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学会誌8号-巻頭論文(北沢)

性差とジェンダーの構造

北沢 方邦

序 論 性差とジェンダー

いまなぜ性差とジェンダーが問題となるのか。

かつて性差(sex difference)は純粋に生物学的なもの、ジェンダー(gender)は社会的・文化的なものと考えられ、これらはまったく次元を異にする問題として扱われてきた。しかしこれから述べるように、性差とジェンダーは不可分な概念であり、その複雑でダイナミックな相互関係を理解しないかぎり、人間の社会や文化の理解は不可能であることが明らかとなってきた。

それは、近代を支配してきたデカルト的二元論の根底的批判として、いわゆる精神(以下思考とする)と身体の不可分性、および両者の媒介概念としての《身体性(physicality)》を追求することでもある。身体性を認識することはまた、人間と自然および宇宙とのかかわりを深い視点から照射し、脱近代的認識論の確立に寄与することにもなる。

性差とジェンダーについていえば、それは必然的に思考と身体を媒介する脳の問題となる。なぜなら近年、脳神経科学などの展開により、脳の性差がジェンダーの問題などに深くかかわることが明確となったからである。

たとえばカルヴィンによれば(Calvin,2000)、脳の言語サイトは男女によって異なる。男の脳では、名詞と事物を照合する命名サイトとよばれる領野は、耳の上部に位置するシルヴィウス裂溝後端にあるのに対して、女ではそれは前頭葉にある。したがって脳内出血などによるサイトの損傷に対して、女はより強い。事実、交通事故などによる脳の損傷からくる失語症のうち、5人に4人は男である。女の平均寿命が高いのも、種の保存を担う女の身体が、脳にかぎらず、男より防御機能にすぐれているからである。

またスミスによれば(Smith,2005)、左右の脳を接続する脳梁(corpus callosum)と呼ばれる部位の容量は、男より女のほうが大きい。いうまでもなく人間の脳は左右の半球に分かれ、右半球は感覚や感性あるいは身体にかかわり、左半球は言語や知性あるいはいわゆる理性にかかわっている。脳梁の容量が大きいことは、ここが左右の脳のブリッジであるから、女のほうが左右の脳のコミュニケーションにすぐれ、すべての問題についての判断力も均衡がとれていることを意味する。また男でも、音楽家の脳梁の容量が大きいという指摘もおもしろい。なぜならいわゆるクラシックの音楽家は、音楽という感覚的・感性的なものを、つねに楽譜という知性的で合理的なものに翻訳する、またその逆を行わなくてはならないからである。

スミスはまた、この脳梁の性差が、ジェンダー差に表れているかもしれないと示唆している。つまり政治的世論調査などでは、アメリカでもわが国でもつねに女は平和志向であり、いわゆるジェンダー・ギャップが顕著であるが、それは種の保存という女に固有の遺伝情報とともに、こうした脳の性差が影響していると思われる。

身体と思考を媒介する脳の性差が、社会や文化におけるジェンダーの存在に深くかかわっていることが明かとなれば、ジェンダー概念そのものが再検討されなくてはならないことはいうまでもない。以下にジェンダー分類法や、最近のフェミニスト人類学によって明らかとなった社会に潜在する「ジェンダー・システム」の構造を通じて、ジェンダー概念の再構築(deconstruction)を試みてみよう。

Ⅰ ジェンダー分類法

狩猟採集や遊牧、あるいは農耕という基本文化の相違を超えて重要な、暦の作成のための天文学から、薬草学をふくむ植物分類法にいたる自然科学的思考は、人類にとって普遍的な思考体系であるが、同時にその認識のうえに、すべての種族はそれぞれに固有の神話的思考にしたがって宇宙論を形成し、生活や世界そのものに意味をあたえてきた。
 だがそれぞれの神話的思考の具体的差異にもかかわらず、母なる大地と父なる天の均衡によって世界が成立し、その均衡の保持によって天地の豊饒が保証されるという考えは、きわめて普遍的である。各種族の宇宙論の根幹をなすこの考えが、人間の社会に反映しないはずはない。それが各種族に固有のジェンダー分類法(gender taxonomy)とジェンダー・システム(gender system)である。

