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要旨:15号, 14号.

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日本語とジェンダー 第15号
論文・講演の要旨(一部)


【日本語とジェンダー講演 採録】
Translation: Inter-lingual Construction of Gender 翻訳がつくる日本語 -------- p.1
中村桃子(関東学院大学)

翻訳の日本語には、日本人がふだん話す日本語とはまったく異なる独特なことば遣いが見られる。一つは、非・日本人女性による「女ことば」。翻訳小説や映画の字幕で、ヒロインはいかなる場面でも「あら」「まあ」「~だわ」「~のよ」「~かしら」と話し続ける。たとえば『風と共に去りぬ』で勝気なスカーレット・オハラが「いやだわ、お父さん」、『ハリー・ポッター』の友達・ハーマイオニーも、今どきの女の子らしからぬ「まあ、あんまりうまくいかなかったわね」、そしてドストエフスキー作『カラマーゾフの兄弟』では、14歳の少女が「どうして~なさったのかしら」、そして極めつけは『エイリアン』の字幕。宇宙生物との決死の戦いに勝利するヒロインの “you, a son of bitch!”という雄叫びも、「やっつけたわ!」と女ことばで訳される。翻訳の女ことばは、日本語の女ことばと同様に、日本人、非・日本人にかかわらず、国籍や人種を超えた共通の女性性を構築する。

もう一つ、男性性を構築する、翻訳ならではの日本語がある。「やあ、どうしてる?」「ぼくもさ」「はら、へってないかい?」。このようなくだけた話し方は、アメリカの人気番組『ビバリーヒルズ青春白書』の男子高校生や『カラマーゾフの兄弟』の若者のセリフとしてだけでなく、英会話の教科書の例文や新聞インタビューにおけるハリウッド俳優やスポーツ選手、中年のボサノバ歌手の受け答えにまで及んでいる。興味深いことには、「やあ」「~さ」は非・日本人男性だけに使われ、日本人男性の発言には一切出てこない。

また、日本版『ビバリーヒルズ青春白書』の中で使われるジェスチャーに注目すると、日本人コメディアンの演じる擬似・アメリカ人高校生は、会話の途中で時々、両ひじを脇につけ、手の平を上に持ち上げながらひょいと肩をすくめてみせる。このしぐさと「恋とダンスとロックに夢中な平均的ティーンエイジャーさ」のセリフで、西洋人を皮肉たっぷりにおちょくり、笑いを誘う。このように、翻訳では、カジュアルな非日本人男性を、日本人男性とは区別して描写する時がある。 以上のように、翻訳が非日本人のジェンダーを表現する方法は、女性性と男性性で異なる傾向がみられる。

【書評論文】
おネエはジェンダー規範を越えているか?―クレア・マリィ『「おネエことば」論』書評
-Does ‘O-nē’ Cross the Border of Gender Standards?- A Review of Claire MAREE’s “On the ‘O-nē Language’” -------- p.12
門倉正美(横浜国立大学)

NHKの『スポーツ酒場 語り亭』(2013年~現在放送)の「ママ」、ミッツ・マングローブの「おネエことば」は友人のマツコ・デラックスほど毒を含んでなく、あたりが柔らかい感じをうける。そこがNHKで起用されるところなのかもしれない。それにしても、日本の話し言葉の規範を提示する使命を負ってきた(ようにみえる)NHKも「おネエことば」の「ママ」を許容するようになったのは、時代にたいするNHKの迎合を表しているのだろうか。そう言えば、2014年のNHKの朝の連続ドラマ『花子とアン』の語り手は、(「おネエことば」というには恐れ多いが)美輪明宏だったし、朝ドラに続く『あさイチ』には、「おネエ」のカリスマ華道家、假屋崎省吾が時々登場する。お昼のバラエティでは、教育学者・教育評論家の尾木直樹の「尾木ママ」ぶりが紹介されたこともあった。

と連想しつつ、いや、そもそもNHKが話し言葉の「規範」者であるとか、そのNHKが「おネエことば」を「許容」するとか、ミッツとマツコの「毒」の強弱を比較したりなどという、こちらの受け取り方そのものに「ことばとジェンダー」に関する、根本的な先入見があるのかもしれない、と反省させられたりもする。これは、クレア・マリィの『「おネエことば」論』(青土社、2013年)に触発されたからかもしれない。

『「おネエことば」論』は、「おネエことば」の分析をもとに、現代の「ことばとジェンダー」研究の特徴をいくつかの点で明示的に提起した好著である。以下、それらの特徴のうち、私の観点からみて特に興味深い点を順に紹介したい。

