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学会誌7号:研究論文2(因)

翻訳マンガにおける女性登場人物の言葉遣い
-女性ジェンダー標示形式を中心に―

因 京子

要旨:少年少女・男性・女性の読者を主な対象とする翻訳・翻案マンガ6作品における女性登場人物の言葉遣いを質的に分析し、女性ジェンダー標示形式の使用がどのような要因に動機付けられ、何を指標しているかを検証した。作品における女性ジェンダー標示形式の使用の効果は、作品全体が日常性を志向しているか否か、選択的使用が見られるか否か、選択の要因となっているものは何かなどの条件によって異なることが観察された。女性ジェンダー指標形式が全ての女性登場人物によって単一的に使用される作品、発話の中で好ましい属性を指標する作品など、伝統的に期待されてきたステロタイプを強化すると考えられるものもあるが、解釈的発話の中で批評的に用いられてステロタイプの価値を揺るがすように働く使用例を含む作品もある。フィクションの中の女性ジェンダー形式については、質的な面を検証することが重要である。
 
キーワード:女性ジェンダー標示形式、ステロタイプ、記述的発話、解釈的発話、他人格モード、発話者の属性、発話者の意図
1.はじめに
本稿は、古語及び外国語から現代語に翻訳、或いは翻案されたマンガ作品を対象に、女性の登場人物がどのような話し方をしているか、特に、「優しさ、美しさ、か弱さ」などを備えた女性のステロタイプに言及すると言われる女性ジェンダー標示形式の使われ方を観察し、その効果について考察するものである。筆者の基本的な立場は、フィクションにおけるジェンダー標示形式の使用はステロタイプに言及するものではあるが、その言及の意味は出現する発話の局所的文脈、及び、作品世界という文脈によって影響を受けるというものである。また、言うまでもなく、指標されるステロタイプの輪郭やその評価は時代と共に変わり得る。
 
筆者は、現代の日本の現実世界を舞台とするマンガや小説の中で使われたジェンダー標示形式の効果の分析を行なってきたが、その中で、ジェンダー標示形式が話者のジェンダーの単純な従属関数ではなく、話者の様々な意図によって選択されており、その効果も一様ではないことを観察した(因 2003、2004、2005、2006)。同じジェンダー標示形式であってもそれが出現するのが記述的発話であるか解釈的発話であるかによって効果が大きく異なる。解釈的な使用はその批評性によって指標される内容に対する新たな視点を提供し、ステロタイプの持つ意味を変容させていくモーメントを包含している。
 
筆者はこれまで、翻訳的な要素を含む作品の分析を対象としていなかった。翻訳は、「他者の身体が発する声」であり、ステロタイプを再生産する強力なメディアであると指摘されている(中村2006)。「フィクション」と「翻訳」という、ステロタイプの形成と維持に深く関わる二つの要素が重なった「翻訳マンガ」の中の女性たちがどのような言葉遣いをしているか、ジェンダー標示形式がどのような効果を上げているかを観察することは、ジェンダー標示形式の機能の広がりを知る上で重要なことであると考えられる。本稿では、翻訳的要素を含む6作品を読者層によって3つに分類し、女性ジェンダー標示形式がどのように使われ何を指標しているかを概観したい。
2.研究の背景
いわゆる「女ことば」、女性ジェンダー標示形式は、自称を除けば現実にはあまり用いられないが(尾崎1997、小川2004)、ドラマなどのフィクションでは使用頻度が高く、これは「女性は女性らしいことばを話すべきだ」というジェンダーフィルタの表れであり、「女性はやわらかく丁寧に」「協調的に」「きれいな言葉を」というフィルタを定着させてしまうのではないかと危惧する指摘がある(水本2006)。
 