ジェンダー分類法とは、自然科学的分類法とはまったく別に、植物や動物など具体的事物から色彩や数など抽象的事物にいたるすべてを、宇宙論や神話的思考に基づいて分類するものである。よく知られている例でいえば、インド・ヨーロッパ語では名詞は女性・男性(および中性)のジェンダーに分類されているが、それは古代の神話に由来している。

ドイツ語で太陽が女性(die Sonne)、月が男性(der Mond)であるのは、ゲルマン神話では太陽が女神、月が男神だからである。古代英語でも太陽(sunne)は女性、月(mona)は男性であったが、ノルマン人の征服以後、フランス語の影響で太陽は男性、月は女性とジェンダーが逆転してしまった。フランス語などロマンス語系諸語で太陽が男性、月が女性であるのは、いうまでもなくギリシア・ローマ神話では太陽は男神、月は女神だからである(サンスクリット語では太陽suryaも月chandraも男性である)。

また動物はその雌雄や生態に関係なく、ジェンダーで分類される。たとえばわが国では、キツネは稲の女神の使いとして女性、タヌキはその配偶者の雷神の使いとして男性である。キツネとタヌキの化かし合いとは、雷神がしばしば妻をだましては人間の娘を訪れる神話に由来する。ゲルマン系諸族でイヌが男性、ネコが女性であるのは、イヌまたはオオカミは雷神の使い、ネコはそのつれあいの雨の女神の使いだからである。土砂降りの雨を英語でIt is raining cats and dogsというのは、この神話からきている。

パプア・ニューギニアでは鳥は《樹上で生活する鳥》と《地上で生活する鳥》の二分法にもとづいて自然科学的に詳細に分類されているが、それとは別にすべての鳥が、神話的思考にもとづいてジェンダーと世代に整然と分類されている。ワシは雌雄を問わず壮年の戦士であり、ゴクラクチョウの種類はすべて成熟した女性、ヒクイドリは初潮期の娘といった具合である。

またアメリカ・インディアンのナバホでは、荒々しいものはすべて女性、温和なものはすべて男性に分類される。たとえば嵐の雲は女性、晴れた日の白雲は男性であり、屋根がごつごつした伝統家屋(ホーガン)は女性、円形屋根のそれは男性とされる。わが国では逆に、優美なヤマ(山)はたとえ火山でも女性、峨々としたタケ(岳)は男性である。

抽象的事物も同様であり、わが国では聖数3.5.7のうち3と7は女性、5が男性とされる。色彩では4カテゴリー色(具体的色名は百数十に昇る)のうち、赤と黒は女性、白とアヲは男性である。桃の節句(女子)の緋毛氈、端午の節句(男子)の青毛氈はその例証のひとつとなる。ナバホでは青と黄は女性、白と黒は男性であり、中国では偶数はすべて女性(陰)、奇数はすべて男性(陽)である。

こうしたジェンダー分類法は枚挙に暇がないが、要するにそれぞれの宇宙論にもとづく神話的思考は、それによって世界の意味を構築し、豊饒の保証をえようとしたものである。

Ⅱ ジェンダー・システムについて

宇宙のジェンダー・バランスを計るこうした神話的思考は、社会の形成に深くかかわっていることはいうまでもない。親族(婚姻)体系としてのトーテム氏族制やそれを包括する胞族(フラットリー)などの社会組織、またそれらを束ねる半族(モイエティ)や宗教結社などの宗教組織は、明かにこうした思考体系をあらわしていた。

だが従来社会人類学や文化人類学の研究対象であったこうした《目にみえる体系》とは別に、《目にみえない体系》として、それぞれの社会に固有のジェンダー・システムが存在することが近年明らかとなった。とりわけ、かつて絶対的な男優位社会とみられてきたニューギニアにおけるフェミニスト人類学者たちの研究が、この目にみえない体系を浮上させ、それによって社会全体のジェンダー・バランスが保たれていることを実証した。以下にその成果を紹介し、また私自身の見解を明らかにしよう。

