コンテンツへスキップ

要旨:15号

第17号の論文要旨はこちら
第16号の論文要旨はこちら


日本語とジェンダー 第15号
論文・講演の要旨(一部)


【日本語とジェンダー講演 採録】
Translation: Inter-lingual Construction of Gender 翻訳がつくる日本語 -------- p.1
中村桃子(関東学院大学)

翻訳の日本語には、日本人がふだん話す日本語とはまったく異なる独特なことば遣いが見られる。一つは、非・日本人女性による「女ことば」。翻訳小説や映画の字幕で、ヒロインはいかなる場面でも「あら」「まあ」「~だわ」「~のよ」「~かしら」と話し続ける。たとえば『風と共に去りぬ』で勝気なスカーレット・オハラが「いやだわ、お父さん」、『ハリー・ポッター』の友達・ハーマイオニーも、今どきの女の子らしからぬ「まあ、あんまりうまくいかなかったわね」、そしてドストエフスキー作『カラマーゾフの兄弟』では、14歳の少女が「どうして~なさったのかしら」、そして極めつけは『エイリアン』の字幕。宇宙生物との決死の戦いに勝利するヒロインの “you, a son of bitch!”という雄叫びも、「やっつけたわ!」と女ことばで訳される。翻訳の女ことばは、日本語の女ことばと同様に、日本人、非・日本人にかかわらず、国籍や人種を超えた共通の女性性を構築する。

もう一つ、男性性を構築する、翻訳ならではの日本語がある。「やあ、どうしてる?」「ぼくもさ」「はら、へってないかい?」。このようなくだけた話し方は、アメリカの人気番組『ビバリーヒルズ青春白書』の男子高校生や『カラマーゾフの兄弟』の若者のセリフとしてだけでなく、英会話の教科書の例文や新聞インタビューにおけるハリウッド俳優やスポーツ選手、中年のボサノバ歌手の受け答えにまで及んでいる。興味深いことには、「やあ」「~さ」は非・日本人男性だけに使われ、日本人男性の発言には一切出てこない。

また、日本版『ビバリーヒルズ青春白書』の中で使われるジェスチャーに注目すると、日本人コメディアンの演じる擬似・アメリカ人高校生は、会話の途中で時々、両ひじを脇につけ、手の平を上に持ち上げながらひょいと肩をすくめてみせる。このしぐさと「恋とダンスとロックに夢中な平均的ティーンエイジャーさ」のセリフで、西洋人を皮肉たっぷりにおちょくり、笑いを誘う。このように、翻訳では、カジュアルな非日本人男性を、日本人男性とは区別して描写する時がある。 以上のように、翻訳が非日本人のジェンダーを表現する方法は、女性性と男性性で異なる傾向がみられる。

【書評論文】
おネエはジェンダー規範を越えているか?―クレア・マリィ『「おネエことば」論』書評
-Does ‘O-nē’ Cross the Border of Gender Standards?- A Review of Claire MAREE’s “On the ‘O-nē Language’” -------- p.12
門倉正美(横浜国立大学)

NHKの『スポーツ酒場 語り亭』(2013年~現在放送)の「ママ」、ミッツ・マングローブの「おネエことば」は友人のマツコ・デラックスほど毒を含んでなく、あたりが柔らかい感じをうける。そこがNHKで起用されるところなのかもしれない。それにしても、日本の話し言葉の規範を提示する使命を負ってきた(ようにみえる)NHKも「おネエことば」の「ママ」を許容するようになったのは、時代にたいするNHKの迎合を表しているのだろうか。そう言えば、2014年のNHKの朝の連続ドラマ『花子とアン』の語り手は、(「おネエことば」というには恐れ多いが)美輪明宏だったし、朝ドラに続く『あさイチ』には、「おネエ」のカリスマ華道家、假屋崎省吾が時々登場する。お昼のバラエティでは、教育学者・教育評論家の尾木直樹の「尾木ママ」ぶりが紹介されたこともあった。

