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学会誌7号:【書評】『日本語とジェンダー』(国広)

『日本語とジェンダー』
日本語ジェンダー学会編・佐々木瑞枝監修 ひつじ書房

国広哲弥

本書は10人の日本語ジェンダー学会会員がそれぞれのお得意のテーマを引っさげて参集して出来上がったものである。全体を眺め渡してみると、テーマはじ つに多彩であり、それぞれに興味深い一面が照らし出されている。以下に各論文ごとにその概要を示した上で評者の感想を付け加えるという形で読者の便に資す ることとしたい。

〇 佐々木瑞枝「日本語の男性を表す語句と表現――資料から見る日本語の変遷――」

これは著者がすでに出版している『女と男の日本語辞典』(上下)から男性に期待されている性格として「雄々しい」「たくましい」、男性においてマイナス と見られる性格「青二才」「堅物」、男女で意味が異なる表現として「男盛り・女盛り」「女手・男手」を選んで論じたものである。

最後の部分で、同じ表現でも話し手と聞き手の相互関係によって受け取られ方が異なることに注意が促されている。その異なり方にも時代的な相違がありう る。つまり一言でいうならば、場面の性質に十分に注意を払う必要があるということである。まったくその通りであって、日本語話者は特に場面の性質に敏感で なければならず、その微妙な差異に対応して用語を選ぶことが社会的に期待されているのである。

〇 宇佐美まゆみ「ジェンダーとポライトネス――女性は男性よりポライトなのか――?」

この論文はロビン・レイコフ以来世界中で進められてきたジェンダーと言語の関係の研究の見事な略史であり、視界がぱっと開けてきたという印象を与えられ る。本書の中核をなす論文と言ってよい。著者は、女性が柔らかい、丁寧な言葉遣いをするのは、「そのように、期待され、教育されてきたことは明らかであ り、そこに問題の核心がある。」(p. 33)と言う。「期待され」は「要求され」とか「押し付けられ」とも表現されている。

問題は女性語を女性の側が負担と取るか品格と取るかということになる。ロビン・レイコフは負担と取った。あとで触れる水本光美による調査にも見られるよ うに、男性は女性語を好ましいものと感じ、使ってほしいと強く願っているが、これを押し付けと取るのは少し違うのではないかと思う。日本語には男性語もあ るのであり、お互いに男女特有の用語を魅力的と感じて生きてゆくことはできないものか。これは女性の高い声、男性の低い声をそれぞれに魅力的と感じること と似ているのではないか。

〇 小川早百合「話しことばの終助詞の男女差の実際と意識――日本語教育での活用へ向けて――」

この論文はタイトルに示されているように、日本語で男女差が一番よく現れる終助詞について、その使用の実態をグラフを利用しながら明示し、それに基づい て教室でどのように教えればよいかについて助言を行なうものである。

女性的終助詞 「の」 の素性
この論文のみならず、他の論文でも女性的終助詞のリストの中に「の・のよ・のね」という「の」を含んだ語形が見える。「の」はまた疑問文の「の」と疑問 文以外の「の」に分けられている。しかし用法を詳しく観察してみるならば、すべては同一の「の」であることが分かる。肯定の「の」に疑問の上昇音調が加わ るか、文中に疑問詞があれば疑問文の「の」が生まれる。この「の」に「よ」「ね」が繋がれば「のよ」「のね」が生じる。「の」自体は何であるかというと、 「のだ」の「の」なのである。この「の」そのものの機能については国広哲弥(1992)に詳しいが、簡単に言うならば、「ある事柄がすでに決まっていると いうことを主観的判定の結果として示す」ということであると考えられる。主観的判定という要素があるために当たりが柔らかいので、その点を利用して女性が 愛用するようになったものと推定される。