フィクションがステロタイプの形成と維持に大きく与っていることは度々指摘されている。金水(2005)によれば、小説やドラマ、マンガなどのフィクションにおいては、いわゆる「女性語」だけでなく、ある「役割」の像を形成する特徴的な「役割語」が用いられる。金水の言う「役割語」、即ち、ステロタイプ的言語は、現実の言葉とは少しく異なるにも関らずそれこそが人々の共有知識であり、描写を行なうための材料となっている。金水は、小説家の清水義範の言を引用してフィクションにステロタイプ的言語が用いられる事情を解説している(金水、前掲:30-32)。清水によれば、主要人物以外の、いわば道具的な登場人物は受け手の印象に必要以上に残らないことが望ましいため、「約束事の記号的せりふを言ってすぐ消えて欲しい」のだと言う。中村による一連の研究(1995、2001、2003他)は、「女ことば」は女性が自発的に使い始めたのではなく、フィクションの中で繰り返されることによって広まったと指摘している。女性ジェンダー標示形式が「誰か他の人の使う言葉」であるという指摘には筆者は深い共感を覚える。筆者の母語である方言には特定の女性専用形式は殆どなく、「女ことば」とは「粗野な形式を用いない傾向」であるに過ぎないのである。
 
しかしながら、フィクションの中で使われる「女ことば」、より特定的に言えば女性ジェンダー標示形式の使用が、伝統的な「女性らしさ」を規範として承認するように働きかけているかどうかは、慎重に観察する必要がある。フィクションの中には、文体的特徴の多様性を話者の内面の重層性を示す手段として利用したり(松村2005)、自己を必ずしも反映しないものも含めて様々な文体的特徴を談話ストラテジーとして用いたり(因2003)、女性ジェンダー標示形式などの形式が表現のためのリソースの一つとして用いられる可能性を示す使用例がしばしば見られる。特に、自己のアイデンティティを一時的に棚上げするための手段として用いられる「他人格モード」(因 2003、2004)としての用法は、ステロタイプが包含する意味を自己表現の一部として通用させるのではなく、「よく知られているけれども私ではないイメージ」と扱うことによって成立しているため、ステロタイプの虚構性を際立たせる。
 
ここで、発話は二種類に分けられることを想起したい。即ち、意味内容を発話者が自分のものとして引き受けてそれに表示を与える「記述的発話」と、自分以外の人に帰せられる考えや発話に表示を与える「解釈的発話」である(今井2000:44-50)。後者には対象に対する話者の心的態度が表現されるが、「他人格モード」とはこの「解釈的発話」としての使用であり、伝統的なステロタイプに対する話者の何らかの批評を含む。肯定的批評、即ち、同一化したい規範と受け止めているのか、否定的批評、即ち、批判や揶揄の対象と受け止めているのかによって、ステロタイプへの言及が持つ効果は大きく異なる。ステロタイプへの言及を括弧の中に括りこむこうした用法は、ステロタイプの実在や規範性についての信念を侵食していく可能性を持っている。
 
更に、フィクションという全体世界が提示される談話の中でのジェンダー標示形式の効果を論ずるには、個別の使用だけでなく全体的に見たときの評価にも注意する必要があるだろう。現実の世界では人物の最終評価はそう簡単に明らかにはならないが、フィクションの世界では明確な判断が与えられていることがある。例えば、女性ジェンダー標示形式をアイデンティティの表現として盛んに用いる人物が最終的に失敗者や愚者や悪人として描かれるとき、攻撃されているのは「女性性」そのものなのか、「伝統的ステロタイプ」なのか、或いは何か別のメッセージがあるのか。
 
フィクションの作品がステロタイプの維持と強化に大きく与っていることは確かであるが、フィクションは一方で、ステロタイプ自体を変容させていく潜在力も持っている。作品の中のジェンダー標示形式の分析においては、その量的な面だけでなく機能に着目し、ステロタイプへの言及がその評価の維持と強化に働いているのか、それとも人々の持つ思い込みに揺さぶりをかける視点を提示しているのか、更には、従来のものとは変容した意味を纏っているのかを見極める必要がある。本稿は読者層の異なる6篇の翻訳作品(翻案を含む)の女性登場人物の言葉、特に、女性ジェンダー標示形式使用の様相を分析することによって、その使用が持ち得る効果の幅とそれを決める条件とを探りたい。
3.分析の対象と視点
日本はストーリーマンガの生産にかけてはその種類もレベルも数も圧倒的に世界のトップレベルにあり、そのため、日本語への翻訳はその逆に比べて少ない。本稿では、外国マンガからの翻訳だけでなく古典からの翻案と外国を舞台にした作品を含め下の作品を取り上げ、初出の媒体の種類によって少年・少女に向けたもの・主に男性を読者とすると考えられるもの・主に女性を読者とすると考えられるものに分けて見ていくことにする。

