学会誌『日本語とジェンダー』第18号(2019)
論文・講演の要旨(一部)
【招待論文 要旨】
わたなべまさこ『おかあさま』における修辞的男装 ― ジェンダー越境とジェンダー・イメージ― -------- p.1
谷口 秀子(九州大学)
要旨
本論文では、わたなべまさこ作の少女マンガ『おかあさま』(1961-1962)における女性登場人物である礼子の「ぼく」という男性自称詞といわゆる「男言葉」に近い言葉の使用による修辞的な男装と礼子の発言と行動に焦点を当て、礼子のジェンダー越境について分析を行う。作者は、礼子に修辞的男装をさせることによって、「男性性」のイメージと因襲的に「男性性」と関連付けられている主体性や行動力などの特質を礼子に付与し、礼子のジェンダー越境を可能にしている。一方で、男性の記号の借用によるジェンダー越境とエンパワーメントは、「男性性」の「女性性」に対する優越を前提としたものであり、既存のジェンダー格差やジェンダーの非対称性を強化し再生産する可能性がある。
1.はじめに
わたなべまさこによる少女マンガ作品『おかあさま』1)は、少女マンガ黎明期の1961年から1962年にかけて、小中学生を主な対象読者とする少女マンガ雑誌『りぼん』2)において連載された。一般に、少女マンガは、少女を対象としているため、少女にとって心地よく共感が持てるテーマや内容の作品であることが多く、ロマンティックで非現実的な設定も珍しくはないが、時には、少女たちが置かれた状況を反映し、少女たちの抱えている問題に解決の糸口を示すものでもある。『おかあさま』は、当時人気のあった「母子もの」のジャンルに属し、生家の経済的困窮のため生後まもなく裕福な家庭の養女として引き取られ、出生の秘密を知らされないまま何不自由なく成長した小学生のヒロイン桃代3)が、養父の死などの苦難を乗り越え、生みの母との絆を取り戻す物語であり、同時に、絶縁状態にあった養祖父(以後、「祖父」と表記)4)との和解により家族が再生する物語ともなっている。
[書評]
『今どきの日本語 ― 変わることば・変わらないことば』-------- p.17
(遠藤織枝編、ひつじ書房、2018年)
銭坪 玲子(長崎ウエスレヤン大学准教授)
本書(初版第一刷、236pp.)は、「シリーズ日本語を知る・楽しむ」の第一弾『古文を楽しく読むために』(福田孝 2015)に続く第二弾として刊行されたものである。また、ページを開けば、現代日本語研究会による『談話資料 日常生活のことば』(2016)の付属資料から引用されている発話・会話例が随所に見られ、『談話資料』の続編ともいえることがわかる。前著は13編の論文に加え、談話の文字化データがCD-ROM として付属されており、研究者向けの体裁をとっていたが、それとは対照的に、本書はタイトルも内容も親しみやすく、一般の読者も比較的手に取りやすい仕上がりになっている。
内容は、「ことば編」と「コミュニケーション編」の2つに大きく分かれており、全12章と「はじめに」から構成されている。「江戸時代から生きてきた『やばい』の今」、「『この本、おもしろいっていうか』という心理」等、各章のタイトルも読者の関心を引き立てるような工夫がなされており、語り口も丁寧体(です、ます体)で軽やかで、巻末の「参考文献」も章ごとに数冊示されている程度である。とはいえ、巻末には「索引」も掲載されており、エッセイ本としての趣をまとった学びへの誘いの書籍だといえる。初学者の学習の動機付けにふさわしい本である。
【第18回年次大会 基調講演 要旨】
ことばとジェンダー研究 ― 私の視点 ------- p.23
遠藤 織枝(元文教大学大学院)
1.はじめに
日本語の研究者が日本語をジェンダー― 社会的性差― の視点で考えるようになってから、まだ日が浅い。日本語の性差の研究は「婦人語」の研究として戦前から行われてきたが、その研究は、性による言語の違いの研究にとどまるものであった。今回は、そうした研究から、社会的に作られた性差と言語の研究への道筋をたどることにする。同時に研究方法の変化、研究対象の広がり女性間の連携についても述べる。さらに今後の課題について考えてみたい。
2.日本語の性差
日本語には「女性語」という、女性特有のことばがあり、日本語は性差が大きい言語であると言われてきた。
しかしながらこうした性差は、日本語の歴史の中にもともとあったことがらではない。遠藤(1997)は、日本の女性のことばの歴史を以下のように概観している。奈良時代には顕著に見られなかった性差が、平安時代に、漢字は男性、平仮名は女性という文字遣いの差として現れ、鎌倉時代には男女のことば観に差が出てくる。室町時代の初期には女房詞が生まれ、江戸時代には女性のことばの手本とされる。
