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学会誌9号-第9回年次大会 基調講演(山折)

「源氏物語の背景にあるもの」
山折哲雄

私が『源氏物語』の中で、その54帖全体の中で、一番関心を持っておりますのは、冒頭の葵上をめぐる強烈な人間関係、 男女の間に繰り広げられる濃密な三角関係、ということにあります。

あの時代に、なぜこれ程しつこい、濃密で執念深い、男女の三角関係を描いたのか。 その文化的背景は一体どのへんにあるのかということです。それは本当に日本人我々の美意識、 今日の美意識と合致するものであるのかどうか。そういう関心が、私にはありました。そういうところで、 「三角関係」の話からまず最初は申しあげてみたいと思います。

ご承知のように、光源氏が最初に正妻としたのが葵上であります。やがて出産の場面を迎えます。それが大変な難産だ、 ということになります。なかなか子どもが生まれないんですね。そのうち周辺に噂が立つようになります。それは、 葵上にある人間の物の怪が取り憑いたために、そのために子どもが生まれない、それで難産で苦しんでいるんだ、 とこういう噂が立ちます。

心配になった夫の光源氏は産褥で苦しんでいる妻の葵上を見舞う、印象的な場面なんでありますが、 だんだんその葵上の顔がかつての恋人、捨ててしまった恋人の六条御息所の顔に似てくるんであります。それで、 思い悩むっていう場面が出てきます。

つまり、ここで『源氏物語』の冒頭に出てくる三角関係の基本的構造が現われているんですね。男の主人公、 光源氏とその光源氏の愛を奪い合う二人の女、六条御息所と葵上、とこういう関係であります。正妻は葵上であります。

当時、六条御息所は、源氏に疎まれて別の所に住んでおり、その六条御息所の物の怪が、葵の上に取り憑く。 六条御息所はまだ生きておりますから、これ、生き霊が取り憑くんですね。その状況を見て、光源氏は密教の加持祈祷僧を呼ぶわけです。 加持祈祷僧の霊験、霊力によってその物の怪を駆り出す、悪霊払いの儀礼を展開するわけです。その、悪霊払いの儀礼というのが、 密教の修法に基づく儀礼なんです。どういうことをやるかって言うと、その病室の隣の部屋に五大明王を並べるわけです。 五大明王の像を並べて、その前で加持祈祷僧たちが護摩を焚いて真言陀羅尼を唱える。激しい加持祈祷の儀礼が展開されます。 紫式部はこれを克明に描いております。その結果、葵上に取り憑いていた六条御息所の物の怪、怨霊が駆り出される、 その駆り出された怨霊を身に引き受ける下級の女房が、その産褥にはべっています。その女房達が駆り移されたといって騒ぎ始める。 これで悪霊払いが完了する。こういう描写になっております。これが、あの、『源氏物語』の比較的冒頭の部分に出てくる、 光源氏をめぐる男女の三角関係で、そのドラマが凄まじい状況を映し出している―よく引用される場面であります。

この三角関係というのは、今日はあまり詳しくは申し上げる時間がございませんけれども、 『源氏物語』54帖の全編にわたって重層的に繰りひろげられていくんですよ。光源氏はその後、葵上が亡くなった後、 紫の上と女三宮を正妻にします。つまり三人の女性とつぎつぎに正式に結婚していることになります。  

ところが、ただ今申しあげた葵上は、物の怪を駆り出す加持祈祷が成功した直後、子どもの夕霧を出産いたします。 これで、めでたしめでたしになるはずなんですけれども、そのホッした間にですね、せっかく子どもの夕霧が誕生したにもかかわらず、 それを生んだ葵上は息を引き取ってしまう。結局、六条御息所の物の怪によって取り殺される。

ここからしてもその三角関係の凄まじさというものがわかる。その葵上が亡くなった後、つぎの正妻になるのが紫の上。 光源氏が無理矢理正妻にするわけですね。その紫の上が正妻になっている時に、今度は女三宮を妻にする。 天皇の意向を入れて自分の妻にする。そこで発生するのが、新たな三角関係であります。

六条御息所はやがて死にますけれども、死んだ後もその執念の思いは物の怪となって紫の上に祟る。 それが原因になって紫の上もやがてこの世を去る。物語が進行するにつれて三角関係がトグロを巻くように、 渦巻き状をなして『源氏物語』全編の主要なテーマになっていく。私はそう思います。