対象作品

主な読者  作品名    初出媒体     内容 
少年・少女 源氏物語 NHK総合 古典の翻案
更級日記 NHK総合 古典の翻案
男性 ユニ モーニング 現代韓国が舞台の韓国マンガの翻訳
王様の仕立て屋 スーパージャンプ 現代イタリアが舞台の創作マンガ
女性 金瓶梅 ミステリーJour 中国古典小説の翻案
らぶきょん ウンポコ 現代韓国が舞台の韓国マンガの翻訳
観察の視点は、次のようなものである。
(1)  作品全体の言葉遣いや描き方は、読者の現実への接近を志向しているか、異質性を際立たせる方向にあるか。
(2)  女性の登場人物の言葉遣いは、一様であるか、多様であるか。女性ジェンダー標示形式は、単一的に使用されるのか、何らかの選択性が見られるか。
(3)  選択性が見られるとすれば、使用を動機付けている要因は何か。
(4)  解釈的発話の構成要素として用いられる例があるか、どんな心的態度が表されているか。
 以上のような点を観察して、女性ジェンダー標示形式がどのような特徴の指標となっているかを分析する。
4.女性登場人物の発話の様相
4-1 少年・少女を主な読者とする作品
 
4-1-1 『源氏物語』:異世界演出の装置として
 
少年・少女向けの作品の中から、「NHKまんがで読む古典シリーズ」から『源氏物語』と、『更科日記・蜻蛉日記』に収められた「更科日記」を見てみる。このシリーズは1989年からNHK総合テレビでアニメーションとして放送され、1991年に角川書店からコミック版の初版が、2005年に集英社から文庫版が出ており、ロングセラーであると言える。
 
『源氏物語』(鳥羽笙子、1991)には、作品全体を概説する「前語り」のほか、「夕顔」「六条御息所」「紫の上」「末摘花」「朧月夜」の5章が収められている。男性は源氏君のほかは僧侶が一人、朧月夜の父、従者の惟光が登場するが源氏以外の人々の発言は非常に少ない。女性は、章のタイトルとなった源氏の恋人たちのほかに、召使の女房が数名と紫の上の祖母が登場する。
 
この作品の言葉遣いは、現代語ではあるが全般に非常に丁寧である上、古語や雅語(例:「いずこ」「(お風邪を)召す」「(大人に)おなりあそばす」)が交じり、音声の簡略化された形はその方が普通になっているもの(例:~ちゃう、んだ)も含めて一切使用されず、必ず元通りの形(例:~てしまう、のだ)が使われるなど、現代の世界との異質性を際立たせることを志向していると見られる。
 
女性の言葉遣いは、人物による違いは非常に小さい。「わたくし」(六条、夕顔、紫の上の祖母が使用)と「私」(少女時代を含む紫の上、朧月夜、女房たち、及び源氏が使用)の使い分け、源氏に対する普通体の使用(少女の紫と朧月夜)をあげることができるのみである。より丁寧な表現の使用は成熟の標、丁寧度の低い表現の使用が幼さや奔放さの標となっている。女性ジェンダー標示形式は、身分・年齢に関らず全員が用いている。形式名詞による終止(例:「まあ、それは大変ですこと」「そう言って下さったもの」)、終助詞の「わ」(「しあわせですわ」)、「て形」による疑問(「長居は無用ではなくて?」)、女性専用とされる感嘆詞(「まあ」「あら」)など、古めかしい古典的とも言える女性ジェンダー標示形式を、源氏の恋人となる女性たちはもちろん、召使の女房も、年長の祖母も、同じように使っている。解釈的に用いた例は見られない。
 
この作品の中では、女性ジェンダー標示形式は女性であるなら必ず使うものとなっていて、それ以外の特定の属性と結び付けられているわけではない。古語などと共に現代の世界との異質性を際立たせるための装置の一つとして扱われていると見ることができる。現代の読者に規範として受け止められる可能性は薄いのではないだろうか。
 