明治期学校教育の普及とともに女房詞の伝統をうけて形成された「女性語」が全国的に取り入れられ、日本語の性差が強化固定化されていく。
【第18回年次大会 パネルディスカッション:ことばと性差 ー 何が問題なのか 要旨】
「ことば遣いのジェンダー政策:「女性語」を話すことの意味 -------- p.29
斎藤理香(ウェスタンミシガン大学)
「近代」化は、それと対立する「前近代」を生み出し、社会のあらゆる分野における「ジェンダー」化をうながした。この場合のジェンダー化とは、江戸時代から明治時代にかけて社会構造が変革され、士農工商の身分制度が崩壊し、建前の「平等」が浸透しつつある世の中において、新たな秩序が台頭してきた、ということをさしている。さらに言うと、女性が「国民国家 nation state」の一員となりながらも、男性とは区別され、二線級の地位に甘んじなければならなかったことを意味している。
まず用語について。ここでは、言語思想史や言語政策を論じる際の用語として、明治の近代国家における標準語として想定されていた日本語を、「日本語」または「国語」とする。また、ニュートラルな言語の一つを意味する場合は「 」なしの日本語、とする。なお、現在、国語(「 」なし)というと、一般的に教育科目という意味合いが強いが、「国語審議会」(2001年以降は「文化審議会」に名称変更)のように、政府の関係機関等で、第二次大戦後も「国語~~」の用語は継続して用いられている。「女性語」というのは、女性だけが用いると考えられている特定の語彙や言い回しや文法形式のことではなく、「女性は、こう話すべきである」というような社会規範を女性自身が内面化し、その結果として表出する言語表現や言語行動のことである。これを、社会規範としての「女性語」とよぶ。「ジェンダー政策」とは、性差・ジェンダー差を軸とした政策のことで、明治以降から第二次世界大戦前までの性別分業を基本とした学校教育制度や、男性のみに認められた参政権などの政策などをさす。
ジェンダーと(イン)ポライトネス:ステレオタイプ的見方を再生産していないか?-------- p. 32
松村 瑞子(九州大学)
ジェンダーとポライトネスの関係については、Lakoff( 1975)、Holmes(1995)、井出(1985;1997)、松村(2001)、Mills( 2003)、宇佐美(2005)、因(2006)、Suzuki (2007)、三牧(2013)を始め、数多くの研究が行われている。
Holmes (1995)は、「女性は男性よりもポライトである」と結論付けた上で、誰が発話権をとって話すか、ヘッジやブースターの用法、褒めのストラテジー、謝罪のストラテジーについて、Brown and Levinson( 1987)のポライトネス理論に基づいた量的分析を行い、この結論への証拠とした。
この Holmes( 1995)の分析への再検討の必要性を論じるのがMills( 2003)である。Mills は、話し手、聞き手、コミュニケーションのモデルについての言語学的解釈の問題点、Brown and Levinson( 1987)のポライトネス理論に関する問題点を明らかにし、これまで殆ど分析されてこなかったインポライトネスという観点からポライトネスについての議論を行った。次に、ジェンダーについての言語学的分析については、「女性は男性よりポライトである」という仮定的なジェンダー・ステレオタイプとジェンダーについての理論的見解については明確に区別する必要があることを論じた。例えば、Holmes(1995)の議論について、「平均すると、女性は男性よりも理解や認識の向上につながりそうな種類の会話に相応しい文脈を作るのに優れているという十分な証拠がある」(217)など、自身の仮定的なジェンダー・ステレオタイプに基づいて議論を進めている部分があることが彼女の分析の問題であると指摘する。
ジェンダーをめぐることばの受容と矛盾:乗り越えてきたこと、乗り越えられないこと-------- p.35
佐々木恵理(獨協大学)
1980年代半ばごろまでは、日本語には「女ことば」と「男ことば」があり、およそ女は「女ことば」を、男は「男ことば」を話すとみなされてきた(壽岳 1979、井出 1979)。しかし、本質的な意味において、「女ことば」や「男ことば」というものがあるのか、あるとしたらそれは具体的にどのようなことばなのか、また実際に女であれば「女ことば」を、男であれば「男ことば」を使っているのかという疑義が起こり、その後、特に1990年代以降、多くの研究によってその実態が明らかになってきた。1990年代は、性差別語が性中立語に積極的に改められた時期でもあるが(佐々木 2001)、これは偶然ではないであろう。
