現場を視察し、 指導して回った実践家でもある。Aliceがフルブライトの研究費をもらって日本に行ったのは1962年、50歳になろうとしていた。 未知の文化にとけ込むのがそろそろ難しい年齢である。カルチャー・ショックもいっぱい経験している。 けっしてアメリカ文化の押しつけにならないように気を配りながら、たくさんの日本人女性と分け隔てなく付き合い、 アメリカの女性と日本の女性の架け橋となった人である。

コーネル(Cornell)の冬は寒い。Retiree となったAliceは、毎年1月にハワイにやってきて、3月終わりにコーネルに帰って行った。いわゆる snowbird である。 ハワイでは、シンクレア図書館3階にある Industrial Relations Center で自伝 A lifetime of Labor—The Autobiography of Alice H. Cook の執筆に専念し注18 、 昼過ぎにはかならずプールへ泳ぎにいっていた。センター長は、地元の労働問題研究家 Joyce Najita、温かみのある日系アメリカ人女性である。 センターには日本の労働問題関係者がよく立ち寄る。男女雇用機会均等法立案に関わった赤松良子さんとも昵懇の由。 わたしが福岡大学法学部の林ひろ子さんと出会ったのもこのセンターだった。

女性差別的な問題が起こるとわたしたちはAliceを巻き込んだ。感情的になりがちな当事者に耳を傾け、労働問題調停者の観点から実践的な助言をしてくれた。 90歳になっても、日本で知り合った大勢の女性の名前を正確に記憶していたのには驚かされた。日本人移民 Mrs. Hata の経営する Japanese restaurant のファンで、 いっしょに昼食を食べに行ったことがある。ハワイでは数少ない、糠味噌漬けのきゅうりを出してくれる店であった。

コーネル大学の女性たちがアリスの90歳の誕生日を記念してフィルムを作った。わたしは、 ハワイでもAliceの誕生パーティをやってしまおうと女性の地位委員会にもちかけた。Campus Center の特別食堂にゲストとハワイ大学関係者を合わせて100人以上が集まった。リタイアした政治家・市民運動家も大勢やって来た。熱気のなかでAliceはレイに埋まり、 会場のあちこちでキスとハグが起こっていた。

90歳誕生パーティのあと、Aliceはハワイには来ていない。子供の世話にはならず、リタイアしたコーネル・ガールたちと同じアパートメント・ ビルディングに住んで、独立的で共同的な生活を送るのだと言っていたが、それを実行していたらしかった。80歳、90歳代のシングル・ ウーマンたちの自立的で友情に満ちた助け合い生活をわたしは一度は見てみたいと思った。東部に来たらうちに来なさいと言ってくれていたのに、 チャンスを作らなかったことを悔いている。自伝出版の前後、1998年に亡くなった。

7. 「日本的言論風土」という壁

90年代に入る頃からだろうか、日本では、性差(別)状況がアメリカほど変わらないような気がしてきたのは。江原由美子さんのことばが心に残っている——— 日本の女性たちも日本語が性差別的であるということに気づいてはいるのだけれど、「日本の言論風土のなかではそういう気づきを『コトバの性差と性差別の関係』 という研究方向にもっていくことがすごく難しい」注19。わたしが比較的早くアメリカ的なフェミニズムの構えで日本語の性差分析に取り組んでしまったのは、「日本的言論風土」の外にいたおかげで、そのことがよく分かっていなかったからかもしれない。言語上の性差(別) の意味が分かりさえすれば日本語も変えられるはずだと単純に信じていたのだろう。だから、アメリカの言語と性差研究の成果を日本の女性たちに伝えたい、そして日本にも言語と性差研究運動をおこしたいと考えてしまったのだろう。ことは、それほど単純ではなかった。

スタンフォ—ドに滞在した頃(1981-2) Robin Lakoff の Language and Women's Place の翻訳を試みていた。ハワイに着任後本気で取りかかり、 1985年出版にこぎつけた注20 。Lakoffの原文は、100ページそこそこのペーパーバックで、参考文献もほとんどついてないが、これをいくつもの節に分割し、 わかりやすいように見出しを付け、訳者註をつけたら169ページにもなった。30ページ以上の長い解説も付けた。興味深いのは、翻訳本の装丁である。タイトルは、 編集担当者のアイディアで、おとなしく『言語と性』となった。原著の表紙には絆創膏(バンドエイド) で口を塞がれた女性のいかにも神経質そうな顔が大写しになっているが、訳本カバーは、何もない薄いベージュ色、上品な黄色のカバーがかけられた。

