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学会誌7号:研究論文1(柳父)

「かな」と漢字のジェンダー 
 柳父 章

要旨:漢字は中国渡来の文字であるが、日本では古代以来。その字形が大事にされたが、その意味内容は必ずしみ重視されず、意味不明のままでも受容されていた。 この事情は翻訳という視点から見ると理解できる。そして翻訳語であるというこの性格は、古代以後、「かな」で表記される伝統的な大和言葉と差別化され、対 比される言語構造を造ることによって保存された。すなわち漢字かな混じり文である。この言語構造によって、漢字と「かな」とは男手と女手として、文化的な 役割を担ってきた。漢字は権力、権威の用具として、女と対立し、支配する男の用具という傾向を持つようになっている。

キーワード:宗教的教義文書、漢文音読、漢文訓読、形と意味、漢字二字造語、

1.「翻訳語」としての漢字

漢字は、よく知られているように元は中国語の文字である。それが日本の古代に輸入されてやがて日本語の重要な要素となった。漢字の性格を根本的に考える には、この異言語との出会いという視点に立ち戻って考え直す必要がある。本論で私は、漢字が権威、権力の用具となっているという問題を述べたいと思うのだ が、そのためには、この異言語との出会い、私の言う「翻訳論」の立場から考えなければならないと思う。

およそ翻訳でもっとも量も多く、文化的にも重要なのは、宗教的教義文書の翻訳である。 キリスト教は成立以来、異文化、異言語への宣教に特に熱心で、イエスの死後、聖書はまず当時の国際語であったギリシャ語に翻訳された。やがてローマに宣教 され、四世紀末ラテン語訳の『ウルガータ』Vulgataとして翻訳され、これはその後カトリク教会の正式文書となった。中世になってヨーロッパ各地に布 教されると、やがて自分たちの言葉で聖書を読みたいという要求が起こり、西洋各国語への翻訳が始まった。カトリク教会は翻訳を厳しく抑えていたのだが、 16世紀にはルターM. Lutherはドイツ語訳聖書を完成して、同じ頃始まった印刷術によって広められた。これはローマへの公然たる反逆として、やがてヨーロッパを新旧キリス ト教で二分する戦争になった。イギリスでは、ティンダルW. Tyndaleが聖書を英語訳したが、それは遂に教会によって焼き捨てられ、またティンダル自身も火炙りに処せられた。

翻訳とは、命がけの仕事だったのである。

その後、ローマカトリクは、新教に対抗して世界各地に宣教を開始し、教義文書を世界の各国語に翻訳した。日本へは、15世紀末、フランシスコ・ザビエル F. Xavierがやってきて、宣教のさきがけとなった。

こういうキリスト教における翻訳の歴史と比べると、日本における「漢字翻訳」ということの特徴がよく分かると思う。

キリスト教と比較して、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教など世界の他の大宗教は、異言語への宣教にあまり熱心でない。仏教では七世紀に唐の 玄奘げんじょう が大部の仏典を中国語訳していた。しかしそれから先へは翻訳があまりない。古代大和には五世紀の頃漢訳仏典が到来したが、大和ではその漢文をほとんどその まま音読していた。そして今日でも寺院の僧侶は同じように原文を音読し、多数の日本人信者は、ほとんど意味が分らないままありがたく拝聴している。これは 翻訳ではない、というのが常識であると思うが、私はこれを日本的翻訳の原型と考えている。すなわち、異文化の原語はよく分らない、しかし有り難いと受け取 るのである。よく分らないまま有り難いと受け取るのは、およそ権威、権力というものの本質でもある。

儒教は仏教と同じ頃、中国から朝鮮経由で大和に到来したが、論語などの儒教経典は、知識人からやがて広く民衆の間で漢文訓読という方法で読み継がれた。 それは、名詞などは音読または訓読し、語順を日本語風に置き換え、付属語を補って読む方法で、いわば、原漢文と日本語文との中間のもう一つの文体を作り出 すような一種の翻訳であった。そしてこの方法は、近世以後、オランダ語、英語などを読む方法として、今日まで受け継がれている。

この西洋文訓読では、名詞や動詞、形容詞など文の意味の中核部分は漢字で置き換えられる場合が多く、そのような翻訳漢字は、付属語などの主として「か な」で表記される日本語に対して差別化されて、やはり仏教経典の用語と共通の、一種の権威を保っている。それは日本文化の中で、法律、行政、学問などの基 本用語を形成し、権力支配の用具ともなっている。