と連想しつつ、いや、そもそもNHKが話し言葉の「規範」者であるとか、そのNHKが「おネエことば」を「許容」するとか、ミッツとマツコの「毒」の強弱を比較したりなどという、こちらの受け取り方そのものに「ことばとジェンダー」に関する、根本的な先入見があるのかもしれない、と反省させられたりもする。これは、クレア・マリィの『「おネエことば」論』(青土社、2013年)に触発されたからかもしれない。

『「おネエことば」論』は、「おネエことば」の分析をもとに、現代の「ことばとジェンダー」研究の特徴をいくつかの点で明示的に提起した好著である。以下、それらの特徴のうち、私の観点からみて特に興味深い点を順に紹介したい。

【第15回年次大会 基調講演 要旨】
音楽にジェンダーはあるのか?-------- p.16
中村美亜(九州大学)

音楽にジェンダーはあるのか? —— 「『男の歌』『女の歌』はあるし、『男らしい音楽』『女らしい音楽』もある気がするから、音楽にジェンダーはある」。そう思う人はいるだろう。その一方で、「歌詞に男女があっても、メロディーに男女はない。音楽とジェンダーを結びつけるなんて馬鹿げている」。そう考える人もいるはずだ。しかし、ジェンダーという概念が発展した経緯を思い返すなら、また音楽体験とは何かを改めて問うてみるなら、「ある」「ない」と一言で即答できる問題ではないことにも気づくだろう。

本講演では、さまざまな例を見ながら(聴きながら)、音楽とジェンダーの関わりを探っていくこととした。 まずジェンダーの意味を確認するなら、ジェンダーとは、社会的次元で人間を男女に二分する方法およびそれによる性別を指す。人間は(全員ではないが、多くの人が)子供を産む側の人と産ませる側の人に分かれ、身体的に(生殖機能をめぐって)女・男の性別に二分される。この性別を、英語の用法に倣って「セックス」と呼ぶ。しかし、これとは別の社会的次元(たとえば髪型などの外見、仕草や振る舞い、職業などの社会的役割)でも、人間は男女に二分される。これが「ジェンダー」と呼ばれるものである。

ジェンダーはセックス(身体的性別)に由来するが、その結びつきに必然性があるとは限らず、実際には、むしろ社会規範として存在する。人々は社会生活において「ジェンダー化」にさらされ、「ジェンダー規範」に左右されつつ生を全うしているのである。「ジェンダー化」や「ジェンダー規範」は、すべてが悪とは言い切れないものの、自分の可能性に挑戦する生き方を阻む傾向にあり、個人の自己効力感を奪い、社会的な不平等を助長することも少なくない。そんな中で、ジェンダーへの意識は、人々を性別役割の呪縛から解放し、性別によって生じる社会的不平等を是正する契機を生む。 それでは、このジェンダーは音楽とどう結びつくのだろうか? いくつか例を挙げてみよう。

【第15回年次大会 シンポジウム:音楽の中にみるジェンダー意識の変容 要旨】
バルトークとコダーイの音楽におけるジェンダー -------- p.18
ユディット・ヒダシ(ブダペスト商科大学)

日本でよく知られるハンガリーの作曲家といえば、フランツ・リストに並んでベーラ・バルトークとゾルターン・コダーイの名を挙げることができる。バルトーク(1881-1945)とコダーイ(1882-1967) は同時代人で、20世紀前半を代表する作曲家として、その影響はハンガリーを越えて世界に及んでいる。両作曲家が世界的に有名となり、作曲家自身と祖国ハンガリーに栄誉をもたらした理由はいくつかある。

1.両作曲家とも、学問的な意味で高度な音楽教育を受けた音楽家だが、そのクラシック音楽の素養と並んで、民俗音楽にとりわけ高い重要性と役割を見出したこと。民族的文化的アイデンティティの形成において、民俗音楽の伝統の維持と継承がいかに重要であるかを信じ、またそれに力を注いだこと。
2.音楽教育にも力を入れたこと。両作曲家ともに、音楽は美学や芸術教育においてだけでなく、人間の全人格育成においても大きな役割を担っていると考えていたこと。
3.合唱活動で優れたオーケストラ作品や合唱曲を作曲し、それら全てが今日でも国際的な音楽シーンで度々演奏されていること。日本でも、バルトークやコダーイの作品は合唱コンサートのプログラムに欠かせない作品となっている。