4-1-2「更科日記」:日常への接近との矛盾
 
更科日記」(羽崎やすみ 1991)は、年少の読者を古典の世界に誘うという同様の目的を持っているが、前の『源氏物語』とは全く異なり、読者の日常への接近が明確に意図されている。この作品には、少女の作者(主人公)、姉たち、義母、乳母、遊女、兄、父など多様な人物が登場し、物語は主人公が物語る一人称形式で、彼女をめぐる人々の会話と主人公の内省とで構成され、時折、読んだ物語や旅路の途中で出会う誰かによって語られた話の世界が挿入される。少女の作者を「サラちゃん」という名で登場させていることに象徴されるように、読者の現実に近づけることを積極的に志向している。その傾向は絵の表現にも色濃く現れているが、言語面でも、読者に馴染み深い日常語を取り入れようとする意図が明らかである。カタカナ語(例:「ロマンス」「ラブレター」「レベル」)、流行語・俗語(例:「やったね」「なんちゃって」「ナンパする」)、口語的な音声の簡略化(例:「なんてったって」「しちゃう」)が多く用いられ、英語の字句すら(例:Who is she?  Daddy come back!) 使われている。オノマトペも、多様なものが大量に使用されている。
 
女性の登場人物たちの言葉遣いは単一的で、相手が目上かどうかによる丁寧体・普通体の使い分けはあるが、話者の年齢・身分・性格など特定の属性に動機付けられた変化は見られない。女性ジェンダー標示形式は、主人公の少女だけでなく、若い女性(姉たち)、年長の女性たち(叔母や母)、乳母や侍女、遊女に至るまで用いているが、くだけた印象のものに限られていて、形式名詞による終止、「て形」による質問などは見られず、「わよね」「だわ」「よね」などが多く使われている。前項で見た『源氏物語』と同じく、この作品でも女性ジェンダー標示形式は「女性」であれば必ず使うものとして扱われており、「より好ましい女性像」の標とはなっていない。
 
読者が感情移入することを最も強く期待されていると考えられる主人公「サラちゃん」は、「まったくあきれちゃうわよねー、どうしてそういう解釈になるのかしら」、「でもまあ、いろいろあったわよね、われながら頑張ったと思うわ」などと女性ジェンダー標示形式を常用している。全体的に見てこの作品は、日常世界への接近に努めながら明確な意図を持って女性の登場人物に女性ジェンダー標示形式を用いさせていると言える。使用が可能なのに用いられていない発話は全編中に「ちょっと見てくるね」と「もう少しだわ、がんばるぞ!」と二つしかないが、後者には「ぞ」という男性専用の終助詞が女性専用の「わ」と共に出現している。ここだけは、ある感覚を伝えるために女性的表現も男性的表現も自在に用いるという現代の若い女性たちの言葉遣いの実態(杉浦2006:107)が図らずも反映しているようで興味深い。
 
現代性・日常性が強調される中で女性全員が女性ジェンダー標示形式を用いて話すのは、前出の『源氏物語』と比べて、そうした言葉遣いを当然のもの、即ち、規範として扱うイデオロギーの支持と受け取れる。こうした傾向が少年少女用の学習マンガ全般に見られるのか、もう一人の語り手(原作者)の存在を前提とする「翻案」に特有であるのかは、今後の観察の課題である。
 
4-2 男性を主な読者とする作品
 
4-2-1『王様の仕立て屋』:性的魅力(若さ)と社会的立場の正統性の指標
 
『王様の仕立て屋』(大河原遁2004)は、『スーパージャンプ』に掲載され2004年に単行本として出版されている。神技のような仕立ての腕を持つ日本人の若者が、イタリアで様々な人々とめぐり合いつつ自らの技術を活用して人々の問題を解決に導くという物語である。登場人物たちの言葉遣いは、主人公とその周辺に常に登場する相手役には同様の場面への対応にも話者の意図による使い分けが見られ、自分が通常使用する文体とは明らかに違う文体を解釈的に用いる技巧的な発話も見られる。しかし、脇役の登場人物の発話はいわゆる「役割語」的な特徴を一貫して備えており、話者の主体性を反映するバリエーションは見られない。
 
