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essay201004

【エッセイ】

「女子力」

山口久代

去る4月9日に亡くなった劇作家で小説家の井上ひさし氏は以前、再婚記者会見の席で、「結婚は判断力の欠如、 離婚は忍耐力の欠如、そして、再婚は記憶力の欠如のなせる行為である」と自身の経験に照らして述べている。

「判断力の欠如」を最近の言葉に置き換えるなら、渡辺淳一氏の「鈍感力」であり、 「記憶力の欠如」は赤瀬川源平氏の「老人力」の代表である「忘却力」に通じる。そして、 「忍耐力の欠如」をこれらに擬えて表現すれば、「諦観力」とでも言えようか。

そういえば、このところ「○○力」という言葉をよく耳にする。永田町では「発言力」や「指導力」が取り沙汰され、 世界に目を遣れば「国際力」が叫ばれている中にあって、「女子力」という言葉が出現した。 何でも、『働きマン』というマンガの原作者である安野モヨコ氏が提唱した言葉で、 女性が本来持っているやさしさやかわいさ、 そして人々を支えるような強い母性的な力のことを指しているそうである。

それって、「女らしさ」と何が違うのと思ってしまうのは、私だけであろうか。 どうやら最近の、成人の女性を「女」でも「女の子」でもない「女子」という言葉で表す風潮と無縁ではなさそうである。 これまでの使われ方の「女子」とは、小学校・中学校・高校の学生の性別を表した「男子」に対する語であるか、 または、「女子大学」や「女子ゴルフ」のように、 それまでは男性主導であった何らかの組織や団体に女性が進出したことをあえて誇示するために用いた語であった。

ところが今になって、「働き女子」、「一人飲み女子」、「女子旅」などの言葉が、新聞紙上や雑誌を賑わし、 「草食系男子」に対する「肉食系女子」まで現れた。作家の青山七恵氏は、 大人の女性が「今日は女子だけで飲もう!」などと言うとき、女子は肩肘はった「女」とかわいい「女の子」 に対する、組織としての「女子」である気がすると読売新聞で論評している。

つまり、「女の子」と言うには憚る成人女性が、フェミニズムにあるような女を意識せずに気楽に使えるのが、 「女子」ということになる。そして、「女子」という語感に学生時代の懐かしさや、 群れの一員である安心感をあるいは享受しているのかもしれない。「女子力」とは、 武器としての「女らしさ」ではなく、現代社会をうまく乗り切るための「スルー力」 (英語のthroughからきている言葉)にも繋がり、 コミュニケーションにおいて発揮する女性ならではの癒しのパワーを意味しているようである。

2010年4月

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