もしもそうだとすると、そのどうにもこうにもならない、地獄図絵のような人間関係の愛憎をどのようにして解放するのか、 そこに登場する人間たちをどのように救うのか、次にそのような問題が出てくるわけです。 そこで大きな役割を果たすものの一つが加持祈祷の儀礼なんです。

その加持祈祷の場面ではまず、不動明王を中心とする五大明王の像、もしくは、絵像を並べ、護摩を焚く、 そして真言陀羅尼を唱える。これを五壇の御修法とこう言っております。 源氏物語の中に繰り返し出てくるのはこの五壇の御修法であります。病気になったり、死病に取り憑かれたり、 あるいは流行病が発生したり、この地上に異常な事件が起こったりするような時、その原因は誰かの物の怪である、 という病理診断が下される。これがあの王朝時代の常識でした。つまり『源氏物語』が描かれた時代の貴族たちの美意識であると同時に、 宗教意識をも同時に表していたということになります。

面白いのはですね、この物語の中で語られている御息所、葵上、光源氏の三人をめぐるフィクショナルな三角関係―、 それとまったく同じ状況が当時の政治的な事件の中でも展開していたということであります。そのことが紫式部によって書かれた、 『紫式部日記』の冒頭に出てきます。

この『式部日記』の冒頭も出産場面で始まるんですよ。これは、偶然でしょうか。私は必然だったと思いますね。それはなぜか、 なぜ出産場面がそこで重要な問題になるのかというと、 当時の王朝政権にとってはそれが王権の誕生を象徴する重要な場面だったからだと私は思っております。

そういう点で、『式部日記』が当時の実際の政治的な事柄を描写する中に出産場面を持ち出しているところが重要であり面白いと、 かねて思っているんです。その当時の政治的な背景はどういうものだったのか、 それが『式部日記』の中にどのような形で出てくるのかということが次のテーマになります。

当時、紫式部が仕えていた主人が周知の藤原道長であります。道長は兄の道隆の死後、権力を奪って自ら藤原政権の頂点に立った。 独裁政権を確立するわけであります。

その兄道隆の娘が定子で、これが一条天皇の中宮になるんですが、やがて早く世を去ります。 そのあと道長が兄の政権を奪って太政大臣に進み、今度は自分の娘彰子を一条天皇の中宮にするわけです。

その自分の娘である彰子に皇子が誕生して後一条天皇になるわけですね。 だから道長は、自分の王権を確立するためにどうしても自分の実の娘を中宮ないしは皇后にして、男子を出生させなければならない。 そういう野心が、道長の中にあったわけで、その欲望を着々と実現していくんです。道長というのはすごい男ですね。

今日の日本の政治家は、よく織田信長を恐れ、高く評価してますけれども、 しかし考えてみると信長によって日本の政治を語ってもその本質は見えてこない。それを見通したり検証するためには、 私は道長の方がはるかに重要な人物だと思っております。

平安時代350年、江戸時代250年というのは、日本の歴史の中では長期にわたる平和を実現した時代でありますが、 そのような政治の仕組みをつくった秘密を理解するためには、 どうしてもこの道長政権というものの本質を知る必要があるのではないかと私は思っております。

その第一着手として道長がやろうとしたことが、娘を皇后にして、中宮にして自分の孫に当たる人間を天皇にして外祖父になる。 そしてこれに成功するわけです。

その自分の娘の彰子が中宮になって、最初の皇子を出産する場面がこの『紫式部日記』の冒頭に出てくるのであります。 この時も難産で苦しむんですね。苦しんでいるうちに、これは何者かの物の怪が取り憑いたんだという噂が立つ。

噂が立ってやがて道長の主導のもとに加持祈祷僧を招いて五壇の御修法が行われる。 病室の隣の部屋で不動明王をはじめとする五大明王を飾って、その前で護摩を焚いて真言陀羅尼を唱える。 『源氏物語』の場合と全く同じことをやっている。そのことによって悪霊、 すなわち物の怪が彰子の体から駆り出されるという場面ですね。皇子が無事出産するわけであります。

これが後の後一条天皇であります。この時の道長の得意、思うべしですね。物の怪が取り憑いて、 皇子が出生する場面で彰子が苦しんでいる。それを駆り出すために密教僧が総動員されている。 この構造が『源氏物語』の冒頭に出てくる先ほど申しました、葵上出産の場面とそっくりそのまま同じなんですよ。

ここはですね、『源氏物語』の基本構造を示しているところで、 当時の王朝政権の政治の基本構造とも対応するという説が出てくる所以であります。そういう歴史学者もおいでになるわけです。