女性たちの言葉遣いは一種類ではなく、違いには年齢と社会的位置、及び発話行為の質が関与する。まず、若い女性では、令嬢として育ち服飾メーカーの社長である女性、及びその部下である女性たちの大部分は女性ジェンダー標示形式(例:「行くわ」「そんな訳ないわね」「行くわよ」「文句はないわよね」)を多用し、それは攻撃的な発言をする場合も同様である。また、簡略化が一般的となっているもの(例:「待って(い)る」)を除けば、簡略化した音声形式を用いず、男性的な形式も一切使わない。自称は「私」である。ウェイトレスである女性は、「わ」などを使う一方、攻撃的な発話(恋人への愛想づかし)には、男性的且つ粗野な印象のある直截的な命令形(例:「迎えに来な」)や文の末尾の「さ」(例:「どうやってあたしを幸せにできるのさ」)を用いる。音声の簡略化(例:「秤にかけるっての」)の使用が見られ、自称は一貫して「あたし」である。以前はスリだったが今は会社員という女性は、文末詞「わ」は用いず中立的形式を用いており(例:「ないよね」「前科持ちなんだ」「来たんだよ」「辛いよ」「やってくれるの?」)、自称は「あたし」である。次に、年長の女性としては、肉体労働者であるが真っ当な生活を送ってきた母親が登場する。彼女には音声の簡略化は見られない。女性ジェンダー標示形式は用いず、「ないのかい?」「忘れられるもんかい」など、中立的或いはやや男性的と感じられる文末形式を用いる。年長者、或いは、年長の女性役割を示す言葉遣いである。即ちこの作品では、女性ジェンダー指標形式は「若さ」と共に「正統的な育ち・生き方」「行儀のよさ」と結びつき、音声の簡略化は「respectability(=真っ当さ、上品さ)の欠如」を示す烙印となっている。
 
男性は、主人公は基本的には誰に対してもぞんざいな形式を含む普通体(例:「俺みたいな偏屈しか残らなかったんだけどな」「ストーリーが進まねえんだよ」)を使用するが、「ai」と簡略化された「 ee」(例:「ない」と「ねえ」)を使い分ける。客に対しても普通体を使用する場合と丁寧体を使用する場合があり、丁寧体でも「です」と簡略化された「っす」とを使い分けている。尊敬語も丁寧体も自在に用い、丁寧度の高い表現とぞんざいな形式や簡略化された音声を同時に使用することがある(例:「よくあるこってすからお気になさいませんよう」「ひょっとしてお忘れスか」「キャンセルはなしですぜ」)。また、攻撃的発話に女性ジェンダー標示表現を解釈的に用いて冗談めかすという技巧も見られる。即ち、主人公については複数の文体を自分の判断で選択していることが描かれ、こうした主体的な選択の結果としてみると、音声の簡略化やぞんざいな口調も、隠そうとしても顕わになってしまう「烙印」というより、組織に属さない職人の「独立した自由な立場」の象徴であると見なせる。一方、その他の多くの登場人物にあっては、その話し方はそれぞれ典型的なステロタイプ的特徴を持ち、田舎者は「こさえてくれただ」、老人は「守ってやれなんだ」などと話し、やくざは相手を「てめえ」、世界的音楽家は「きみ」と呼ぶ。
 
この作品では、主人公を除けばそれぞれの人物の言葉遣いには変化や意図的選択が見られず単一であり、単一であることの結果として、文体的特徴が話者の意図的選択による何らかのメッセージというよりも人格の不可避の表出と解釈される。例えば音声の簡略化は、主人公の場合はそれ以外の選択もできるが意図的にそれを選択していることが示されるため、「非依存的立場の主張」という積極的な意味を読み取ることができるのに対し、その他の登場人物においては、恵まれない育ちや社会的洗練の不足に起因する「respectabilityの欠如」という烙印である。女性ジェンダー標示表現を一貫して使うのは若くて表街道を歩く者のみであり、「性的魅力」「正統性」の指標となっている。女性ジェンダー形式の使用、及び、その指標する女性像を規範と見るイデオロギーに立脚していると見なせる。
 
