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essay201007

【エッセイ】

ある喚想と感懐

成松幸俊

NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」。ちょっと面白い。太平洋戦敗戦から、ずっと続いた貧困生活、1960年代、東京オリンピック前後に至り大ブレークの展開となりつつある。思えば、当時の日本は高速道路、首都高が部分的に開通、大規模団地入居の動き、TV普及し始め・・・の時代であった。又当時、米国は日本のモデルであった。その頃、私は米国のDenver,CO.の西30kmにある小さな町Goldenに来ていた。CSMなる理系大学の大学院に留学する為であった。

当時、JALは資金の2/3を米国からの援助でDC-8ジェット機を購入、やっと、それ迄のプロペラ機の様にMidwayで給油せずにハワイへ飛べる様になっていたので、ハワイに寄航給油の上米国西海岸迄JALで行き、そこからUAに乗り継いでDenverに到着、その先はバスで行くことができた。

CSMでは院生は一人一人に研究室が用意され、その室で昼夜24時間いつでも実験も含め研究に打ち込む事ができた。院生は己の取組みに応じ、大学と社会とを出入りするので20-40歳代に渉っていた。

この大学では女子学生は見当たらなかった。

学生は(院生も)殆どがこの町のアパ-トか下宿か自宅かに住んだが、私は大学と取決めした好意ある家主が住む木造3階建ての3階に他の学生、院生6人(出身は米2,印,パ,台、トリニダッド&トバゴ)と住むことにした。他の6人とは、シャイアン(WY)から来たスタン、カンサスからのトム、インドからのラジャ、パキスタン からのラティーフ、台湾からの黄、トリニダッド&トバゴからのスティーブだ。7人は夫々独自に茲への入居を決め、お互いに初対面であったが、すぐ打ち解けた。

その3階は7DKであった。各居室はベッド、机、押入が、DKも家具、食器、炊事器具、オーブン、冷蔵庫が付いていた。

ここも24時間出入り自由で、各自夫々のペースで学び、炊事し、時には、近くの店へ買い物に、コインランドリ-へ洗濯に、或いはデートやデンバーへ買物に出かけた。

此処では食事様式が各人異なっていたので、例えば、印度人は牛肉を食べず、パキスタン人は豚肉を食べず、台湾人は豚肉が多いから、自分の炊事が終ると直ぐ丁寧に炊事具を洗うことにしたし、適宜7人で3階を掃除する等、この3階は7人の自主管理に任されていた。

入居の数週間後には米学生の発案で、食料などの買物はDenverの食材卸市場での一括購入を決めた。例えば有志で牛を半頭購入、それを、ブッチャーにサーロイン、Tボーン、グラウンド等に捌いて貰い、共同で借りた町の冷凍倉庫の棚に蓄え、必要なだけ(防寒具を着て)取りに行くことにしていた。

その頃CSMの学生の服装は、従来のアイビールックとそれ迄牧童、農民などの労働着であったジーンズが混在していた。

当時、米国では既に、Interstate Highways網はおおかた完成しており、例えばMile-High Cityと呼ばれるDenver(日本では旧軽井沢の感じか)は、Baltimore, MD.からCove Fort, UT近くに至る総延長約3400kmのInterstate Highway 70(全線が殆ど無料)のロッキー山脈東麓にあり、更にこれにInterstate Highway 55 (延長1700kmの南北路で、El Paso, TX.からWyoming北部に至る)が交叉している要衝でもあった。

又、乗用自動車は既にこの田舎町でも各戸2台前後の普及振りで、デンバー行きのバスも1時間に1本に減っていた。(我々も100ドル程の中古車を共同購入して使用した。) 又、1970年代仕事で滞在した米企業の幾つかの工場では、技師達は2,30kmある自宅と工場間の日常通勤に、3,4人が車1台に同乗していた。

米国の春休みに当たるEaster Vacationには、私は同宿米学生の故郷、Cheyenne、WY.の家に招かれてその一家と過ごしたが、彼の母堂が、米国50州で最初に婦人参政権を制定したのはこの州であると誇らしげに語ってくれたのが印象的であった。(因みに同州憲法の婦人参政権制定は1869年、全米がそうなったのは1920年、又初の同州女性知事就任は1920年だとのこと。)

私には、ここを初めとしてその後、多年米大学や企業と接して来て、「不易」の部分はともかく、「流行」の多くの面で、日本の「今」は10乃至30年前の米国の「今」であった様に思える。例えばこのところ日本ではルームシェア、カーシェア、衣裳・装身具のシェア等のシェアリングが広がってきている。その他マスコミも、ファッションも、音楽も芸能も、然りの様に見える。今後はどうなるか定かではないが・・・。

日本語(教育方法)、ジェンダーの分野は果たして、如何であろうか。それらの入口辺りに彳む者としての私は、あれこれと思念を巡らせるのみであるけれども。

2010年7月

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