ただ、その構造を子細に見ていくと、今申しあげたように非常によく似ているんですけれども、 しかしそこに異なっている点が二つあります。『紫式部日記』という歴史的な文書の中に表れている人間の三角関係と、 『源氏物語』という物語文学の中に表わされている三角関係―それは構造的には全く同じなんでありますが、 しかし表現の仕方についてみていくと異なっている点が二つございます。

一点は、物の怪の正体が「物語」においては明らかにされているけれども、「日記」では明示されていないということです。 つまり『物語』では六条御息所の怨霊、生き霊が取り憑いておるということで、物の怪の正体、 つまりその病原体が明らかにされているということですね。

それに対して『紫式部日記』の冒頭に出てくる彰子の出産場面では物の怪の正体は明らかにされておりません。 明らかにされておりませんけれども、前後の状況からしてその物の怪の正体が定子であることはまず間違いない。

一条天皇の最初の中宮が道隆の娘の定子であります。『枕草子』のあのサロン、 文学サロンの主人公の役割を果たしたのが藤原定子であります。中宮ですから藤原の姓はありませんが。

道隆一族が没落した後、定子が亡くなった後、今度は道長の娘の彰子が現れて、紫式部を中心とするサロンが新たに展開していく。 この時代的な落差が問題なわけですね。

だから当然当時の人々は、彰子が出産する時に苦しんで物の怪が取り憑いたという噂が立てば、 その物の怪の正体は定子であると誰しも思っていた。だが定子はとにかく中宮の地位に就いた人ですよ、 その名をあからさまに「日記」に記述することは憚られる。

この違いです。これが歴史的な文書と物語文学における記述の仕方の違い、しかし背景にある思想は全く同じであります。 これが第一点。違うといえば違う側面です。

もう一つの違う側面というのがですね、『源氏物語』の方で葵上が難産で苦しむ場面があります。 そこで祈祷僧がやって来て護摩を焚くことを申しましたが、その場面で作者は護摩の中に芥子の実を投じさせています。 真言密教僧に芥子の実を投じさせている。

そうするその芥子の実が護摩の火に焚かれ、その匂いが宙を飛んで、御息所のところまで飛んで行く。御息所がふと気がつくと、 自分が着ている着物に芥子の匂いがする。

そこで彼女は自分の執念が、物の怪になってライバルの葵上に取り憑いたということに気づき、恥ずかしく、情けなく思う。 それで深く反省する場面が出てまいります。

これはすごい描写ですよ。現代的というか心理的な表現としてもさすが紫式部だなと思わせる場面ですね。 芥子の実といったら麻薬であります。もちろん当時の密教僧は加持祈祷を行う時にそういうことをしていた。 神秘的な体験を誘い出すために、護摩の中に芥子の実を投じていた。そういう事実はあったんです。

そういう点では、当時の真言密教僧というのは医師であると同時に魔術師でした。 魔術師としてそういう麻薬の世界に通じ薬草の知識をたくさん持っておりました。 芥子の実を投じたということは十分に考えられることであります。

そういうことを紫式部はちゃんと承知したうえで、その芥子の実を巧みに物語の中に登場させ、そのことを通して、 人間の嫉妬感情の深さ、罪深さのようなものを象徴的な形で表現しようとしていた。ここのところはやはりすごいですね、 紫式部は。ところがね、それに対して先ほど申しました『紫式部日記』の冒頭の加持祈祷の場面では芥子の実は出てこない。 実際どうであったかというのはこれまた客観的に検証をしなければならないところでありますけれども。

もしかすると「物語」の方に芥子の実を持ち出したのは、紫式部のイマジネーションが作り出したのだったのかもしれない。 そこのところはよくわかりませんけれども、とにかくそういう点が違います。微妙に違っている。 物語と歴史的文書の間にそういう相違点があるということを申しあげておきます。

しかし、その基本構造は、全体として見ますとやはり共通している。『式部日記』というのは、 藤原道長政権の王権誕生の物語として読める。道長という権力者のそばにはべる人間として、 キチンと記録しておかなければならない事件、つまり出産の場面を克明に記録しているわけです。

それに対して、『源氏物語』の方はどうかというと、葵上を中心とする三角関係の問題が、 王権誕生の物語としてよりはむしろ男女のドロドロした三角関係の物語、 愛憎を巡る地獄図絵のような世界を全面的に浮かび上がらせる形で記述されている。この違いがあるわけであります。