パプア・ニューギニアのジェンダー・システム

旧来の人類学では、パプア・ニューギニアは父系継承社会であるだけではなく、調査と観察の結果、圧倒的な男優位社会とされてきた。例外はセピク河下流域に住むチャンブリ族であり、マーガレット・ミードによって(Mead,1935,1949)そこは世界でも稀な女優位の社会とされてきた。

しかし1980年代、マリリン・ストレイザンをはじめとするフェミニスト人類学者たちの手で、みかけの男優位社会の裏に、それを補正するジェンダー・システムが存在し、みごとなジェンダー・バランスが実現されていることが明確となった(Strathern,1988)。ただ一般のフェミニスト論争があくまで西欧近代社会を前提にしているのに対して、ストレイザンはむしろ《社会》という概念さえ排除し、部族集団の構造をさまざまな側面から明らかにしようとする。

すなわち、かつてレヴィ=ストロースが、婚姻の体系とは女の交換である、として一般フェミニストから激しい批判を浴びたが、ストレイザンはこの言明の誤りは、たんに男を社会の主体とする視点から女の交換を論じたというのではなく、近代の市場経済におけるモノの交換の概念をそのままメタファーとして婚姻の体系に当てはめた点、および女は《産む性》(男は《仕事する性》に対応する)という近代概念をそのまま適用したという点で根本的に誤っているとする。つまり彼女によれば、ニューギニアでは女は結果として子供を産むが、近代的意味での《産む性》ではないという。

そのうえで彼女は、パプアでは婚姻の体系は男女双方にとって《贈り物のジェンダー》であり、父系継承という表層の親族体系を背後から統御する《コミュニケーションと意味の体系》であるという。つまり男と女はまったく別の世界に住み、それぞれの世界の主体である。男優位の社会とみられていたのは、ときには暴力的でさえある男のふるまいからだが、それも霊力(マナ)の源泉は女の世界にあり、《妻を取る氏族》は《妻を与える氏族》に対して、豚などモノの贈与ではとうてい償えないほどの負債を負う、という男の弱さからきている。さらに霊力を共有する女の世界は共同体的であるが、男の世界は競合的であり、近親の女たちからいわば霊力を借りて競い合う男の孤立性にも弱さは由来する。

この隠されたジェンダー・システムが親族体系のジェンダー非対称を補い、社会の安定した「超対称(スーパーシンメトリー)」をつくりだしている。

チャンブリ族のジェンダー・システム

前記マーガレット・ミードの諸著作は、人類学的というよりも、戦後リベラリズムを代表する教育的・イデオロギー的著作であり、ピューリタニズムに拘束されたアメリカ人、とりわけ女性にチャンブリのような女性優位社会がある、あるいはサモアのように性に自由な社会がある、としてアメリカ社会の道徳的・文化的雰囲気を変革しようとしたものである。あまりにも厳格なピューリタン的育児法から親たちを解放しようと提唱したベンジャミン・スポック博士の育児法と軌を一にする。

それはともかく、ミードがチャンブリを絶対的な女優位社会と誤解したのは、そこに隠されたジェンダー・システムを知らず、男たちの態度やふるまいのみを観察した結果である。

ミードやスポックの戦後リベラリズムの強い影響を受けた母親たちに育てられたフェミニスト人類学者たちが、このミードの誤りを指摘しているのは歴史の皮肉であろう。すなわちデボラ・ギワーツによれば(Errington & Gewerts,1987)、チャンブリには父系継承の親族体系の蔭に二重に張り巡らされた強力なジェンダー・システムがあり、それが男たちのふるまいや態度を規定しているという。