4-2-2『ユニ』:性的魅力(若さ)と人間としての上質さの指標 
 
『ユニ』(黄美那)は、『モーニング』誌に掲載された後、1995年に講談社から単行本として出版された。黄美那は韓国では大御所の一人と見なされる作家である(佐島2005)。80年代から90年代にかけての韓国を舞台に主人公のユニは、政治の季節を生き抜き、未婚の母となり、子どもとは別れて現在はスナックを経営して自活している。作品にはユニの住むアパートの住人たち、スナックに出入りする人々など、老若男女、様々な職業や立場の人物が登場し、性別・年齢・職業の違いが言葉遣いに反映される。いわゆる「役割語」が多用され、例えば、男性の老人は「~じゃ」を使用する。解釈的使用は見られない。
 
女性ジェンダー標示形式は、女性全てが使うのではない。まず、子供と中年の以上女性は用いない。社会的に立派と見なされる職業の女性たちと接客中の水商売の女性は用い、接客中でない水商売の女性と肉体労働者の女性は用いない。また、普段は女性ジェンダー標示形式を用いていても誰かを攻撃したり鬱憤を吐き出したりするときには用いない女性が登場する。即ち、女性ジェンダー標示形式は、「若さ=性的魅力」と「行儀のよさ」の標となっている。主人公のユニは、未婚の母となり、子どもは人手に渡し、今も独身で、職業は水商売という生き方を選び、年長の男性に対してすら一歩も引かずに論争するなど、韓国の伝統的な価値観からすれば承認されない特徴を多く備えているにもかかわらず、様々な出来事を通して尊敬に値する魅力ある人物として描かれる。その言葉遣いは徹底して女性ジェンダー標示形式を使用するもので、挑戦的に文句を言う場合も例外ではない。これは、ユニが生き方や行動に関らず立派な人格であることと連動しており、女性ジェンダー標示形式が彼女のrespectabilityを保証する装置として働いている。特に、攻撃的な発話を行なう場合に女性ジェンダー標示形式を使用することが、女性にあってはならないとされた行為をしても人間として間違ってはいないことを示す上で決定的な意味を持っている。前項の『王様の仕立て屋』では女性ジェンダー指標形式は「社会で認められる正統的な女性」を指標していたのに対し、この作品ではより内面的・本質的な上質さを指標していると言える。
 
この作品の翻訳が主人公に一貫して女性ジェンダー標示形式を用いさせたことは、伝統的な価値観に反する生き方や攻撃的な言動を女性の正当な行動の一部として描くことに貢献していることは認めなければならない。もしユニが攻撃的な言動を行なうのに中立的形式や男性的形式を用いたとしたら、最近の絵本が非伝統的な女性主人公に男装・変身・異形を与え一時的に女性性を外すことによって冒険的行動をさせる(谷口2004:71)のと同様に、ユニの行動が承認されるとしても「名誉男性」のそれとして承認を受けることになっただろう。しかしながら、ユニが常に女性ジェンダー標示形式を使用することは、他の女性登場人物においてそれが行儀のよさという好ましい性質と連動していることと相俟って、「真っ当な女性は常に女性性を明示する」という信念を強化していると言える。ユニが自分の表現意図によって女性ジェンダー標示形式の使用と不使用を選択していることが描かれれば、攻撃的発話の中の女性ジェンダー標示形式使用は非伝統的行動と女性性保持を両立させることになり、女性の行動に対する伝統的な制限への挑戦となったであろう。主人公でありながら主体的・意図的なバリエーションが見られず単一的な描かれ方であるのは、前項の『王様の仕立て屋』と対照的である。
 
4-3 女性を主な読者とする作品
 
4-3-1『金瓶梅』:化粧
 
『金瓶梅』は、少女マンガ界の大御所で今はレディースコミックを中心に作品を発表しているわたなべまさこが、中国の「四大奇書」の一つと言われる明代の小説を翻案したものである。1993年から女性読者を対象とする『ミステリーJour』に連載され、単行本化された後、2000年に文庫化された。大富豪の西門慶を巡って様々な身分、職業、年齢の人物が現れ、その人物造形にステロタイプ的な言葉遣いが大いに利用される。
 