「女ことば・男ことば」は、社会の規範から作り出されたことばづかいであり(中村 2007)、それぞれのことばは2つの性別に振り分けられ、その時代が要請する女と男のあるべき姿を映し出してきた。また、「女ことば・男ことば」は丁寧さ(ポライトネス)の程度・差異であり、女がより丁寧なことばを使う(使わされている)ことから、女が言語的に、つまるところは社会的な劣位におかれていることが示された(宇佐美 2006)。実際には、女が「女ことば」を、男が「男ことば」を固定的に使っているのではなく、場面や立
場、話す相手によって、もっぱら会話の戦略(ストラテジー)として横断的に使用していることは自然談話の資料からも見て取れる。
【第18回年次大会 研究発表 要旨】
「主婦向けテレビ番組」に組み込まれる前提としてのジェンダー・イデオロギー-------- p.38
西野由起江(大阪大学大学院生)
家庭にいる人を対象とするテレビの情報・ワイドショー番組では、主婦を含む女性へのジェンダー・イデオロギーがゆるやかに再生産されている可能性がある。そこで制作・編集され、日々視聴者に向けて送り出されている「役立つ情報」は、主婦や女性のありかたを形成するための世論を作り出す啓発番組としての側面を持っていると考えられる。そうやってメディアを通して送出される情報によりジェンダーに関する常識や規範としてのジェンダー・イデオロギーが大衆にとって正しいこと、あるいは常識として認識されていくのではないだろうか。「主婦」という語には、人々の意識下で(辞書的意味の他に)社会構造に結びつき歴史的社会的に構築されてきた様々なイデオロギーが付随しているが、それはこれらの番組が情報として扱う家事、育児、家庭教育、介護などは主婦に課される役割として受け入れられてきたからである。
本発表では、批判的言語学の視点とジェンダー・スタディーズの立場から、主婦向けテレビ番組の談話行動を考察した。主婦向けテレビ番組が想定・設定している主婦像には、社会で共有されている「主婦」と言う語に対するイデオロギーが含まれており、番組中の談話行動を通して家庭内での性別役割についての前提が示されると考えられる。
上海蔵書楼に残る戦時「女子手紙の書き方」本のジェンダーを考える -------- p.41
河崎みゆき(國學院大学)
上海市にある上海蔵書楼は、上海図書館の別館で、1949年の新中国成立時に列強各国が帰国していく中で残していった外国語の書物を保存している。その所蔵された資料の中の日本語書籍目録を見ると、女子用国語読本や女子作文といった大正時代から第二次大戦中にかけての女学校の教科書と思しきものが数多く残されていることがわかる。第二次世界大戦中、上海にはピーク時10万人の日本人が住んでおり、小学校が十数校、商業学校、女学校があったため、そうした学校で使用された教科書または各学校図書館の所蔵の実用書であったと考えられる。
日本語とジェンダーの研究において、その研究の多くははなしことばの研究であり、(中略)「手紙の書き方」本におけるジェンダーの問題を扱った研究は見当たらない。
本発表は、この日本の国会図書館には所蔵されておらず、上海において散逸を免れた「手紙の書き方」本の内容を報告する一方で、「戦時中の手紙文」という特殊な書きことばに現れるジェンダー(どう書きなさい)を検討することにより、日本語とジェンダー研究及び歴史社会言語研究に資することを目的とした。
【第19回年次大会 パネルディスカッション:アサーティブネスとジェンダー 要旨】
アサーティブトレーニングとジェンダー―その可能性と課題― -------- p.45
入江 詩子(長崎ウェスレヤン大学)
アサーティブは、直訳すると「断言的な」「断定的な」という意味で、「自己の意見をはっきり主張する」状態を指す。アサーティブトレーニングは、1960年代の後半からアメリカの心理行動療法家である、ウォルピとラザルスによってアメリカで実施されてきた。彼らは、非主張的な人がアサーティブになることを援助していくプロセスで、それまで非主張的であった人が自分の意見をはっきり言おうとすると、いきなり攻撃的になる事に気づき、非主張的な自己表現でも、攻撃的な自己表現でもなく、自分の意見をはっきりと示すような自己表現に変えることの必要性を説いた際に、このことばを用いた。そして、アルベルティとエモンズによって1970年に出版されたYour PerfectRight には、アサーティブが自己表現の技法としてだけではなく、人の尊厳を大切にした人間関係のあり方や対人関係の心構えに関わる基本的な考え方を含んでいることが強調され、これをベースに、公民権運動やウーマンリブ運動に取り入れられてきたという背景がある。