【第15回年次大会 基調講演 要旨】
音楽にジェンダーはあるのか?-------- p.16
中村美亜(九州大学)

音楽にジェンダーはあるのか? —— 「『男の歌』『女の歌』はあるし、『男らしい音楽』『女らしい音楽』もある気がするから、音楽にジェンダーはある」。そう思う人はいるだろう。その一方で、「歌詞に男女があっても、メロディーに男女はない。音楽とジェンダーを結びつけるなんて馬鹿げている」。そう考える人もいるはずだ。しかし、ジェンダーという概念が発展した経緯を思い返すなら、また音楽体験とは何かを改めて問うてみるなら、「ある」「ない」と一言で即答できる問題ではないことにも気づくだろう。

本講演では、さまざまな例を見ながら(聴きながら)、音楽とジェンダーの関わりを探っていくこととした。 まずジェンダーの意味を確認するなら、ジェンダーとは、社会的次元で人間を男女に二分する方法およびそれによる性別を指す。人間は(全員ではないが、多くの人が)子供を産む側の人と産ませる側の人に分かれ、身体的に(生殖機能をめぐって)女・男の性別に二分される。この性別を、英語の用法に倣って「セックス」と呼ぶ。しかし、これとは別の社会的次元(たとえば髪型などの外見、仕草や振る舞い、職業などの社会的役割)でも、人間は男女に二分される。これが「ジェンダー」と呼ばれるものである。

ジェンダーはセックス(身体的性別)に由来するが、その結びつきに必然性があるとは限らず、実際には、むしろ社会規範として存在する。人々は社会生活において「ジェンダー化」にさらされ、「ジェンダー規範」に左右されつつ生を全うしているのである。「ジェンダー化」や「ジェンダー規範」は、すべてが悪とは言い切れないものの、自分の可能性に挑戦する生き方を阻む傾向にあり、個人の自己効力感を奪い、社会的な不平等を助長することも少なくない。そんな中で、ジェンダーへの意識は、人々を性別役割の呪縛から解放し、性別によって生じる社会的不平等を是正する契機を生む。 それでは、このジェンダーは音楽とどう結びつくのだろうか? いくつか例を挙げてみよう。

【第15回年次大会 シンポジウム:音楽の中にみるジェンダー意識の変容 要旨】
バルトークとコダーイの音楽におけるジェンダー -------- p.18
ユディット・ヒダシ(ブダペスト商科大学)

日本でよく知られるハンガリーの作曲家といえば、フランツ・リストに並んでベーラ・バルトークとゾルターン・コダーイの名を挙げることができる。バルトーク(1881-1945)とコダーイ(1882-1967) は同時代人で、20世紀前半を代表する作曲家として、その影響はハンガリーを越えて世界に及んでいる。両作曲家が世界的に有名となり、作曲家自身と祖国ハンガリーに栄誉をもたらした理由はいくつかある。

1.両作曲家とも、学問的な意味で高度な音楽教育を受けた音楽家だが、そのクラシック音楽の素養と並んで、民俗音楽にとりわけ高い重要性と役割を見出したこと。民族的文化的アイデンティティの形成において、民俗音楽の伝統の維持と継承がいかに重要であるかを信じ、またそれに力を注いだこと。
2.音楽教育にも力を入れたこと。両作曲家ともに、音楽は美学や芸術教育においてだけでなく、人間の全人格育成においても大きな役割を担っていると考えていたこと。
3.合唱活動で優れたオーケストラ作品や合唱曲を作曲し、それら全てが今日でも国際的な音楽シーンで度々演奏されていること。日本でも、バルトークやコダーイの作品は合唱コンサートのプログラムに欠かせない作品となっている。

リフレインされる歌詞—ジェンダーの視点から -------- p.22
佐々木瑞枝(武蔵野大学名誉教授)

「家父長制」という言葉から我々はどんなことを想像するだろう。 「家長である父親によって支配される家族制度? 今の日本ではすでに家父長制は消えつつあるのでは?」そう考える人も多いのではないだろうか。しかし、「家父長制」は過去の遺物ではなく、現代社会においてもさまざまな局面に息づいている。