第一は夫と妻の「敵対関係」である。ここでも霊力の源泉は女の世界にあるが、とりわけ夫婦間では、夫の秘密の名つまり守護霊を知っている妻は、容易にそれを操作できるし、また夫の精液や唾液、あるいは汗などの体液を《盗み》、それで夫に呪いをかけることができる(性はここでも近親相姦タブー以外は自由であり、姦通は日常的だからである)。この「敵対関係」は男たちを極度に消耗させる。男たちはこれらのことをつねに恐れ、妻たちに唯々諾々と従う。これがみかけの絶対的な女優位である。

しかし第二のシステムがそれを補い、男たちを補償する。すなわちそれは、男たちと近親の異性つまり姉妹たちとの「親和関係」である。男たちは他氏族に嫁いだ姉妹からいわば霊力を借りることができるし、彼女らに妻とのトラブル解決にあたってもらうこともできる。また彼女らの担う女性トーテム祖先たちの力によって、死後の世界での救済も可能となる。この隠された「親和関係」が、みかけの女優位を補い、男たちに自信とアイデンティティをもたらす。

サモアのジェンダー・システム

ポリネシアのサモアでは、かつてミードが調査し、近親相姦タブー以外は性はきわめて自由であると主張したが(Mead,1948),フリーマンが自己の調査にもとづきそれをきびしく批判し、サモアでも性に大きな制約があり、女の処女性も重んじられていると反論した(Freeman,1983)。この論争は人類学界で大きな話題となった。

だがその後、たとえばフランスのチェルケゾフのような若手の研究者によってサモアの再調査が行われ、ミードもフリーマンもサモア社会のジェンダー・システムを見落とし、それぞれが見聞した異なった表層の分析から、誤った結論を導きだしていると批判した(Tcherkezoff,1993)。

サモアはポリネシアでは一般的な母系継承の社会であり、女の権利と地位は強く高いが、政治体系は、マタイとよばれる30数階級に分かれる「貴族」たちの手にゆだねられ、マツリゴト(政治 = 祭祀)は一見男の独占物となっている。だがマタイは支配階級ではなく、それぞれのトーテム祖先の名称(タイトル)とその所有とされる土地の保持者であるにすぎない。むしろ実質的な霊力は母系氏族の女たちに帰属する。たとえば儀礼や賓客の接待では、必ずカヴァとよばれる飲み物(カヴァの根から抽出した液を発酵させたもの)が用意され、アメリカ・インディアンのパイプ・タバコと同じく、カヴァの椀を廻し飲むことで霊力の分け前があたえられ、儀礼参加の資格がえられるが、カヴァは女たちによって造られなければ、霊力を湛えることにはならない。この事実は潜在的にサモアのジェンダー・システムの存在を物語っている。

サモアで使われる中部ポリネシア語では、「女」を意味する語に、ファフィネfafineとフェアガイガfeagaigaという二語がある。ファフィネは男に対する女であると同時に、性の相手という意味ももつ。このレベルでは、ミードが観察したように近親相姦禁止以外に性は自由であり、婚前・婚外の関係をもおおらかに包括する。

しかしフェアガイガは、メラネシア同様、主として姉妹と兄弟との関係で使われるとともに、儀礼や祭祀にかかわる霊力や威厳のそなわることがとされる。フリーマンが観察したのはこのレベルであり、処女性が重んじられるとしても解剖学的な問題ではなく、たんに結婚以前の娘である要求にすぎず、儀礼前に厳格な精進潔斎が求められるのみである。

いずれにせよ、フェアガイガとしての女は霊力の源泉であり、他氏族に婿入りした兄弟たちを通じてアイガaigaつまり霊的絆を保持しつづける。妻としての彼女、つまりファフィネは夫の位階に属する女でしかないが、フェアガイガとしての彼女は、その兄弟を通じて霊的影響力をふるう。

この状況は、わが国の平安朝時代の貴族の女たちにも共通するが、そのことは後で述べよう。いずれにせよ、親族体系やマツリゴトという目にみえる体系に隠されたこのジェンダー・システムは、ここでも宇宙論的ジェンダー・バランスを回復する超対称である。