さて、そういうことを前提にして次の問題に入っていきたいと思います。実は先ほどから何度も申しあげております、 五壇の御修法についてです。物の怪が憑いた時、どうして悪霊払いをするのかと考えますと、当時の貴族社会の常識では、 これはまずはじめに真言密教僧に任せる以外にないということになっている。 加持祈祷によって悪霊払いの儀礼を行うことが貴族たるものの心得になっていました。 そうすることによって三人の人間関係の間に入ったひび割れを修復できると考えたわけであって、 それは一種の救済装置としての密教儀礼なんです。その道具立てとしてまず五大明王が非常に重要な役割を演じている。 さらに真言陀羅尼を唱え、護摩を焚く。さらにこれに加えてそのような密教儀礼においては曼荼羅を掲げていた。 これが重要なことなんであります。胎蔵界曼荼羅(タイゾウカイマンダラ)、 金剛界曼荼羅(コンゴウカイマンダラ)という大儀のものをですね、里内裏とはいえそのお屋敷に運んで行く。 それはそれで大変だったと思うんです。五大明王の像を運ぶだけでも大変ですけれども、 これはもう当時の貴族の屋敷にはキチンと用意されていた。別に密教寺院から運ぶ必要はなかったんでありますが、曼荼羅となると、 最も重要なご本尊であります。そういう道具立ての中で、この五壇の御修法が行われる、 この五壇の御修法による加持祈祷のシステムというものを最初に作ったのは誰かというと、これが空海なんです。 『源氏物語』が書かれる一世紀半ほど前、すでに空海は時の天皇、嵯峨天皇の勅許を得て、内裏のど真ん中にですね、 この五壇の御修法を行うためのセンターを作っております。それを真言院といったのですね。 内裏のど真ん中と今申しあげましたけれども、紫宸殿や清涼殿のすぐ隣です。そこに真言院を作った。そこで何をしたかというと、 毎年正月になると天皇においでいただいてですね、その天皇に対して、加持祈祷を行う。その時の宗教的な道具立てが五壇、 つまり五大明王の像、それから曼荼羅。護摩を焚いて、真言陀羅尼を唱える。このシステムを空海が主導してつくっていた。 この真言院を建てたその翌年、空海はこの世を去っております。空海はおそらく、天皇の身体の管理を行うことを通して、 国家の支配を目論んでいた。「鎮護国家」という言葉がよく教科書には出てまいりますが、その内容というのは、まず、 天皇の身体、つまり玉体をコントロールすることを通して、日本国を全体としてコントロールしようとすることだったことがわかります。 その点では空海は日本国家を略奪しようとした宗教家だったといえるかもしれません。高野山でこんなことは言えませんけどね。 こういう学会だから言えることです。

この空海が、宮中の真ん中に加持祈祷の儀礼体系というものをひそかに植え込んだ、 その影響下にその後の平安貴族たちは生活することになる。当時のさまざまな記録をみるとわかりますが、そのころの国家や、 社会の秩序を一番脅かすものとされていたものが「物の怪」という霊威の働きであります。これは時代によって「怨霊」と言ったり、 「御霊」と言ったりいたしますけれども、一切の異常な事件を引き起こす病原体と意識されていた。 空海から紫式部の時代にかけての時代、それらの怨霊のほとんどが「物の怪」という風に称されております。 この地上において異変が起こると、それは必ずやある神々の霊の祟りである、人間の怨霊や物の怪の祟りであるという、 そういう病理診断が下されるのが普通でありました。『源氏物語』を読んでおりましても、登場する人物が病気になったりすると必ず、 加持祈祷をしている。そしてその原因は物の怪であるとなる。誰それの物の怪であると病原体を名指しをすることもある。

当時の歴史的な背景をもとに『栄華物語』などを読んでもわかるんですが、藤原道長自身が真言密教僧の装束を身につけて、 真言陀羅尼を唱え、護摩を焚いて加持祈祷をやっております。彼は単なる政治家じゃありませんね。 呪術師としての才にも恵まれた男です。

自分の娘たち息子たちが病気になると真っ先に坊さんの衣装に身を固めて加持祈祷をやっております。 そのやり方の基本が先ほど申しました五壇の御修法。

そういう意味におきまして、『源氏物語』に流れている「ものの哀れ」という美意識と、 空海の考えていた密教的な美意識というのはその世界観や人間観を含めて共通していたと私は思っているんです。

その共通の美意識の上に真言密教の儀礼体系というものが作られていたと思います。 紫式部の物語的イマジネーションもそこに花開いた。基礎にあるのが、五壇の御修法ということであります。