2年後に Dale Spender のMan Made Language の日本語訳を『ことばは男が支配する』という大胆なタイトルで出版した。原著は、すでにLakoff批判が総括され、 一段とradicalな研究が続々と発表されていた欧米の状況を詳細に伝えている。解説にも書いたように、1984年にはアメリカ言語学会の主流 LSA (Linguistic Society of America) でさえも「言語と性差シンポジウム」を組み、MLA (Modern Language Association) も、SpenderをSpecial lecture に招いた。 それほど、言語と性差研究は容認され、広がっていたのである。しかし、「日本的言論風土」では『ことばは男が支配する』は時期尚早だったようだ。 ある新聞社のロビーでインタビューに応じてくれた女性ジャーナリストは、「ここに書かれたことは、一々ホントなんだけど、日本じゃまだ早すぎますねー」 とため息まじりに忠告してくれた。

「日本的言論風土」ってなんだろう。いつも頭の後ろのほうで考えていた。そして、前々からデータを集めていた日本語人称詞の問題にのめり込んでいった。 人称詞はディスコース主体を言語的に指定するしくみである。だから、人称詞の観察を通してその言語が使われる社会の主体のありようが 見えてくるだろうと考えたのである。

日本語は世界でもまれな多数自称詞言語である。言語主体が自分自身に言及する語——自称詞——が古語化・廃語化したものも含めると100以上ある。 対称詞も、自称詞以上に数が多いだけでなく、その使い方が複雑である。誰に向かって話す時でも “I”は “I”、“you”は “you” でしかない英語のような言語の話し手たちとは、主体のありようが違って当然である。深く立ち入るスペースがないが、 自他の区別の曖昧な前人称詞的土着日本語の相は、漢語自称詞輸入以後もずっと続いて来ている。さすがに、 同じことばが自称詞にも対称詞にも使われるということはほとんどなくなったが、人称詞の選択基準はいまもって漠然としている。 長田弘(2002)が憂慮しているように「この国の言葉をなにより際だたせてきたのは、どんな言葉でもなく、みずからを語るべき一人称の揺らぎである」注21 。 「僕]も「わたし」も揺らいでいる。人称詞問題をどうするか、日本語の現在・将来を考える上で避けて通れない。自立した個として主体的にものを言うことができなければ、現実問題に関わる議論は日本の内部で成り立たない。結果として、日本は外部に向かって「イエス」「ノー」をはっきり言えないだろう。外部を一方的に受け入れるのでも、外部に対して閉ざすのでもなく、他者と自立的に関わっていくためのコミュニケーションを拓く意志——それこそ日本が必要としているものであろう。日本語における性差の研究も例外ではない。

2008年1月「日本語ジェンダー学会」の国際研究会のお手伝いをしながら思った注22 。「日本語における性差」 というようなきわめて日本的なことがらをグローバルな研究トピックにしていくことによって「日本語の壁」に穴が開き、「日本的風土」 の風通しがよくなるかもしれない——。折しも、アメリカでは大統領予備選挙が始まり、わたしの周辺にも歴史的な社会変化の兆しが現れ始めていた時であった。 そして11月、オバマ大統領が出現した。前年にはNancy Pelosiが女性として始めて下院議長に就任していた。 2010年ハワイ州の新知事は Sabrina McKenna をハワイ州最高裁判事に任命した。ハワイ初の openly lesbian/gay 判事の出現である。 21世紀、これからどんな transformation の時代になるだろうか。日本も変わる、変わらなければならない。

おわりに

言語と性差研究の旅は、少しだけではあったが時代の風に押され、たくさんのすばらしい出会いにめぐまれて楽しかった。 (伝統からの抵抗やretaliation(報復)もなかったわけではありません。)世界の言語と性差研究は、これからどう変わっていくのだろうか。 Anita Tailorのことばを紹介して終わりにしたい。Anitaは、言語と性差研究の船が理論戦争の波に飲み込まれそうになった 80年代半ばに Women & Language注23 の編集を引き継ぎ、 その時々の issue に challenge しながら20年間、むずかしい舵取りをしてきた人である。目立ちたがらず、公平で inclusive なフェミニストであった。 2010年引退した。

Of course, much HAS changed in those years,… But as those of us who lived those years know: Much has not changed. No doubt, the changes set in motion a century and a half ago (… ) have created a current that will not be turned back…       ー  From “Farewell Editorial” Women and Language, Vol.32, No.2 .p.82

そう。フェミニズム、グローバリゼション、多様化、どれも current(流れ)だ。止めることも、元に戻すこともできない激しい時の流れだ。 言語と性差研究は、そうした流れがぶつかり合うなかで、いくつもの流れに分離し、融合しながら、方向を模索している。

2010年7月3日、初めて「在外投票」を経験した。領事館の守衛にパスポートを見せて仮設投票所の階段を上がると、室内は日本領だ。 緊張した空気がみなぎっている。投票を終えて地上に降り立つと、日本の外だ。ほーっとする。雨があがって、 シャワーフラワーの花びらを浮かべた水たまりがまぶしく照り返している。わたしが肩をすくめてみせると、 真っ黒に日焼けした顔の守衛は巨体を揺さぶってあっはははと笑った。わたしは「在外日本人」なのです。日本の外から「日本語の性差(ジェンダー)研究」 「日本的言論風土」の行方を見守りたい。日本の復興を祈りたい。日本よ、がんばれ!