〇 因京子「談話ストラテジーとしてのジェンダー標示形式」

評者は最近場面論と意味解釈の問題について研究を進めているが、その見地から見てこの論文はきわめて興味深いものである。ジェンダー研究もここまで来た かという感銘が深い。このような研究は鋭い意味感受性がないとなかなか出来ないものである。この研究の重要な点は、話し手の過去の話し方の傾向を知ってい ないと適切な意味解釈ができないことを示していることである。例えば同じ女性語が使われても、話し手が日頃からそれを使っているのか、あるいは日頃は中性 的な表現を使っているのかで、解釈が異なってくる。これは場面論の中に時間軸を導入することの重要性を示すものである。

本論文では、まずジェンダー形式と話し手のジェンダーが一致する場合と一致しない場合を分ける。それを具体例にもとづいてさらに細かく分析して行く。

(1)男性が男性形式を使う場合:聞き手も男性の場合は連帯意識の強化を意味する。聞き手が女性の場合は保護者的な態度を示すという機能を果たす。
(2)女性が使う女性形式:日常には基本的な女性形式を使っていて、さらに強力な女性形式を使った場合、強い攻撃的な意図を示すことになる。
(3)女性が使う男性形式:冗談めかし、自己防衛など。
(4)男性が使う女性形式:アイデンティティの意図的偽装。

この最後の意図的偽装を著者は「他人格モード」と名付けて、その装置が特に豊かである日本語においては、特に注意して研究したり教育したりすることを提 言している。

〇 水本光美 「テレビドラマと実社会における女性文末詞使用のずれにみるジェンダーフィルター」

この論文は、テレビドラマの会話と東京を中心とする一般人の使用実態と意識調査という労力と時間のかかる調査の報告である。日頃われわれがジェンダー問題を論じるとき、自分の主観的な印象に基づいていることが多いことを考えると、このような実態報告は貴重である。そこで明らかになったことは、現実には女性形の使用が予想以上に減少しているという事実である。特に女性形の核であった「ワ系列」はまったく消失しているという。

もっとも、評者の直接の経験範囲ではいまもワ系列を耳にするので、この点は今後も追跡調査が必要であろう。

すでに触れたように、どの世代の男性も女性がもっと女性形を使うことを期待し、その使用に好感を持っていることが明らかにされたことも注目される。評者 も同意見であるが、その使用条件はきわめて微妙であると思われるので、外国人は使わない方が無難であるように思われる。私事にわたるが身辺の80歳台の日本人女性が「ワ」を使っても不自然でないのに、かつて50歳台のアメリカ人日本語学者が「ワ」を使っているのを聞いたときは取って付けたように感じられ た。ここには、若い頃からずっと使い続けているという時間軸を考慮に入れることが必要なのかも知れない。

男性が女性形の使用を期待するという実態に対して、女性側からは「私たちは人間として生きているのであり、男性を喜ばせるためではない。」という声が聞こえてきそうである。

〇 渡部孝子「日本語教材とジェンダー」

この論文は日本語の初級向けの教科書7種類を対象として、男女の平等な扱いがどこまで実現されているかを調査したものである。まず挿絵については、差が ないもの3種で、あとはいろいろと差があり、最大7対1で男性が多かったという。次に職業の種類を見ると、男女が28対17で男性に片寄りが見られた。

次に男女のステレオタイプの比較がなされている。雑誌に掲載された「彼女募集」広告で男性よりも若い女性が求められていることに著者は批判の声を上げて いる。なぜ女性は男性より若くなければいけないのか、というのである。しかし、そこでは触れられていないけれども、女性の中には男性は少し年上で経済力の あることを希望するむきもあるのではないか。教科書はすべての点で男女を平等に扱わなければならないというのが著者の主張であるが、職業の種類にせよ、体 力などどうしても性差がからんでくるのが実情である面もあるのではなかろうか。