人間の生命に異変が起こると、また地上に疫病が発生すると、まず真っ先に行われたのが加持祈祷なんですよ。 これは現代人にとっては、なかなか理解しにくいところなんですが。

ところが古来、「源氏」論の白眉といわれた本居宣長の『玉の小櫛』において、彼はこんなことを言っている。王朝時代、 人間が病気になった時、真っ先になすべきことが加持祈祷である、と。

祈祷することこそが雅びで、あわれな手当てなのだと。それに対して薬師を呼んで薬を飲ませて治療するという、 いわば現代的にいうと医学的な治療を行うのは、むしろさかしらだった、卑しい治療法である。哀れならざる治療である、 このようにはっきり宣長はいってるんですよ。

この観点というのはさすがだと思いますね。今日のレベルでいいますと病気になった人間はすぐ外科手術をした方がいいとか、 いろんな注射を打ってもらった方がいいとか、我々は思っているわけですけれどね。 しかし実はそんなことよりも心のカウンセリングの方が大事だよと。

薬なんか飲まずとも、手術なんかせずに治す方法はいくらでもあるという考え方とどこかでつながっている。 そのカウンセリングのやり方に祈りの行為を加えるといってもいい、 そうすれば正に王朝時代の病気治しの基本的なパターンというのが浮かび上がってくる。

このへんもですね、宣長は『源氏物語』の世界というものを考えるときにですね、弘法大師、 空海が考案した五壇の御修法の宗教的救済装置を前提にして、 それと切っても切れない関係にあるということをちゃんと掴んで論じていたんですね。

残念なことに、そういう宣長の「源氏」論の大切な部分は今日の文学研究や文学評論の中にはほとんど表れてこない。 「物の哀れ」一本槍の議論しか聞かされてこなかったような気がいたします。

これは私が宗教の研究というか仏教の研究を行っている、そのことから来る、ある種の偏向的な解釈かも知れませんが、 しかし大筋は動かないだろうと思っております。

さて、私が今日申しあげたいと思ったのは『源氏物語』と空海密教との関係でした。それを第一の主題においてお話したので、 私が申しあげたかったことはそれで尽きているのですが、 ここで少しその『源氏物語』以後の問題はということで付け加えてみたいと思うことがあります。 日本の思想史あるいは文学史の問題とかかわるかもしれません。そのことを少し妄想を加えて申しあげてみたい。 それはですね、男女の三角関係ということです。『源氏物語』で展開されているような人間の三角関係というものが、 その後の日本の文学史、思想史の中で、どの程度継承されているのか、どの程度問題視されるようになったのかということなんですが、 それが考えてみますとね、ほとんどないんですよ。

この男女間の濃密でドロドロした人間関係というのは、不思議なことにあの王朝時代の物語の世界でだけ語られていて、 あとはぽつんと切れてしまっているということです。中世、近世に至って、あのような人間関係が再び現れることはないのではないのか、 こういうことです。もっとも『問わず語り』というすごい物語はあるんですが、 あの世界はここでいう三角関係のそれとはかなり違った味わいのものです。

私にそういうことを思いつかせたことが二、三ございますけれども、その中の最も重要なものとして一つだけ申しあげてみたい。 申しあげてご批判ご教授をいただきたいのですが、ちょっと自信もない。それはですね、

日本の近代文学の中で、先ほど申しあげたような濃密な男女の三角関係というのを正面から描ききった作品、 これを探そうとすると案外ないんですよ。この三角関係を正面から描くことをどうも回避しているようなところがあるのではないか。 皆さん、思い出してください。誰かやっていますか。紫式部が描いたような、ああいう濃厚な人間の三角関係…。

わずかながら、その問題に挑戦しようとした作家が私は夏目漱石だったと思うんです。夏目漱石こそ、 近代における日本人の男女の三角関係を真正面から描こうとした稀な作家だったという気がいたします。

その代表的な作品が『それから』と『門』です。ところが、この漱石の作品では、 まことに不思議なことに「三角関係」が最後にいくにつれて「対の関係」に還元されてしまっている。

『それから』というのはご承知の通り、友人の妻を奪った男が世を忍ぶように遊民的な生活を送る、 これが物語の主題になっています。

奪った人間が代助、友人が平岡。平岡の愛人だった女が三千代ですが、 物語は終始一貫この代助と三千代の二人の物語として展開していくわけです。友人の愛人を奪ったわけですから、 その構造は正に『源氏物語』における構造と同じですね。