ここでは、歌謡曲のなにげない歌詞の一節に潜む「家父長制」について、2つの歌から考えてみた。 NHKの年末の祭典である「紅白歌合戦」に1968年以来46回も連続出場している森進一の大ヒット曲の一つは「おふくろさん」である。テレビ画面から流れる「おふくろさん」を聞きながら、切々と歌う男性歌手の背後に「母は偉い、自分にこう諭してくれた。母の言っていることは世の中の真理である、母の教えを守って「強く生きよう」というメッセージが流れていることを感じる。 しかし、リフレインされる歌詞には「世の中の傘」になり、「強く生きる」のは「男性として自然だし当然のこと」という考え方が隠されており、これは「家父長制」イデオロギーにほかならない。

「J-POP歌詞にみる若者のジェンダー意識と自己世界」-------- p.24
吉崎泰博(北九州市立大学名誉教授)

若者たちの間で最も人気があるJ-POPの歌詞には彼らの意識世界の一端が観察される。本発表では2013年版の『J-POPスーパーヒットソング100』に収録されている100曲の歌詞分析を通して、今日の若者の意識世界を観察し、その中のジェンダー・バイアスの実態に迫ってみた。

男性歌手と女性歌手の間で歌詞の中身に顕著な相違がみられる。男性歌手たちに多い傾向として、愛を不毛にする現代社会の問題に言及しているという事実が観察されるが、女性ファンに人気の女性歌手には社会性を完全に放棄したような内容の歌が多くみられる。しかし、それが社会に残存するジェンダー・バイアスの結果かどうかについての確証はない。

【第15回年次大会 研究発表 要旨】
『青鞜』の尾竹紅吉とアンドロジニー androgyny 文学 --------- p.25
斎藤理香(ウエスタン・ミシガン大学)

女性の精神的自立、また因習からの解放を訴え、近代フェミニズムのシンボルともなった女性集団、青鞜社とその機関誌『青鞜』(1911年創刊、1916年終刊)。そこで活躍した尾竹紅吉(1893-1966)は、青鞜社代表の平塚らいてう(1886-1971)とともに、そのメンバーとして、当時の女性の理想像である「良妻賢母」に真っ向から対立する「新しい女」の代表とも目された女性である。尾竹紅吉に関する研究は、渡辺(2001)による本格的な評伝のほかに、青鞜社や青鞜文学に関する論考などもあるが、その中で紅吉は、男装の麗人として、またカフェで「五色の酒」を飲み、吉原の遊郭に繰り出す、という大げさな脚色を交えたスキャンダル記事の中心人物として紹介されることが多い。

あるいは、彼女とらいてうとの同性の恋愛が、近代日本のレズビアニズムの一例として取り上げられもしている(黒澤 1996など)。渡辺(2001)は、紅吉の文学的資質を高く評価しているが、紅吉の残した文学作品をくわしく批評または分析した研究は、渡辺(2001)が評伝の中でとりあげた2、3編を除いては、これまでのところ皆無と言ってよい。本発表は、そんな尾竹紅吉の文学作品に焦点をあて、特にその文体に見られる、彼女の男装の似合う外見に呼応するアンドロジニー androgynyの要素をとらえ、分析を試みたものである。

ジェンダー越境の模索 ―『おかあさま』における礼子の「男装」を中心に― -------- p.27
谷口秀子(九州大学)

わたなべまさこによる少女漫画作品である『おかあさま』は、少女漫画創生期の1961年から62年にかけて、少女向け漫画雑誌『りぼん』に掲載された。『おかあさま』は、生後まもなく生家の経済的な事情から裕福な家庭に引き取られて何不自由なく成長した少女が、その後の苦難を乗り越えて、生みの母との絆を取り戻す物語である。ヒロインである桃代は、美しく上品で気立てが良く、優しく思いやりのある「理想的な」女性像として描かれているばかりではなく、そのかわいらしいドレス姿や西洋風の瀟洒な暮らしぶりなど、きわめてロマンティックな雰囲気に包まれており、当時の少女読者があこがれと共感を抱くヒロイン像であったことは想像に難くない。

『おかあさま』には、重要な登場人物として、ヒロイン桃代の従姉である礼子が登場し、物語の展開にきわめて重要な役割を果たしている。礼子は、桃代とは対照的に描かれており、桃代が因習的なヒロイン像を踏襲した「女らしい」登場人物であるとすれば、礼子は主体的で行動的な登場人物であり、「イギリスで女王のスケッチがしたいと宮殿へしのびこんだような娘」(『おかあさま』p. 226)という記述に代表されるように、常識や因習やジェンダーにとらわれない特異な女性像となっている。