  1. この研究領域にはいろいろな呼び方がある。はじめは women and language studies, sex and language studies などと呼ばれたが、最近は language and gender studies が一般的である。Sex/gender の意味・用法の混乱については、 1996年国連委員会でも議論された(この件については、2008年ハワイ大学で行われた日本語ジェンダー学会研究会でのパネルでも論じたので参照してください)。 ここでは、用語の問題に深入りせず、ゆるやかに「言語と性差研究」と書き、「性差」を「せいさ」「セックス」「ジェンダー」のいずれと読むかについては、 読者におまかせしたい。本文に戻る
  2. Reischauer (1977), p.380-381.本文に戻る
  3. Research Method としての life writing は、従来からある biography よりは、社会的背景の記述に重点がある。 1999年に北京で立ち上がった IABA(International Auto/Biography Association) は、隔年に国際学会を開催し、世界中の研究者を集めて活発な活動を行っている。ハワイ大学でも Center for Biography Research が正式に設立されて20年あまりになる。2008年には、第6回のコンファランス Life Writing & Translations を主催し、すばらしい成果を見せた。特にケネディ劇場で行われた Special event“ Pacific People: An Evening of Telling Lives”の演出は、ハワイの人々自身の視点からのハワイ史で、感動的に autobiographical であり、multi-lingual, multi-medialであった。夜11時閉幕まで会場を出て行く参加者はほとんどなかった。自明化している境界から逸脱し、個人的経験を政治的歴史状況に配置して語りだすスタイルを使って複合的な問題に新たな光を当てている。最近届いた情報に Life Writing and Human Rights conference, Conference on Displaced Women: Multilingual Narratives of Migration in Europe, Voices of Women in the Americas" などある。Women's Life Writing Network(<http://www.womenslifewriting.net.)もスタートした。本文に戻る
  4. 欧米各国で話題になった歴史保存活動に北アイルランド紛争の歴史を一般市民の視点から描こうとした歴史叙述プロジェクトにTroubled Images: Posters and Images of the Northern Ireland Conflict がある。政治集会のポスター、チラシ、メモ、獄中手記(トイレット・ペーパーに小さく書かれ、獄外に届け られたものもあるという)などを集めたlife writing の模範とされる国際的な移動展示館である。記録されたものはすべて潜在的な歴史文書である。本文に戻る
  5. 日本語と英語の境界で生活している者の言語は、多かれ少なかれ、日英のハイブリッドであり、それが自然である。 明治時代日本語が言文一致への途上にあった当時、日本語の書きことばは「和漢洋合体ノ鵺(ぬえ)文」であったとも言われている。 コード・ミックシング (code mixing)は新しい言語、新しいスタイルを創出するエネルギーである。この問題は、 いろいろな視点からじっくりと論じられる必要があろう。本文に戻る
  6. 当時配布された会議録は、カーボンの色があせて読みにくくなっているが保存してあった。本文に戻る
  7. Historical Study of Old Japanese Syntax, UCLA PhD dissertation (1977).本文に戻る
  8. Reynolds (1976).本文に戻る
  9. 言語と性差研究元年と言われる1975年、この領域での始めての論集Language and sex: Difference and dominance (1975)を出版し、 70 年代の言語と性差研究を推進した人である。本文に戻る
  10. 1978年 generic masculine (he/man を人間一般の表象として使う習慣)を社会心理学の立場から分析し、 その性差別を批判したPh.D.論文でスタンフォード大学を出た。本文に戻る
  11. 人類学者や社会学者がよくやるparticipant observation(参与観察) に強い人である。本文に戻る
  12. Feminist Issues がどのようにして始まり、その後どうなったかさえも知らずにいた。参考に送られて来たバックナンバー表紙裏には国信潤子さんの名が Correspondents の一人として記されていた。今回図書館にもぐりこんで調べてみたら、1993年あたりから、カラフルだった装丁がベージュ一色に固定し、 編集者が代わっていた。Maryの名前もMonique の名前も消えている。1998年には Gender Issues と改名されている。Vol. 2:2 が1册だけamazon.com で used book として売られている。ほかの号はみあたらない。本文に戻る
  13. わたしは、radical ということばを、<過激な><急進的な>という意味ではなく、<問題の根っこを探る>という意味で使う。 Monique Wittig のことは、日本ではあまり知られていないようだが、彼女の著作の何冊かは日本語訳され、出版されている。たとえば、 「レスビアンの躰」が中安ちかこ訳で講談社から(1980年)、「子供の領分」が小坂井伸二訳で白水社から(2004年)出ている。本文に戻る
  14. Thorne, Barrie, et. al. (Ed.) (1983).本文に戻る
  15. Christine L. Andrews (1990). 彼女はその後法学部に入り、弁護士として活躍している。本文に戻る
  16. MTFの活動については、れいのるず=秋葉(1955)、その他に詳しく書いた。本文に戻る
  17. ハワイ大マノア校での二つの講演については、『ことば』14号で報告し、産経新聞でも「性差言語学のパイオニア、ロビン・レイコフさん、 ハワイの連続講演大盛況」という大見出しで、大きく扱ってくれた。本文に戻る
  18. Aliceのメモワールは、Feminist Press の The Cross-Cultural Memoir Series の一冊として出版された。伝記には、 日本全国のの女性たちとの交流が記述され、写真が掲載されている。本文に戻る
  19. れいのるず(1993、22−23ページ)。本文に戻る
  20. 1985年の初版は、川瀬裕子さんとの共訳。1990年新訂版は、初版の間違いを訂正し、Lakoffとの一問一答を加えて「れいのるず」の単独訳になっている。本文に戻る
  21. 詩人で心理学者でもある「しま・ようこ」さんから送っていただいた記事の一つである。しまさんの深い洞察には、いつも刺激された。本文に戻る
  22. わたしの表面的な言語観察を真摯に批判していただいたことに深く感謝している。本文に戻る
  23. 研究会プログラムは、当日のスナップ写真も含めてで見られる。Women & Language が言語と性差研究の立ち上げに重要な役割を果たしたことは、『おんなと日本語』(れいのるず1993) などに書いた。 Anita Tailor のあと、Michigan Technological University の Patty Sotirin が編集を引き継ぎ、体裁を新たにして活動をつづけている。 *海外からも年間 $30.00 で購読できる.本文に戻る