リフレインされる歌詞—ジェンダーの視点から -------- p.22
佐々木瑞枝(武蔵野大学名誉教授)

「家父長制」という言葉から我々はどんなことを想像するだろう。 「家長である父親によって支配される家族制度? 今の日本ではすでに家父長制は消えつつあるのでは?」そう考える人も多いのではないだろうか。しかし、「家父長制」は過去の遺物ではなく、現代社会においてもさまざまな局面に息づいている。

ここでは、歌謡曲のなにげない歌詞の一節に潜む「家父長制」について、2つの歌から考えてみた。 NHKの年末の祭典である「紅白歌合戦」に1968年以来46回も連続出場している森進一の大ヒット曲の一つは「おふくろさん」である。テレビ画面から流れる「おふくろさん」を聞きながら、切々と歌う男性歌手の背後に「母は偉い、自分にこう諭してくれた。母の言っていることは世の中の真理である、母の教えを守って「強く生きよう」というメッセージが流れていることを感じる。 しかし、リフレインされる歌詞には「世の中の傘」になり、「強く生きる」のは「男性として自然だし当然のこと」という考え方が隠されており、これは「家父長制」イデオロギーにほかならない。

「J-POP歌詞にみる若者のジェンダー意識と自己世界」-------- p.24
吉崎泰博(北九州市立大学名誉教授)

若者たちの間で最も人気があるJ-POPの歌詞には彼らの意識世界の一端が観察される。本発表では2013年版の『J-POPスーパーヒットソング100』に収録されている100曲の歌詞分析を通して、今日の若者の意識世界を観察し、その中のジェンダー・バイアスの実態に迫ってみた。

男性歌手と女性歌手の間で歌詞の中身に顕著な相違がみられる。男性歌手たちに多い傾向として、愛を不毛にする現代社会の問題に言及しているという事実が観察されるが、女性ファンに人気の女性歌手には社会性を完全に放棄したような内容の歌が多くみられる。しかし、それが社会に残存するジェンダー・バイアスの結果かどうかについての確証はない。

【第15回年次大会 研究発表 要旨】
『青鞜』の尾竹紅吉とアンドロジニー androgyny 文学 --------- p.25
斎藤理香(ウエスタン・ミシガン大学)

女性の精神的自立、また因習からの解放を訴え、近代フェミニズムのシンボルともなった女性集団、青鞜社とその機関誌『青鞜』(1911年創刊、1916年終刊)。そこで活躍した尾竹紅吉(1893-1966)は、青鞜社代表の平塚らいてう(1886-1971)とともに、そのメンバーとして、当時の女性の理想像である「良妻賢母」に真っ向から対立する「新しい女」の代表とも目された女性である。尾竹紅吉に関する研究は、渡辺(2001)による本格的な評伝のほかに、青鞜社や青鞜文学に関する論考などもあるが、その中で紅吉は、男装の麗人として、またカフェで「五色の酒」を飲み、吉原の遊郭に繰り出す、という大げさな脚色を交えたスキャンダル記事の中心人物として紹介されることが多い。

あるいは、彼女とらいてうとの同性の恋愛が、近代日本のレズビアニズムの一例として取り上げられもしている(黒澤 1996など)。渡辺(2001)は、紅吉の文学的資質を高く評価しているが、紅吉の残した文学作品をくわしく批評または分析した研究は、渡辺(2001)が評伝の中でとりあげた2、3編を除いては、これまでのところ皆無と言ってよい。本発表は、そんな尾竹紅吉の文学作品に焦点をあて、特にその文体に見られる、彼女の男装の似合う外見に呼応するアンドロジニー androgynyの要素をとらえ、分析を試みたものである。

ジェンダー越境の模索 ―『おかあさま』における礼子の「男装」を中心に― -------- p.27
谷口秀子(九州大学)