ところが不思議なことに、あの作品を読むとよくわかるんですが、いつの間にか平岡という女を寝取られた男が、 舞台の正面から姿を消していく、その存在感が薄くなっていく。気がついたらどこか外国-満州-に行っている。 そのような記述になっている。漱石はその平岡を前面に出して、平岡、代助、三千代の葛藤の関係というか、 ドロドロした男女の愛憎のドラマを描こうとしてはいない。 むしろそれを彼は明らかに避けよう避けようとしている。 そういう点で『それから』という文学世界が切り開いた世界はいつのまにか近代的自我を持て余し 翻弄されているような代助と三千代という二人の人間にだけ焦点が合わせられている。

三角関係を対の関係に還元しようとしているといっていい。それを漱石が意識的にやったのか、 あるいは無意識のうちにやってしまったのか、そういう問題があります。ここは非常に難しいところですね。 もっともここは私もよくわからない。意識か無意識かによってあの作品を評価する仕方がだいぶ変ってくるような気もいたします。 ともかく、出発点は明らかに、男女の三角関係というドロドロした世界だったわけですが、 それがやがて漱石の構想の中では解消されていってしまうわけです。だんだん平岡という存在が消されていった。 第三項排除の原理がここでも働いているんですね。

これが不思議です。

日本の近代というのは、人間関係のあり方をとりわけヨーロッパのモデルに合わせて追及しようとしてきたはずなのに、 そのもっとも基本的な構造を言わば、破壊するような美意識を取り戻そうとしているように私の目には映るわけです。 ちょっと誇張したいい方になりますがね。

同じことが、全く同じことが次の作品『門』でも展開されているんです。『門』でも、友人から女を奪った男が出てくる。 それが宗助、女がお米です。奪われた男が安井と言う人物。この人物は時々小説の舞台に登場してきますが、 その舞台の正面には出てくることはない。ここも第三項排除であります。 結局この『門』という名作も最後までこの宗助とお米のあいだの孤独なダイアローグ、対の関係で進行していくわけです。
 こうなるとですね、やはり漱石は意識的に第三項排除の軌道をしいていたと思わざるを得ない。 自分の女を奪われた人間の怨念や嫉妬、苦しみや嘆き-そういう世界をえぐり出すことをあらかじめ回避していた。 もしもそうだとすると、これは紫式部のやり方と決定的に違うところですよね。

その側面に焦点をしぼるとき、日本の近代の文学は一体何をしたのか。今日、 『源氏物語千年紀』を祝う催しがこの日本列島のいたる所で行われていますけれども、今いったような視点からふり返ってみるとき、 我々現代人に紫式部の美意識、その人間観というものが本当に理解できているのかなと、自分を含めてふと疑問に思うことがあります。 私もそこのところは正直いって納得できないでいるんですよ。なぜ漱石がそういう態度に出たのか。 自分自身の乏しい経験から言ってもですね、自分をドロドロした愛の三角関係のど真ん中に投げ入れて、 その上で客観的に自己を見つめたり、他者を見つめたりするなんていう仕事は、どう考えても嫌ですね。 何とかしてその場面を回避したくなる。回避しよう回避しようとする意識が働くことがはじめからわかっている。 皆さんはいかがですか。いやあ、三角関係は楽しいよ、なんて人はいますか。

むしろそういう世界は、ドストエフスキーとかトルストイの分野ではないか。19世紀文学の独壇場だったと思いますね。 すごい三角関係が出てきます。それを楽しんでいるのかと思うくらい、そのような残酷な人間ドラマの世界が、 これでもかこれでもかという執拗さで描かれていますよ。

ドストエフスキーでもバルザック、スタンダールでも。19世紀文学から日本の近代文学は実に多くの影響を受けているはずなんですが。 その点になると修羅場を回避している。

そんなことをあれこれ考えていますと、ああ、紫式部の人間観というのは限りなくドストエフスキーに近い、バルザックに近い、 あるいはヨーロッパ19世紀の文学に近いと、つい思いたくなる。

どうして、そういうことになったのか。日本人はいつからあの源氏物語的な美意識の世界を回避するようになったのか。 その革命的な転換が起こった時代がどこかにあったに違いない、-そう私は思うようになったのです。そこで行き着いたところが、 私にとっては15世紀という時代でした。