中国の音楽の歌詞に現れるジェンダー ―中国の紅白歌合戦(春晩)に歌われる歌詞を中心に―  -------- p.29
河崎みゆき(上海交通大学)

中国の学術情報データベースである中国知網(CNKI: China National Knowledge Infrastructure)で、「歌詞」と「性別(ジェンダー)」をキーワードに本文検索すると1280本もの論文がヒットする(2014年4月10日現在)。1980年には1本のみであった研究が1990年7本、2011年151本、2013年234本と2010前後から飛躍的に増えている。そこには「歌詞学」(2007陸正蘭)、「中国歌詞簡史」(2008劉以光)などの専門書の出版や、ジェンダー研究の進展との関係が考えられるが、言語学の立場からだけでなく、音楽研究、民俗学、社会学、美学、メディア学、宋詞研究など多くの学問分野から研究がおこなわれ、現代中国大衆文化研究の重要な一部分になっていることがわかる。

日本のインターネットにおける言語攻撃とジェンダー -------- p.31
ヴォランスキ バルトシュ(九州大学)

広義の「言語攻撃」とは、意図的に相手を傷つける言語行為である。意味における攻撃性以外にも、声量とピッチによって攻撃性を表すことも可能であり、また談話構造の視点から「口を挟むこと」等も言語攻撃として捉えられる場合もある。しかし、本研究はインターネットの書き言葉に焦点を当て、主に以下の三つの特徴のいずれかが当てはまる言語行為を分析対象とする。

(1) 相手の主張ではなく、相手自身のアイデンティティーを責めること 例 「アホとしか言いようが無い」
(2) 相手が不幸な目に遭ってほしいという願望、または話者が相手を不幸な目に遭わせるという威嚇 例 「死ねよ!」
(3) ポライトネスの観点から無礼な言語形式 例 「日本に住んどるなら日本のルールに従え。嫌なら出て行ったらいい。」 (例はいずれも本調査のデータからとったもの)

日・韓コードスイッチングにみられる日本語の中性化現象について-------- p.33
李宥定(九州大学)

生涯学習検定センター(web)が小中高生を対象に実施した言葉に関するアンケート調査の結果、約7割の応答者が日本語には男女差があると認識しているものの、「カレーライスうまいね!」「おまえ、いいかげんにしろよ」に対しては67.1%が「男女どちらでも良い」と答え、女性らしい言葉が敬遠され中性化する傾向があると指摘した。ここで言う中性化とは、男性による女性的表現の使用と女性による男性的表現の使用を意味するが、驚いたことに滞在している韓国人留学生による日本語からも同様の現象が観察された。

(1)南口!了解っす!(20代、女性、携帯メールより)
(2)저도 여기 있다가 보니까 へたくそ가 되어 가는 것 같아요.(20代、女性、録音より) 【私もここに来てからへたくそになっていくような気がします】
(3)ううん、今年はパス。(30代、男性、携帯メールより) (4)あらあら まあー。(30代、男性、携帯メールより)

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日本語とジェンダー 第14号
論文・講演の要旨(一部)


【第14回年次大会 基調講演要旨】
ジェンダーの文法;文法のジェンダー: The Grammar of Gender; the Gender of Grammar -------- p.1
ポール・スノードン(杏林大学)

日本語、英語、その他のヨーロッパ言語の例を挙げながら「ジェンダー」という概念を文法、生物、差別それぞれの面から考察した。問題点や矛盾に注意を向けながら、以下の6点を中心にパワーポイントで要点を述べた。用語は主に日本語になったが、英語やほかの言語の例も多数、示すこととした。

【第13回年次大会 シンポジウム:翻訳から見たジェンダー表現の諸相 要旨】
日本語の英訳に見る照応詞の扱い: 星新一『ノックの音が』から -------- p.2
矢野安剛(早稲田大学 名誉教授)

異言語間翻訳でも、知識や眠りの程度を「深い、浅い/deep, shallow」と表現するように、たいていの場合は概念化(conceptualization)が共有されていて直訳でよい。しかし、「内弁慶」はbossy at home and timid outsideと説明しなければならないし、「油を売る」はwaste timeと置き換えなければならない。また、桜美林大学町田キャンパスへ来るのに、京王線が重要な場合でなければcome by the Keio Line trainはby trainと省略していい。逆に、「畳」は tatami matのように情報を補わなければならない。このように、翻訳には説明、置き換え、省略、付加などの操作が加えられる。