Ⅲ 古代社会のジェンダー・システム

古代ギリシアのジェンダー・システム

かつて歴史学においても、古典学や考古学においても、古代ギリシアはローマ社会同様絶対的な男優位社会であると考えられてきた。神々を祀る女司祭の存在は知られていたが、それは儀礼や祭祀を取り仕切る男司祭の補助的な役割を担うにすぎないとされていた。女の研究者でさえ、男女平等への志向は近代にはじめて生まれ、近代以前あるいは非近代はすべて男優位のジェンダー抑圧gender opression社会であるとする初期フェミニズムの誤った「神話」によって、古代ギリシアを男優位社会と信じてきた。

だがジョーン・ブルトン・コネリーの浩瀚な研究書『ある女司祭の肖像;古代ギリシアにおける女性と儀礼』(Connelly,2007)は、これらすべての偏見や「神話」を完全に打ち壊し、古代ギリシア社会のきわめて均衡のとれたジェンダー・システムを明らかにする画期的なものとなった(彼女自身はジェンダー・システムという用語は使用していないが)。

それによると、これらの「神話」や偏見が生じたのは、われわれ近代社会の無意識の前提(たとえばジェンダー抑圧、宗教/世俗の二元論など)を古代社会にそのまま投影し、史料や考古学的証拠をその立場で解釈するからである。とりわけ政治や戦争などのできごとの表舞台に女が登場しない、いいかえれば女性が目にみえない(インヴィジブル)ことが、そのまま男優位社会の表現と考えられてきた。だが、まったくちがう。

すなわち古代ギリシアでは、政治や戦争など政治的できごとも、近代のように純粋に世俗の領域に属するのではなく、すべて宗教性または霊性の支配のもとにおかれていた。そこでは日常性/非日常性の二元論も存在せず、すべては神々の霊力とのかかわりの仕方の大きさの問題でしかなかった。

たしかに祭祀の領域ではジェンダーによる分業が確立していた。そもそも主神ゼウスには妻のヘラ、太陽神アポロンには妹の月の女神アルテミスなど、神々のジェンダーにも均衡が計られていたが、男神を祀るのは男司祭、女神を祀るのは女司祭と、厳格な分業が行われていた。にもかかわらず、日常的にも祭祀の場合にも、聖域を掃き清め、捧げ物を備えるのは女たちの仕事であり、女たちの参加がなければ、祭祀や儀礼あるいは家庭の毎日の礼拝は成立しなかった。

このことは、宗教や霊力の源泉はここでも女たちにあり、目にみえる(ヴィジブル)世界での男の活動に対して、霊性にかかわる目にみえない(インヴィジブル)世界での女の活動は記録されることが少なく、そのためにそれは歴史学の対象として閑却されてきたのだ。だが著名な女司祭の葬儀などは、ポリス(都市国家)をあげての公的な祭祀であり、記録されている。これは、目にみえない世界が目にみえる世界に登場する稀な例ではあるが、そのこと自体が逆に、目にみえない世界の強大な影響力の一端を示している。

古代日本のジェンダー・システム

ポリネシアに関連して述べたように、わが国にも、少なくとも江戸時代まではジェンダー・システムが存在していたように思われる。

たとえばポリネシアのカヴァ同様、古代では儀礼に使い、神々に捧げる酒を造るのは女の仕事であった。現在ではほとんど使用されていないが、戦前までは一家の長であるような老女には、《刀自〔とじ〕》という尊称をつけて呼ぶのが普通であった。少なくとも江戸時代以後は酒造りは男の仕事となり、その職人を《杜氏〔とうじ〕》と称したが、その読みは本来は「とじ」であり、刀自に由来している。女の尊称と区別するため杜氏という和製漢語が当て字されたのだ(ただし中国では杜は、はじめて酒を造ったという伝説上の人物「杜康」から、酒の異名である)。

刀自の名は、「とぬし(戸主)」の音韻が転化したものであり、「とぬし」とは、女の一家の長をいう。この用法にも、古代の日本が母系制であったことが示されている(他にも古語で「おや」とは母親のみを指す。あるいは「とつぐ」とは男の婿入りを指し、ホト(女陰)をホコ(男根)で突くこと、また名付け親を立てるという子の命名権も母親にのみあるなど、母系制の証拠は多い)。