あの応仁の乱といわれる時代です。

かつて内藤湖南という歴史学者がいました。日本人の現在を理解するためには応仁の乱以前を理解する必要はないと言った人です。 日本の歴史は応仁の乱以降で定まる。その一大転換点が15世紀。人間観と美意識の大転換が起こったということです。

柳田国男もそうです。民俗学の立場から今日の日本人の衣・食・住の生活全般を理解するには、 応仁の乱以来のことを研究することだといった。応仁の乱以後になって今日の日本人の 衣・食・住のライフスタイルは定まったんだということを言っています。

全く同じことを言ってるんです。歴史学者内藤湖南と民俗学者柳田国男が考えてることが同じだったということですね。

そこで先ほど申しました人間関係、三角関係という問題を考えた場合、 漱石と紫式部の間にこれだけの落差があるということが同時に気になってきました。 その落差を演出した時代がもしかしたら15世紀だったのではないかという妄想までがでてきたんですね。これはこれでまた、 そこから内藤湖南、柳田国男の仮説というものをもう一遍考え直してみることへとつながるかもしれません。

私の考えでは15世紀になって日本人の美意識に大きな転換があったのではないかと思っているんです。 そのことについて今日は多くは申しあげられませんけれども、その転換を象徴する三人の人物がいると思うんですよ。 一人は世阿弥。能楽の世界ですね。二番目が千利休の茶の湯の世界。 それから三番目が雪舟の水墨の世界です。この三者に共通している美意識を一言でいえば、一般的にいわれているように侘び、 寂びなんですね。水墨的な世界といってもいい。

世阿弥の能楽のエッセンスをよく示していると言われるのが、夢幻能ですが、それを見ますと、主人公はみな亡霊です。 シテは亡霊。死者は冥界を彷徨っていて、何かの機縁でこの世に出てくる。自分の生前の時代のことをいろいろ嘆く。 嘆きに嘆いて舞を舞ってまたもとの冥界へと去ってゆく。死者が主人公の世界なんですね。 いわば生きている者たちの世界を灰色一色で塗りつぶすために登場してくる。そこには世界観の大転換が、 やっぱりあったと思います。

それから、千利休の茶の湯の世界。これは、その四畳半あるいは一畳、半畳の世界こそが美的に最も洗練されている、 芸術的にも宗教的にも水準の高い空間だというわけで、それがそもそも茶の世界だったというわけです。 そこで侘び茶ということがいわれている。

そのような利休の美意識が秀吉と対立して、切腹を仰せつかった。茶の湯の宗主というのは死の影がまとわりついてるんですね。 千利休がそうでしょう。利休の高弟の一人であります山上宗二が秀吉によって虐殺されております。それからその利休の、 これも高弟の一人であります古田織部がやがて家康の嫌疑を受けて、これも切腹させられます。 その利休以降の茶人で凄い力を発揮した連中はみな非業の死を遂げてるんですよ。死の影がそこに非常に色濃く漂っている。 15世紀における利休の茶、その茶の湯の考え方の底にですね、やっぱり王朝時代の美意識とは違うものがある。そこに忍び込んでいる、 その違うものの源流が道元に発しているだろうと私は思っている。13世紀の道元とともに美意識の転換がはじまったのではないか。

三番目が雪舟です。雪舟の水墨画というのは絵の全体から光を奪う、色彩を奪う、 そういう形で日本の山水の世界を浮かび上がらせようとしている。 日本の自然の中に虚と無の世界を描き出そうとしてあのような手法で描いた、そこからあの水墨画の世界が生まれた。

夢幻能の世阿弥的な世界、茶の湯における侘び茶の美意識、そして、雪舟の水墨画の世界ということになるんですけれども。 それはそれ以前の、王朝時代の絢爛たる美意識、バタ臭い密教思想とは異質なものといっていい。だいたい空海の密教思想というのは、 中国の長安に行って仕入れたものですね、インド伝来のインターナショナルな文明の洗礼をうけている。 インド的な絢爛豪華な密教装置をさまざまな形で満載しているわけです。全然違いますよ。 そういう大陸伝来のインターナショナリズムを根底から否定するような運動が、 この13世紀から15世紀にかけて起こっていたということではないでしょうか。

日本列島における第二の美意識、と言っていいかもしれない。この15世紀というのはですね。 もしかすると時間軸におけるフォッサマグナの構造線をつくっていたのかもしれないと思っております。 日本列島には多元的な文化が分布しているとよく言われます。それは基本的な考え方の一つですね。その代表的なものの一つに、 静岡県から裏日本の糸魚川にかけての地帯に一本の構造的亀裂が走っているという。 その構造線に沿って地質学上日本列島は二つの部分に分けられる。東北日本と西南日本というわけで、あそこを中心として、 二つの異質な文化が作り上げられた、生み出されたんだと、こういう説があります。