『キャッチャー/ギャツビー/ティファニー』の「僕/私/あたし」:村上春樹の翻訳とジェンダー -------- p.4
斎藤理香(ウェスタン ミシガン大学)

村上春樹は、翻訳をする小説家で、創作をする翻訳家でもある。ここではそんな村上の創作における「翻訳文体」の特徴を概観し、その翻訳(和訳)のジェンダー表現、特に男性一人称とその視点から語られる人物像、女性表象について考察した。村上訳の作品は、D.J.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(2003)、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(2006)、トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』(2008)をとりあげた。

【第14回年次大会 研究発表 要旨】
女ことばと翻訳: 理想の女らしさへの文化内翻訳 -------- p.5
古川弘子(東北学院大学)

日本語で書かれた文学作品では、女ことばによって女性登場人物の女性性が強調されている。この傾向は、文学のみならず他のメディア(テレビ番組、雑誌やマンガなど)でも同様に見られ、言文一致運動が起こった19世紀後半から続いてきた(因, 2007, 2010; Inoue, 2003, 2004; 水本, 2005, 2010; 上野, 2003; Levy, 2006; 中村, 2007a, 2007b)。 外国語から日本語への翻訳を考えてみると、日本語の女性文末詞は翻訳テクストでも過剰に使われ、女性登場人物の女性性が強調されている。これは翻訳者の持つ言語規範が翻訳に影響を与えているからだと考えられる。英文 ‘I will run.’ からはその話し手がどれだけ女らしいか、または男らしいかを特定することはできない。

中国語のオネエ言葉をめぐる現象と特質 -------- p.7
河崎みゆき(上海交通大学)

中国でいままで研究対象として考えてこられなかったオネエことば「娘娘腔(ニャンニャンチャン)」を北京大学コーパスおよび映画・テレビなどの映像資料、ネットの書き込みなどから分析、言語面の特徴、歴史的角度と社会的角度から中国のオネエことばをめぐる現象を考察した。

小説タイトルの翻訳とジェンダー:『ボヴァリー夫人』について -------- p.9
三原智子(群馬大学)

日本でフランス文学が翻訳されてからまもなく150年がたとうとしている。以来、翻訳者たちは、異なる文化を背景にした小説を異なる言葉を用いて日本に紹介するため、原文に変更を加えることをしばしば強いられきた。本発表ではその中でも特に、小説のタイトルの翻訳について、ジェンダー視点より検証してみた。

日本語OPIから考える日本語教育とジェンダー -------- p.10
銭坪玲子(長崎ウエスレヤン大学)

(前略)牧野(2010)は、1980年代後半から批判の対象とされてきたOPIの海外の状況について紹介し、それらを4つに整理している。1.基準の有効性、2.母語話者の判断の多様性の否定、3.タスクの幅の狭さ、4.テスターと被験者に存在する権力関係、である。銭坪(2010)では、おもに4について、ジェンダー的視点から考察を加えた。結果、日本語超級レベル判定においては敬語とくだけた表現、二つの摘出が必須とされているが、「現実的で文化的にも実際に近い会話のやりとりに終始することができるかどうか」(牧野1999)が大切だといわれるOPIにおいて、テスターが女性である場合、日本社会で超級レベルのタスクを適切に実施することは困難であること、それはテスター個人の技術力不足といった問題ではなく、社会的属性、すなわち現代日本社会におけるジェンダー的非対称性に起因するものであることを明らかにした。

裁判例に見られるジェンダー・バイアス:「母親」「母性」「父親」「父性」の比較 -------- p.13
加藤直子(お茶ノ水女子大学)

我が国の司法にはジェンダー・バイアスが存在し、人権救済の最後の砦である司法においてジェンダー・バイアスが存在することは見過ごせない人権侵害である(第二東京弁護士会両性の平等に関する委員会 1999)。 ジェンダー・バイアスの中でも、育児は母親によってなされるべきという母親に関する固定的観念は日常生活の中に当たり前のように根強く存在しているが、セクシャルハラスメントやドメスティックバイオレンスのように犯罪性のあるものではないため見過ごされがちである。実際に、母親に関する固定的観念の現れとして、我が国の裁判において乳幼児の親権者を指定する際、母親を優先する傾向がある。これは司法におけるジェンダー・バイアスであると指摘されている(棚村・色川 2009)。

【研究例会IN ハンガリー 発表】
日本語教科書に盛り込むジェンダー意識:教科書作成の経験から -------- p.15
佐々木瑞枝(武蔵野大学)