わたなべまさこによる少女漫画作品である『おかあさま』は、少女漫画創生期の1961年から62年にかけて、少女向け漫画雑誌『りぼん』に掲載された。『おかあさま』は、生後まもなく生家の経済的な事情から裕福な家庭に引き取られて何不自由なく成長した少女が、その後の苦難を乗り越えて、生みの母との絆を取り戻す物語である。ヒロインである桃代は、美しく上品で気立てが良く、優しく思いやりのある「理想的な」女性像として描かれているばかりではなく、そのかわいらしいドレス姿や西洋風の瀟洒な暮らしぶりなど、きわめてロマンティックな雰囲気に包まれており、当時の少女読者があこがれと共感を抱くヒロイン像であったことは想像に難くない。

『おかあさま』には、重要な登場人物として、ヒロイン桃代の従姉である礼子が登場し、物語の展開にきわめて重要な役割を果たしている。礼子は、桃代とは対照的に描かれており、桃代が因習的なヒロイン像を踏襲した「女らしい」登場人物であるとすれば、礼子は主体的で行動的な登場人物であり、「イギリスで女王のスケッチがしたいと宮殿へしのびこんだような娘」(『おかあさま』p. 226)という記述に代表されるように、常識や因習やジェンダーにとらわれない特異な女性像となっている。

中国の音楽の歌詞に現れるジェンダー ―中国の紅白歌合戦(春晩)に歌われる歌詞を中心に―  -------- p.29
河崎みゆき(上海交通大学)

中国の学術情報データベースである中国知網(CNKI: China National Knowledge Infrastructure)で、「歌詞」と「性別(ジェンダー)」をキーワードに本文検索すると1280本もの論文がヒットする(2014年4月10日現在)。1980年には1本のみであった研究が1990年7本、2011年151本、2013年234本と2010前後から飛躍的に増えている。そこには「歌詞学」(2007陸正蘭)、「中国歌詞簡史」(2008劉以光)などの専門書の出版や、ジェンダー研究の進展との関係が考えられるが、言語学の立場からだけでなく、音楽研究、民俗学、社会学、美学、メディア学、宋詞研究など多くの学問分野から研究がおこなわれ、現代中国大衆文化研究の重要な一部分になっていることがわかる。

日本のインターネットにおける言語攻撃とジェンダー -------- p.31
ヴォランスキ バルトシュ(九州大学)

広義の「言語攻撃」とは、意図的に相手を傷つける言語行為である。意味における攻撃性以外にも、声量とピッチによって攻撃性を表すことも可能であり、また談話構造の視点から「口を挟むこと」等も言語攻撃として捉えられる場合もある。しかし、本研究はインターネットの書き言葉に焦点を当て、主に以下の三つの特徴のいずれかが当てはまる言語行為を分析対象とする。

(1) 相手の主張ではなく、相手自身のアイデンティティーを責めること 例 「アホとしか言いようが無い」
(2) 相手が不幸な目に遭ってほしいという願望、または話者が相手を不幸な目に遭わせるという威嚇 例 「死ねよ!」
(3) ポライトネスの観点から無礼な言語形式 例 「日本に住んどるなら日本のルールに従え。嫌なら出て行ったらいい。」 (例はいずれも本調査のデータからとったもの)

日・韓コードスイッチングにみられる日本語の中性化現象について-------- p.33
李宥定(九州大学)

生涯学習検定センター(web)が小中高生を対象に実施した言葉に関するアンケート調査の結果、約7割の応答者が日本語には男女差があると認識しているものの、「カレーライスうまいね!」「おまえ、いいかげんにしろよ」に対しては67.1%が「男女どちらでも良い」と答え、女性らしい言葉が敬遠され中性化する傾向があると指摘した。ここで言う中性化とは、男性による女性的表現の使用と女性による男性的表現の使用を意味するが、驚いたことに滞在している韓国人留学生による日本語からも同様の現象が観察された。

(1)南口!了解っす!(20代、女性、携帯メールより)
(2)저도 여기 있다가 보니까 へたくそ가 되어 가는 것 같아요.(20代、女性、録音より) 【私もここに来てからへたくそになっていくような気がします】
(3)ううん、今年はパス。(30代、男性、携帯メールより) (4)あらあら まあー。(30代、男性、携帯メールより)

Topへもどる