日本では1975年の国際婦人年をきっかけに、フェミニスト・カウンセリングに役立つものとしてアサーティブが紹介された。1977年に斎藤千代氏と河野貴代美氏によって、BOC 出版から『自分を変える本-さわやかな女へ』や、1978年に深沢凱子氏によって実日新書から『あなたも「ノー」をいいなさい―女性に必要な爽やかな自己主張』、1981年に近藤千恵監訳により『すてきな女性になるための14章』がPHP 研究所から、それぞれ出版されている。1981年には平木典子氏が、心理療法のひとつとしてアサーションを日本に紹介した。
種々の発話行為におけるアサーティブネス ―女性は自己主張に欠けるか? ― -------- p.48
松村 瑞子(九州大学)
ロビン・レイコフ(1990)は、女性のことばの特徴として、well( あのー)、kinda( …みたいの)といった垣根表現の使用が男性よりも多いことを挙げる。レイコフは、「こういう言葉は、話し手が自分の言っていることについて不確かで、述べている内容が正確かどうか請け合うことができないという意味を表す。」(105)と述べ、女性は男性よりも種々の場面で自己主張(アサーティブネス)に欠けるとする。さらに、「同じことのもう一つのあらわれは、断定文の前に付け足すI guess( …という気がする)、I think( …と思う)とか、疑問文の前に付け加えられるI wonder (…かしら)であるが、こういう表現はそれ自体すでに断定や質問の発話行為に囲いをし、語調を和らげる垣根表現になっている。」(106)と述べる。
これらの記述を読んで長年気になっていたのは、上記で女言葉の特徴とされている垣根表現の使用や断定表現の前に用いる「…と思う」や「…という気がする」という表現は、(女性に限らず男性も含めた)日本人の表現形式の特徴とされてきたものであるという点である。また、これとは全く異なった観点から、男女のコミュニケーションを対照させたデボラ・タネン(1992)は、女性の用いる間接(婉曲)表現について、男性であれば直接的に依頼するところを女性は間接的に依頼するため、男性には力の欠如として受け取られてしまうと述べる。
【第19回年次大会 研究発表 要旨】
合コンにおけるフッティング(footing)の実践 -------- p.51
宿利由希子(神戸大学大学院生)
従来、コミュニケーションにおける様々な性差の存在が報告されてきた。例えば、話題を決定する、多く話す、話を遮る、笑いを取るといった発話の主導権は、女性に比べ男性が握る傾向にあること、一方女性は、相づちや質問で相手の発話を促したり、相手の話を聞いて笑ったりして、相手に同調する言動が多いことなどが指摘されている(Maltz & Borker 1982; Tannen 1990他)。日本語に関する研究においても、相手の発話に対する相づちは男性に比べ女性が多く、また「男性が笑わせ、女性が笑う」という認識が一般的であるとされる(上野 2003;大島2006;辻本 2007)。では、これらの傾向と異なる男性/女性、すなわち相づちや笑いといった同調的言動の多い男性や、笑いを取る女性は、コミュニケーションの参加者たちにどのように評価されるのであろうか。
このような疑問を背景に、本研究は、合同コンパ(以下、合コン)における会話の相づちと笑いに注目し、合コン参加者たちによるフッティング(footing)の実践を示すことを目指す。
映像作品におけるトランスジェンダー女性の言葉遣い ― メディアにおけるジェンダー・ステレオタイプ変容の可能性について― -------- p.54
陳 一 吟(筑波大学)
メディアが作る日本語は、自然言語との間に隔たりが存在しながらも日本の社会・文化を反映し、深い影響を与えるものである。日本語とジェンダーの関係においては、メディアで観察できる日本語はジェンダー・イデオロギーを反映し、再生産しているとの指摘がしばしばされている(中村 2007、水本2010)。近年、ジェンダーに対する社会的な関心が高まってきている中、テレビドラマや映画等の映像作品ではジェンダーの規範を越境しているLGBTキャラクターが増えてきている。
かねてよりメディアによって「ゲイ」・「オカマ」=「おネエことば」という実社会とずれたイメージが作り出されていることが指摘されてきた(中村2007、クレア 2013)。しかし、近年の映像作品では「おネエことば」を話さない「ゲイ」や、豊かなバリエーションを持つトランス女性等様々なタイプのキャラクターも現れてきている。言葉遣いの分析を通じてメディアにおけるジェンダー・ステレオタイプの形成・変容のメカニズムを解明することは日本語の多様性、ジェンダーの多様性に繋げていくために有意義だと考えられる。
そこで本研究は近年の映像作品1)に現れたトランス女性の言葉遣いに焦点を当て、談話分析を用いてジェンダーの視点から登場人物のセリフを分析する。