主人公は、西門慶の第五夫人となる大淫婦、潘金蓮である。この作品には、金蓮や他の夫人たちなどの若い女、優雅さと風格を併せ持つ西門慶の正夫人呉月娘、大商人の古女房、少女の小間使いなど様々な年齢・身分・性格の女性が描かれるが、その殆ど全てが「~わ」「~こと」「~もの」「~なの」などの女性ジェンダー標示形式を用いる。用いないのは周旋屋として活躍する婆さんと祈祷師だけ、即ち「若くない女」で、祈祷師は「~ぞえ」という、まさに「役割語」と言うべき特殊な形式を用いる。女性たちの言葉遣いは、表向きに話している場合と内向きの話をしている場合とで異なり、話者による違いが表れるのは内向きの話においてである。潘金蓮及びその他の女性の場合、丁寧体が普通体になり、発音が簡略化され(例:「そりゃ(=それは)」「とこ(=ところ)」)、終助詞「さ」や「だよ」のような、肯定的にとれば「軽快」否定的にとれば「ぞんざい・軽薄」な形式が頻繁に出現し、全般的に丁寧度が下がる。女性ジェンダー標示形式も頻繁に出現するが、行儀のよさと結びついているわけではなく、ぞんざいな表現や攻撃的な発話とも共起する。しかし、正夫人の呉月娘だけは他の女性とは異なる。呉月娘の言葉にも表向きと内向きでは差があるが(例:「待ってくださいね」(外向き)と「待っておくれ、待ってね、お待ち」(内向き))、内向きの話においても「さ」「だよ」、及び音声の簡略化が出現しない。呉月娘は、「反面的人物がほとんどというこの作品にあって、彼女だけは正面的人物、因果応報の見習うべき模範として存在している」(日下1996:100)。この作品においては、人格の上質さの標は女性ジェンダー標示形式の使用ではなく、より荘重な形式の使用(=軽快或いは軽薄な表現の不使用)や規範的音声の使用、即ち丁寧度の高さである。女性ジェンダー標示形式は、金蓮のような毒婦も呉月娘のような賢婦も使っており、また、相手に恭しさを示す場合も毒づいたり悪口を言ったりする場合も使用されていて、前節でとりあげた『ユニ』でのように人格の上質さや行儀のよさとは結び付いていない。即ち、この作品の中では、女性ジェンダー標示形式は女が女としての容貌を整えるために用いる化粧か衣装のようなものとして扱われており、内面的・本質的な「美しさ、やさしさ、弱さ」を反映していない。
 
4-3-2『らぶきょん』:変装用小道具
 
『らぶきょん』は、2002年から韓国で『宮』という題名で連載されて大ヒットし、2005年に日本の『ウンポコ』誌への掲載が始り、2006年3月に単行本として発行された。韓国の王族が今でも景福宮に住んでいて、王子に祖父の決めた許嫁があることが発覚したのだが、それが普通の家庭の普通の女子高生だった、という設定でストーリーが展開する。王制が今でも存続しているという架空の設定ではあるが、韓国の現代、特に、読者である若い女性の現実或いは近接した過去である「高校生活」を描いているため、現実味についての要求水準は今まで取り上げた作品の中で最も高いと言えるだろう。最大限に日常への接近が志向されている。
 
この作品には王子の許嫁である主人公チェギョンをはじめ多くの女子高生が登場するが、彼女等は、時折顕著な自己演出を行なうことが特徴的である。失敗して当惑・対立が生じたとか型通りの模範的な行動を取ってしまって照れくさいなど、何らかの緊張状態が生じたとき、そのこわばりを解すかのように極端に戯画的な人格を演じるのである。普通の場面ではいかにも女性マンガらしく大きな瞳と可愛らしい容貌を持つ登場人物たちが、極端に崩れた容貌にデフォルメして描かれ、演技性が存在することが視覚的に明示される。ギャグマンガでないのに女性主人公がこれほど戯画化されるのは画期的であるということだが(佐島 前掲)、男性でなく女性も正統的なヒロインよりもアンチ・ヒーローが歓迎されるのは韓国も日本も共通であることがわかる。この自己演出は、誰でも行なう通常の態度の調整、例えば親や上司や教師の前で礼儀正しく振舞ったり小児の前で穏やかで優しい感じにしたりするのとは全く異なり、その作為性・虚偽性を明示し自己を他人のように客体化することが特徴である。こういう「当事者離れ」の技巧は、地域や個人によって使用される頻度にかなりの違いがあるだろう。大阪人の間では普遍的に見られる現象であるという指摘があり(尾上2004:107)、筆者自身も時々やっている自覚があるが、殆ど用いない人も多数あるだろう。 
 