*URL: http://communication.gmu.edu/womenlanguage 

引用文献

(*を付した論文は < University of Hawaii Scholarspace> で見られる。)

  • Andrews, Christine L. 1990. “Takamure Itsue: Feminist, Anarchist, Historian,”MA Thesis. University of Hawaii.
  • Center for Biographical Research, University of Hawai’i at Mānoa. 2008. Life Writing & Translations, 2008 Internatinal Auto/Biography Assocation program.
  • Cook, Alice, H. 1998. A Lifetime of Labor—The Autobiography of Alice Cook. New York: The Feminist Press at the City University of New York.
  • Reischauer, Edwin O. 1977. The Japanese. Cambridge, Mass.: Harvard University Press.
  • *Reynolds, Katsue A. 1985. Female speakers of Japanese. Feminist Issues, 5(2), 13-46.
  • *Reynolds, Katsue Akiba. 1976: Switch reference in Old Japanese,
  • Proceedings of the Third Annual Meetings of the Berkeley Linguistics Society, pp. 610-19.
  • Tailor, Anita. 2009. Fairwell Editorial, Women & Language, Volume XXXII, Number 2. P. 82.
  • Thorne, Barrie, & Nancy Henley. 1975. Language and sex: Difference and dominance. Rowley, Mass.: Newbury House.
  • Thorne, Barrie, Cheris Kramarae & Nancy Henley (eds.) 1983. Language, gender and society. Rowley, Mass.:Newbury House. et. al.
  • Van Dijk, Teun A. 1997. Editorial: The imperialism of English. Discourse & Society 8(3): 291-2.
  • Van Dijk, Teun A. 1998. Editorial: Discourse studies. Discourse & Society 9(4): 435-6.
  • 長田弘「変わらぬこの国の不確かさ映し出す」『朝日新聞』夕刊  2002年6月6日
  • 寿岳章子『日本語と女』岩波新書、1979
  • 駒尺喜美「「妻」と「近代」」、『伝統と現代』49(1977、11月)
  • れいのるず=秋葉かつえ編著『おんなと日本語』有信堂高文社、1993
  • *れいのるず=秋葉かつえ、「アメリカにおける言語変革の実践――メディア・タスク・フォースの場合」 『ず・ぼん』2,1995、60-67。あるいは、"湯浅・武田編著 『多文化社会と表現の自由』(明石書店)、1997、111-128.

(Katsue Akiba Reynolds, Professor, University of Hawaii at Manoa)

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