親族体系が母系であったということ以上に重要なのは、上記の諸社会同様、霊力の源泉はジェンダーとしての女性にあったという事実である。酒だけではない。たとえば布である。

これも戦前までは普通の風俗であったが、出征する兵士に肉親の女が「千人針」と称する布を贈り、兵士はそれを腹部に直接巻いた。木綿の晒し布に、多くの女性が赤糸をかがったものであり、これを身につけると敵弾が当らないとされていた。都市の街頭でこの布を手にした女たちが、通行する見知らぬ女性たちにひと針ずつ縫ってもらう風景が、よくみられたものである。

赤糸をかがる風習がいつはじまったか不明であるが、古くは平安末期の源平合戦時代に、出陣の武士たちは、肉親の女性から贈られた白い布を腹部に巻いていた。敵の矢に当らないという戦いの女神の霊力の加護の象徴であった。

なぜなら、源氏の軍神八幡〔やはた〕の女神、同一神であるがヤシロが異なる平家の軍神厳島の女神は、荒ぶる女神つまり風神であり、風にはらむ「やはた(多くのハタ〔旗、凧、機織〕)」の女神であったからである。加護のために腹に巻くだけではなく、白や赤の旗指物、背にする大きなホロ(母衣)など、賑々しく飾った布を風にはためかせるのは、敵を圧倒する女神の霊力を誇示するためである。

だがこの女神の霊力も、女たちを通じてのみ男に与えられる。太陽の女神アマテラスの衣を織るタナバタツメの神話を引用するまでもなく、わが国では機織は伝統的に女の仕事であり(アメリカ・インディアンのホピでは男の仕事である)、霊力の伝達者は女であったのだ。

いずれにせよ、われわれの神話的宇宙論は、母なる大地イザナミ、父なる天イザナキとのジェンダー・バランスに加え、この夫婦神の長女の太陽神アマテラス、その弟で水の循環をつかさどる地の神スサノヲという対称的な配置を基本としているが、地にも及ぶアマテラスの霊力という構図によって、霊力の源泉が女性にあることを保証しているようにみえる。

たとえば歴代天皇が継承するとされる「三種の神器」が、このことを表象している。すなわちアマテラスの鏡、彼女の髪飾りであるとともに天の稲穂を象徴する勾玉またはスバルの珠、弟スサノヲのカラスキの剣またはこの剣で斬ったヲロチの尾から出現したクサナギの剣であるが、ジェンダーの対称は珠(女性)と剣(男性)であり、鏡(女性)その上位に存在する。この女性優位の三角形が、そのまま古代の霊力における女性優位をあらわしているように思われる。

日本の古代社会の目にみえる諸体系がどのようなものであったのか、よく知られていないので、この目にみえないジェンダーの体系が、それらをどのように補正していたのか不明である。だがたとえば平安朝時代の貴族の女が、夫の官職名で呼ばれていたのをみれば、サモア同様、現実の体系の非対称をこの霊力の非対称が補い、全体としてジェンダー・バランスの回復という超対称が実現されていたとみてもよい。

結論 近代社会ではなぜジェンダー・システムが崩壊したか

「千人針」でみたように、近代社会ではジェンダー・システムはほとんど崩壊し、わずかに《迷信》といったかたちでしか残存しなくなる。わが国にかぎらず、すべての近代社会がそうであるといってよい。システムが解体したあとではジェンダーは、風俗や習慣のレベルで女性と男性を識別するマークとしてしか機能しなくなる。それはなぜか。

その根本原因は、近代社会における「身体性physicality」の喪失に求めることができる。

すなわち近代では、デカルト二元論が表象しているような心身の二元論が、個人のレベルから社会のレベルにいたるまで確立し、それがさらに公的領域と私的領域との二元論によって分かたれることとなった。