2.日本における漢字

日本における漢字Sino-Japaneseは、中国の文字Chinese Charactersとは違う。形、音、義のそれぞれについて、すなわち、形signifiantと意味内容signifiéのそれぞれについて違ってい る。それで、漢字の意味というと、中国古典の語源に遡って説明するような例がよくあるが見当違いの場合が多い。日本製漢字の意味は、日本の文化、背景に 従って形成されたのである。その意味で、漢字とは古代以後近代までを含めて「翻訳語」であると私は考えている。

漢字は、西洋語などの文字が表音文字と言われるのに対して、表意文字と言われる。しかし、この呼び方には注意しなければならない。漢字は意味、すなわち あらゆる言語に共通の普遍的な意味内容を表現している、と受け取ってはいけない。漢字は、ある特定の単語の意味を表すのである。それで、表意文字ではな く、表語文字であるとも言われる。

しかし、表意文字という通念が一般に信じられているように、漢字はアルファベットなどと違って、その複雑な字形が、いかにも意味ありげである。これを先 進文明舶来の文字として受け取った大和の人々にとっては、とくにそうだった。そこから、日本特有の漢字を特別扱いする漢字文化が育っていったのである。

古代において、漢字は少数権力者の独占する高級な舶来文化だった。舶来であるということは、意味は必ずしもよくは分らないということで、分らないからか えって貴重とされた。遺跡から見出される文字は、意味不明であるにもかかわらず。と言うよりもむしろ、意味不明であるからこそ大事にされたと理解されるよ うな例がよくある。たとえば、鏡面などの裏に書かれた漢字の字体が明らかに間違っているような例である。以後今日に及ぶ日本製漢字、あるいは「翻訳語」に 特有のこういう性格は、この時代から始まっていた。

およそ言葉は、形signifiantと意味内容signifiéとのセットであるとは、ソシュールの説く言語構造の原則であるが、舶来 の文字は、まず「形」として出現した。その意味内容はまだよく分からない。分からないけれど、とにかくまず「形」それ自体が大事にされた。すなわち、翻訳 語では、signifiantとsignifiéのセットは分解されて、まずsignifié と切り離されたsignifiantだけが出現するのであ る。そこにやがて意味内容を受け取り、または育てていくのであるが、日本語における漢文訓読という方法では、意味よりもまず形という漢字出現初期の性格 が、たぶんに保存された。

ここに、日本における漢字の特徴がある、と翻訳論の立場から私は考えている。

3.日本製漢字の二字造語

奈良時代、713(和銅6)年、『風土記』の撰進のとき、地名には「好字」を用いるようにとの詔が出された注1。たとえば「木国 (きのくに)」は「紀伊国(きいのくに)」と表記された。「木」には意味があるが、「紀伊」は立派そうだが無意味である。言葉の意味を無視してでも、漢字 造語の形式を重視したのである。造語が二字であることは、平安時代初期の『延喜式』に「二字を用い、必ず嘉名を取れ」と記されている注2。 こういう時代以後、各地の地名、そして人名も原則として漢字二字になった。今日まで、日本人の苗字は、田中、鈴木など二字が多い。中国、韓国などで人名の 苗字は、金、李などほとんど一字なのと対照的である。人名や地名以外でも、日本製漢字造語は一般に二字が多い。中国でも二字の地名や熟語はあるが、その意 味は一語一字が原則であって、二字の複合語の中でも一字の意味が生きている。

日本製漢字が、その意味よりもまず二字造語の「形」が大事にされたのだが、このことを文化的視点からみると、漢字が権威、権力の手段となったということ でもあった。
およそ政治的な権力とか文化的な権威は、本質的性格として、その意味内容よりも形式を重視する。政治、行政、宗教などでは、荘重な儀式の形式が大事にされ る。形式を重視するあまり、その意味内容が無視されるような例は、私たちも日常的に知っているだろう。すなわち、形式重視という性格を持った漢字文化の担 い手は、必然的に権威、権力を担う役割と結びついたのである。

別の面からみると、日本製漢字の二字の造語は、日本語の中では合理的な理由もあったと考えられる。それは第一に中国語漢字に対する差別化である。同じ漢 字を用いても、中国と日本では文化的文脈が異なるので、別の意味を作る必要があったからである。そして第二に、伝統的な大和言葉に対する差別化の必要であ る。漢字二字のまとまりは、たとえば翻訳(ホンヤク)、伝統(デントウ)、漢字(カンジ〕などのように、音の上では、四拍または三拍となって、大和言葉が 原則的に一拍の音が多いのと区別される。たとえば、難しい話を聞いているとき、四拍または三拍の言葉がひとかたまりとして出てくると、その意味はよく分ら なくても、一つの術語であると感得できる。また、今日でも、新しい造語は四拍または三拍のひとかたまりになっている例が多い。パーソナルコンピュータは、 やがて「パソコン」となって、人々の日常用語として定着する。リストラ、スタメン、ハリポタ、モトカノ、などいくらでもある。