〇 佐藤勢紀子「『源氏物語』とジェンダー――「宿世」を言わぬ女君――」

この論文は『源氏物語』について、日常対話における使用語彙の男女差を明らかにしたものである。当時は女性は漢籍を読むことを禁じられ、対話でも漢語を 用いることが規制され、漢字・漢語の知識があってもそれを表に出すべきではないとされていたというが、当時よく用いられた「宿世」についての調査が中心的 なテーマである。この漢語を使うのはだいたい脇役的な女性であることが判明したが、これは用語の研究に話者の社会階層も視野に入れるべきであることを示し ているという。このような古典を材料とする研究はわれわれの時間的視野を大きく広げ、ジェンダー研究に深みと豊かさを与えてくれる点で有難いものである。

〇 中村桃子「言語イデオロギーとしての「女ことば」――明治期「女学生ことば」の成立――」

「女ことば」というには「梅はまだ咲かなくッテヨ」「アラもう咲いたノヨ」「桜の花はまだ咲かないンダワ」などの文末表現を指す。論文のタイトルにある 「言語イデオロギー」とは著者の説明によると、実際の言語用法の裏にひそむ「抽象的規範であるだけでなく、特定の時代・集団の言語実践を支配する政治的働きを持つ」(p. 123) ものである。そういう観点から明治期に小説や識者の論評によって意図的に作り上げられたと著者が考える「女ことば」というイデオロギーの発達を跡付け、分析したのがこの論文である。

過去の資料を有効に用いた重厚な論考ではあるが、評者としての疑念は、女ことばが果たして小説や識者の論評によってのみ生じうるものなのだろうかということである。それは言語学的常識からはちょっと考えにくい。女ことばは小説以前にすでに広く行き渡っていて、小説はそれを活写したのであり、そういう既成 の現象を見て識者がいろいろ論評を下したのだと考えるのが自然ではないだろうか。中村桃子(2003)でも美容広告は「女は容姿だ」というジェンダー・イ デオロギーによると述べられているが、女性が美を求めるのには本能的な要素もあるのではないか。イデオロギーという目に見えない力に着目するのは現象の分 析に有効であることもあるが、安易にイデオロギーのせいにすることは問題の別の部分を見逃すことになりはしないかと恐れる。

〇 ユディット・ヒダシ「日本におけるジェンダー的価値観――ヨーロッパ人の視点から――」

この論文はオランダ出身のヘールト・ホフステード (Hofstede) が世界の53ヶ国についてその文化に見られる「男らしさ」の程度を調査したものの報告を中心としたものである。そして驚いたことに男らしさが世界一強いの は日本だという。問題は男らしさの内容である。「男らしさ (masculinity)」は常識的には「男性特有の性質」ということである。これ自体しっかりした研究が必要な問題であるが、常識的には「筋力が強 い・背が高い・動作が荒っぽい・情緒が細やかでない・涙を見せない・強きをくじき弱きを助ける・勇気がある」などであろう。ところがこの調査で用いられた 男(女)らしさの基準には常識をかなりはずれたものが含まれている。全体は「家庭・学校・職場」と「政治・アイデア」に大別されるが、前者のなかには次の ような項目が含まれる。

(1)社会において支配的な価値観は、物質的な成功を遂げ、進歩することである。
(2)金銭と物質が大切にされている。
(3)働くために生きる。
(4)対立は徹底抗戦によって解決される。

これは全体が15項目からなるリストから選び出したものであるが、男性的というよりは「世俗的」として性別に関係なくまとめられるもののように思う。これは日本文化ではあまり高くは評価されない。そういう意味で世界一と判定されたのなら、恐れ入るほかないが、日本の男性全体を考えたとき、果たして当ては まるかどうか、にわかには賛同しがたい。「働くために生きる」仕事人間も多いだろうが、『梁塵秘抄』という昔の歌集には「あそびをせんとやうまれけむ、た はぶれせんとや生まれけん」という歌がある。インドには、持参金がないと女性は結婚できず、持参金が少ないとひそかに焼き殺されるという文化がある。これ 以上男性優位の文化があるだろうか。