筆者はこれまで日本語教科書の執筆、監修などにあたってきた。日本語の教科書にどんな項目を盛り込むかは筆者や監修者の責任であり、その結果、学習者は教科書の項目を学ぶ中で必然的にジェンダー意識を築きあげていくと思われる。 本発表では、これまで執筆した教科書の中に盛り込んだ「ジェンダー項目」に関する考察を行う。今後の教科書作成について参考になればと考えている。ここでは著書を1.日本語・日本文化関連の教科書、2.日本語副教材、3.日本語問題集の3つに分類し、その中から数冊を取り上げて言及したい。

日本語教科書におけるジェンダー:現代社会の実情と教える側の認識  Gender in Japanese Language Textbooks: Modern Society and Teachers' Awareness -------- p.22
Terumi Mizumoto 水本光美 (北九州市立大学)

For students of Japanese, textbooks are not only a means to learn the language, they also play an important role in learning about Japanese society and culture. Among students outside Japan who have no actual experience of living there, there is especially a strong likelihood that they will accept the images of Japanese people and society portrayed within their textbook as real depictions of modern Japan. However, descriptions influenced by concepts of traditional gender ideology can be found in many of the textbooks now widely used in Japanese language education. For example, many of the young female characters appearing in Japanese language textbooks continue to use what are known as “female sentence-final particles” in spite of the fact that such particles have disappeared from conversational, plain-form Japanese speech in actual everyday use. This unnatural language usage has remained uncorrected for some time now in textbooks.

In order to grasp what sort of awareness Japanese language instructors who are using these textbooks in an pedagogical environment have regarding gender, and to see how they are teaching it, I conducted a survey via questionnaire of 200 Japanese language educators. Where the survey revealed an outstanding difference between the answers given by instructors in Japan and Korea and those in Europe was in the section covering the use of female sentence-final particles.

In this paper, I aim to find out how Japanese language instructors have grasped the results of research into female sentence-final particles in textbooks done by Mizumoto et al. (2009), and well as investigating how they are teaching these particles in the pedagogical environment. Furthermore, I will consider why textbooks have been so sluggish in reacting to changes in the language, and put forward a proposal for textbooks in the future.

教科書作成におけるジェンダーバイアス The Gender Issue in Textbook Design -------- p.32
Noriko Sato(ブタペスト商科大学)
Anna Székács(ブタペスト商科大学)

The users (learners) of business Japanese language textbooks would expect to increase knowledge about the Japanese language, culture and society, master the Japanese manner, and develop the communication skills with the Japanese business people through the textbooks. In today’s Japanese society we can find so many gender biased language uses, words, sentences, manners and etiquetts, behaviours of working persons in workplaces, which are traditional and conventional, in other words, almost everyone applies.

This presentation tries to show the business Japanese textbook designers’ and authors’ dilemma of whether to (or how far we should) teach the present situations and conventions in Japan in order to communicate easily with Japanese people or to (or how far we should) show the possibilities and potentialities of gender free language uses, manners and behaviours applying in textbooks. We examine how to handle these sensitive issues from the approaches of the crosscultural understanding, that is, the contrast and the dialogue between the past and the present in Japan and Hungary or the learners’ communities, and discussions among learners and teachers, which would develop the learners’ critical cultural awareness.

Gender Consciousness in Natsume Sōseki -------- p.37
Kayoko Takagi(マドリッドアウトノマ大学)

This presentation aims to explain how in the context of Meiji society Natsume Sōseki developed his consciousness about the gender issues throughout his works. His approach to the female figure starts from the romantic dreamlike image, putting it as something inevitable, yet distant to the man. Some works from his early period show a clear demureness towards women, but this perception changes gradually towards a recognition of the female role in men’s life as a companion, friend and even as a counterpart of a taut relationship between man and woman. We can trace this development by reading his major works. At the same time he was critically aware of the European feminist movement; which soon after found itself on Japanese soil.

Kinship Terminology from a Cultural Perspective: Japanese versus? Hungarian -------- p.43
Judit Hidasi(ブタペスト商科大学)

This article is part of a longer study in progress on the relationship of language use and society with regards to kinship terminology. The article first gives some frame to the study by briefly introducing the concept of kinship, next different descent patterns in societies to be followed by categorization patterns of kinship terminology (Morgan) in Hungarian and Japanese. It is assumed that kin terms are valuable clues to the nature of a kinship system in a society as well as to the social statuses and roles of kinsmen, of the roles of men and women. Changes in kinship terminology also reflect to a certain extent changes of a given society.

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