確かに、いろんな面で東北日本と西南日本では文化的な相違が見られるんですね。 それが政治的なものの考え方の違いにまで及んでいる。いろんな研究者がそのことを明らかにしております。 これはいうまでもなく空間軸におけるフォッサマグナの問題でありますけれども。 これを時間軸に移し替えた時にそれがちょうど日本の歴史の中では15世紀がそれにあたるのではないか。 それで美意識におけるフォッサマグナといってみたのであります。

それではそれまでの王朝時代の美意識というのは、15世紀以降の侘び寂びや水墨的な美意識によって完全に滅ぼされてしまったと言うと、 それは恐らくそうではなく、二重構造化して今日の日本人の心の内に受け継がれてきているのではないかと思っているんです。
 日本人は一面では、パリのファッションに憧れたり、ブランド品に夢中になったりするようなところ、 華やかなデザインにのめりこんでいくようなところがあるんですね。

ところが、一面ではやっぱり侘び茶の世界に憧れている、水墨画の世界に引き込まれていく、そういう感覚も根強く持っている。

これはそういう二重性の美意識といってもいい。それがどうも現代の日本人の間にも流れ続けているのではないかと思うんですね。 だから我々がヨーロッパ文明をいち早く受容できたのも、 そういう二重構造の意識、美意識をもうすでに歴史的に長い間かかって形成してきた、 そういう経験の積み重ねがあったからではないかと思います。

ちなみにいっておきますと、先にいった空海密教とか、『源氏物語』に表れている美意識、その伝統と共通するもののひとつが、 たとえばそれ以前の時代に目を向けますと奈良時代の正倉院芸術の世界ですね。これも大陸の、 当時最高の美術工芸品を仏教思想とともに受容していたもので、 その影響下に日本人のファッション感覚をはじめとする想像力やさまざまな芸術芸能が生み出されることになったわけです。

先ほど申しあげた、漱石が人間の三角関係を描く時に、いつの間にか対の関係を描くことになってしまった、第三項排除の方向に向かって行ったってことも、あるいはその背後に、 そういう日本の美意識の歴史における二重構造化の問題があったのではないかということを申しあげて終わりにしたいと思います。

最後にあと1分で、蛇足を申しあげますと、谷崎潤一郎の問題があります。『源氏物語』を最初に現代語に翻訳した谷崎。 谷崎はこの二重構造化した日本の美意識に対してどういうスタンスでものを考えていたのだろうかということです。 これはもしかすると非常に象徴的な事柄かもしれません。

彼は昭和6年に『恋愛と色情』という面白いエッセイを書いております。ここで、 王朝時代における女性讃美の文学を最大限大に評価しました。それに対して江戸時代、この江戸時代の町人文学というのは下世話な、 つまらぬ文学である、とはっきり言い切ってますね。この昭和6年の『恋愛と色情』というエッセイにおいて、 彼は間違いなく王朝文学、王朝時代の美意識に肩入れをしているわけであります。が、そのわずか2年後、 昭和8年になって『陰翳礼讃』というエッセイを書いてるんですよ。 この『陰翳礼讃』は正に彼の京都生活の中から生み出されたものと言っていい。侘び寂び、陰影の美学、 というものを巧みな構想と、洗練された構成によって表現している。そこには15世紀に行われた、 さきほどの侘び寂び革命というか、水墨的な世界観をベースにして日本人のもう一つの美意識を明らかにしようとしている。 わずか昭和6年から8年にかけての時期に、対立するかのような美意識の問題を論じているわけです。

さて、その谷崎は果たして、あの紫式部の考えていたような美意識、これは評価はしたけれども、 彼自身の体内に埋め込まれている美意識は果たしてそれに従順に従っていたのだろうかということです。彼もまた江戸に生まれた、 東京に生まれた近代人です。その点では漱石と同じ、同じ環境の中で文学者としての生活を始めている。

今、私にとって『源氏物語』を考えるということは、近代の文豪、夏目漱石と谷崎潤一郎をどう考えるか、 ということとも繋がっているということを最後に申しあげて、本当に大風呂敷をひろげただけの話になりましたけれども、 時間になりましたので、これで終わります。

(山折哲雄 やまおりてつお 国際日本文化研究センター名誉教授)

 

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