たとえば教育では、身体は体育や保健やせいぜい家庭科の分野に属し、心(マインド)または精神は知育やせいぜい芸術などの感性の教育にゆだねられる。宇宙や自然などの環境と人間の生活の不可分性、さらには自然のあらわれとしての身体や脳がいかに文化をつくりだすか、また性差や人種・種族差などが文化や思考の多様性をどのように生みだしているか、このように心身を統合し、したがって宇宙または自然と人間とを統合する鍵概念としての「身体性」は、近代には存在しない。

そのうえ近代では、公的/私的の画然とした二元論によって、かつて霊性や広義の宗教性にかかわっていた人間の魂または内面性は、公的領域から疎外され、孤立した個人の問題とされた。たしかにヨーロッパにおいては、血腥く熾烈な宗教戦争の教訓から、信仰は個人の内面の問題とされ、政治的あるいは公的領域から宗教が排除されたのは当然である。だがそれが、人間の魂または内面性にかかわる欲求や行為の疎外にまでいたったため(芸術がわずかに残された聖域となる)、社会全体からジェンダー・システムを支えてきた霊性または超自然性、つまり特定の宗派宗教を超えた認識であり、人間の基本倫理を形成するものが失われることとなる。

とりわけ産業革命以後、近代資本主義経済の進展にともない、個々の人間の全体性が社会の要求する機能によって分断される(マルクスのいう疎外と物象化)結果、ジェンダーは、労働力としての《産む性》と《産ませる性》という性役割(セックス・ロール)を、そのまま《家事をする性》と《労働する性》という性別役割(ジェンダー・ロール)に変える。それはまた、せいぜいその性別役割に相応する《男らしさmanliness》《女らしさwomanliness》といった風俗・習慣のレベルでの識別標識としてのみ残存するにいたる。また逆に性行為は、人間の文化としての固有のセクシュアリティを喪失し(たとえば極楽鳥の雄の求愛の踊りのように動物にもそれぞれ固有のセクシュアリティがある)、たんなる授精のためか、快楽追求のための性器の接触にすぎなくなる(いうまでもなくセクシュアリティとは、身体性の性的な表現である)。

こうした社会では、かつての社会にあったジェンダー間の霊的な絆はおろか、個々人に潜在し、社会全体にみなぎる霊力(マナ)が存在しえないのは当然である。霊力といってもそれは、近代人が考えるような観念的なものではない。サスクリット語でプラーナ、中国語で気とよばれる体内を流れるある種のエネルギー(赤血球が運ぶ酸素の燃焼エネルギー)が、まさに大気を媒介にしてひとびとを結び、宇宙や自然との交流を可能にする霊力なのであり、非近代社会ではきわめて実在的である。呪術をかけられたと信じた男は、実際に神経症や鬱病を発症し、死にいたることもしばしばである。あるいは近代病院であと数日の命と宣告されたナバホの老女が、近親者によって運びだされ、メディスンマンによる伝統的な治療儀礼を受けたところ、回復しただけではなく、翌日から仕事をはじめたなど、人類学者による報告は数多い。

ジェンダーがジェンダーとしての役割を果たさなくなった近代社会は、ジェンダー概念の基本にあった性差の概念をも喪失し、したがって両者の弁証法ともいうべき身体性を忘却する。極度に専門化した知識や情報の膨大な蓄積にもかかわらず、また自然科学的宇宙論の詳細な展開にもかかわらず、近代文明はその認識に意味をあたえることができず、身体にもとづく知としての宇宙論を所有することはもはやない。

ジェンダー問題は、こうした知の頽廃を自覚し、身体性の復権によってそれを克服するという、「脱近代性post-modernity」への道を探るひとつの手がかりとなるだろう。

あとがき

この論文は、「知と文明のフォーラム」の主催でおこなわれた「性差とジェンダー」第2回セミナー(2007年10月13・14日)で配布した報告資料に手を加えたものである。なおそこに含まれていた「ホピのジェンダー・システム」の項は、紙数の都合で省略した。

参考文献

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(北沢 方邦 きたざわ まさくに 信州大学名誉教授)

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