近代になって、この二字造語は翻訳の学問用語などでも継承された。やはり二字の形式が重視され、その意味は軽視されている例が多い。たとえば「経済」と いう造語は、もとは「経世済民」という四字の熟語の二字を取って造語したものだが、「経済」となった文字を用いると、そこからもとの意味を読み取る人はま ずいない。この二字造語には、economyの意味はまったく読み取れない。

「哲学」という造語も、「希哲学」の三字を二字に縮めたので、もとのphilosophyの意味は失われている。これについて説明すると、近代の始め、 幕府の蘭学者だった西周は多くの学問、文化の用語を翻訳しているが、philosophyを「希哲学」と造語した。「希」は「のぞむ」というような意味 で、philosophyのphilに相当する。「哲学」はsophyである。philosophyの開祖ソクラテスは、自分の学問はいわゆるソフィスト の学問と違って、philがついている。学問を愛すること、これが大事なのだ、と語っていた。西周はこの事情を理解して、「希」という文字をつけたのであ る注3。ところがその後まもなく、この大事な「希」を落として、「哲学」という表現で使われるようになった。漢字造語は二字で使 う、という形式重視の結果、大事な意味内容が無視されたのである。

4 漢字、「かな」の二重構造

平安時代に「かな」が発明されると、「かな」は漢字と対立した機能を形成するようになった。「かな」はまず女手として、漢字の男手と対立する。漢字は外 向的に活動する男たちにとって、舶来文化を受け入れる手段として、法律、行政、学問の道具となった。他方、「かな」は日常生活に密着した出来事や感情を表 現していた。とりわけ重要なのは、日本製漢字造語が二字の形式を重視して意味が空疎で観念的になり勝ちなのに対して、「かな」は歴史のある大和言葉の豊か な意味を伝えていたことである。

漢字と「かな」とは、以後日本語の中で、和漢混淆文や漢字「かな」混じり文を形成し、また漢字の音、訓二重の読みを生み出し、両者の長所、短所を補う日 本語特有の構造を造り出していた。

「かな」が女性的文化の表現とされる特徴は、日本製漢字が男手とされたのと対比されることによって造り出されたのである。 

「かな」の出現は、やがて上流社会の女性たちに表現の自信を与え、平安時代の女流作家たちを生み出すことになった。

しかし、「かな」が女手であるということは、その筆者が必ずしも女であるとは限らない。「かな」文学の創始者とされる紀貫之は『土佐日記』で、「男もす なる日記といふもの・・・」と、自らを「女」に仮託して文章を書いていた注4。その後、紫式部や清少納言など女の作者による物語が 盛んに書かれるようになった。しかし平安時代を過ぎると「かな」文学であっても、その筆者はほとんど男になる。しかし、自らを女に仮託して紀貫之の文体が 出現したように、文体の変革期には、「かな」文体が女性的であることが改めて意識される。

近代に入って、福沢諭吉は英語からの翻訳も含めて多くの啓蒙的文章を書いていたが、文章を書く心得について、こう語っていた。

文を草して漢学者などの校正を求めざるは勿論、殊更らに文字に乏しき家の婦人子供等へ命じて、必ず一度 は草稿を読ませ、其分らぬと訴る処に、必ず漢語の六かしきものあるを発見して之を改めたること多し。」注5

近代の始め、漢字翻訳語の氾濫した時代の中で、福沢は、敢えて「婦人子供」の言葉を重視し、「漢語の六かしきもの」を真正面から批判していた。それは、 漢字が封建時代以来の、男たちが担ってきた権威、権力の象徴であると見抜いていたからであった。

  1. 『新日本古典文学大系12』(1989),「続日本紀一」岩波書店本文に戻る
  2.  皇典講究所全国神職会校訂,『延喜式、下巻』(1981),大岡山書店本文に戻る
  3. 『西周全集第一巻』(1981),宗高書房 本文に戻る
  4. 『新編日本古典文学全集,13,土佐日記、蜻蛉日記』(1995),小学館本文に戻る
  5. 『福沢諭吉選集、第十二巻』(1981),「福沢全集緒言」,岩波書店本文に戻る

参考文献

  1. 柳父章 (2004)『近代日本語の思想』,法政大学出版局

(柳父章 やなぶあきら 桃山学院大学教授)

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