以上のように考えてくると、この種の調査では項目の選定がいかに重要であるかが分かってくる。そして機械的に項目合致数を調べるという方法にも再考の余地があるように思われる。文化の全体を総合的に見るという観点も必要ではないか。

〇 日置弘一郎 「日本語ジェンダー表現における「私」のゆらぎ」

この論文は日本語をめぐる視点論の展開が主体であり、ジェンダー表現はそこに関連のある一つの場合として扱われる。視点論はつねに人称と関連しており、さらには対話者を含む場面論にも関連している。あとの論評に関係があるので、初めに評者の場面論の概略を略述しておく。

人称は一般に1・2・3称に分けられるが、日本語の場合は、「自己」(1人称)と「他者」(2・3人称)の対立が基本となっていて、自称と呼称はこの対立関係の性質により規定される。その対立関係はそのときの場面の性格によっても細かく規制される。敬語はその典型的な場合である。そして日本語の視点は自 己の内部にはいり込んでいる場合と自己の外に出ている場合があり、この点をとらえたのが本論文の「「私」のゆらぎ」であると解される。英語などの西欧語で は視点は人称の外に位置し、1人称さえも外から客観的に捉えられると解される。いまは詳説のいとまが無いが、それには言語的な証拠がある。ジェンダー表現 も自己・他者の対立関係から生じるものであるが、本論文でも触れられているように、放送では他者が不定であるためにジェンダー表現は用いられない (p.162)。

ジェンダーとは直接の関係はないが、日本語教育には関係が深いので、以下に本論文で触れられた二つの点について評者の私見を述べ、ご参考に供したい。

「が」は主格助詞ではない
本論文の151ページでも世間でも「が」を主格助詞と呼ぶことがあるが、それは「が」の基本的機能ではない。主格も表すが、それだけでは ない。本論文でも「母の笑顔が嬉しかった」の「笑顔」は決して主語ではなく、「嬉しかった」のは「私」であると明記されている (p. 153)。 この場合「笑顔」は「嬉しい」という心理状態のきっかけとして示されている。簡単に言うならば、「ガはある前提に基づいて、それに欠けている情報を提示す る」のである。154ページに示されている「鐘の音が聞こえる」では、その時の時間空間的場面が前提をなしていて、そこに発生した現象の知覚を伝えるいわ ゆる現象文であり、この文全体が新情報をなしている。この場合も「聞こえる」という知覚の主語は「私」である。

『雪国』の冒頭文
「トンネルを抜けると雪国だった。」の主語が問題にされているが(p. 154)、これは汽車に乗った話者が主語と考えて別に問題は無い。もっと大きな問題なのは、「雪国だった」の主語は何かということである。ここで視点論が 有効に導入される。接続助詞「と」は文法的に同等なものを結ぶのが原則であるが、この冒頭文は文法違反なのである。「と」の前に「抜ける」という動詞があ るので、「と」のあとにも動詞がなければならない。しかしそれが無い。実は省略されているので、「雪国が見えてきた」などとしなければならない。しかし 「見えてきた」というと知覚主が表に出てくる。「私」を表に出したくないのが日本語なのであって、そのために視点を自己の中に潜りこませて自分が見えない ふりをしているのである。英語で ‘Where am I?’ と言うとき、日本語では「ここはどこですか」と言う。ここでは人間が完全に消えている。これも同じ原理による。終助詞で人称の区別が出来るから主語が省か れるというよりは、「私」を表に出したくないので、終助詞を発達させたと見るべきであろう。

参考文献

  • 国広哲弥(1992)「「のだ」から「のに」・「ので」へ――「の」の共通性――」、 カッケンブッシュ寛子ほか編『日本語研究と日本語教 育』名古屋大学出版会。     
  • 中村桃子(2003)「言語とジェンダー研究」、山梨正明・有馬道子編著『現代言語学の潮流』、勁草書房。

(国広哲弥 くにひろてつや 東京大学名誉教授)

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