興味深いのは、視覚的にデフォルメされた部分の発話を明らかに通常の自己からの逸脱を含むものとして訳出するために女性ジェンダー標示形式が使われていることである。普段のチェギョンたちの言葉遣いは、「Nよ」「Nよね」「~の?」など女性に多いとされる形式も使われるが、女性ジェンダー標示形式の典型とされる「わ」「~かしら」は全く見られず、男性的な特徴も表れず、基本的に中立的な表現が使われている。しかし、デフォルメのある部分では、男性的な特徴(例:「知らねえよ~!」)や典型的女性ジェンダー標示形式「わ」(例:「あはは、わらえるわ~、みんな、だまそうたってひっかからないわよ~」)が用いられる。ジェンダー標示形式は、男性用も女性用も等しく、既に「仮装用の小道具」のようなものになっているのである。
 
若い女性のほかに、中年の女性二人と老女が一人登場するが、庶民の女性と老女(皇太后)は、女性ジェンダー標示形式を使用せず、「ご苦労だね」「わかったかい」など中立的或いはやや男性的な印象の形式を用い、中年の皇后には「~かしら」の記述的使用が見られる。皇后の発話例が少なく結論は出せないが、最近の小説においては女性ジェンダー標示表現が「(社会的実力のある)年長の女性らしさ」を指標していると示唆する報告もあり(山路2005)、この例もそうした新しい意識の表れかもしれない。
 
『らぶきょん』では、少なくとも主人公とその仲間のような若者にとって典型的女性ジェンダー標示形式は既に他者の言葉遣いであり、お笑い種としての「女らしさ」として扱われている。真の自己のアイデンティティの表現ではあり得ず、忘年会の余興で巻き毛のウイッグ(或いは、既に「豹柄のおばさまドレス」なのであろうか)を身に着けるように、ある気分を示すために用いる表現のリソースとなっている。ここには伝統的な「やさしく、美しく、か弱い」ステロタイプが女性の規範として機能する余地はなく、むしろそうしたイメージを笑い飛ばし空洞化していく力が感じられる。
5.考察
翻訳・翻案は、読者の現実とは何らかの点で異なる世界と読者とを架橋する作業であるため、既存のイメージによって理解を促すべく「役割語」が用いられやすい。女性ジェンダー表示表現は「女性であること」を指標するもので、社会によって作り上げられたステロタイプ通りの性質を持つ女性であること、あるいは、そうであろうと志向する態度を表現するために多く用いられてきた。しかしながら、検討した6作品の中には、伝統的ステロタイプの評価を揺らがせるような使用が見られた。女性性が指標されるという点は同じでも、作品世界全体が俯瞰されるフィクションの中では、どのような人々がどのように用いるかによって、女性性の内包する性質やそれに対する評価は異なる。
 
少年・少女向けの古典の翻案では、2つの作品のどちらにおいても女性ジェンダー標示表現を女性全員が使用しており、そのために少なくとも「若さ=性的魅力」の指標や好ましい性質の指標とはなっていない。『源氏物語』では古語・雅語などと同様に扱われ異世界性を強調する一つの手段となっているとも考えられるのに対し、「更級日記」では読者の日常に埋め込まれている筈のものとして扱われている。後者のように、現代性を意識しながらジェンダー標示形式についてだけは非現実的な単一的使用を行なうことの裏には、強いジェンダーフィルタが働いていると見られる。これが翻訳・翻案に特有の事情なのか、児童書一般に見られることなのか、検討する必要がある。
 
男性向けの2作品では、女性ジェンダー形式の使用は「若さ」を指標し、また、社会的・環境的好条件か個人的・内面的高潔さかという違いはあるが、いずれも「好ましい性質」を指標している。女性の発話には意図的選択によるバリエーションが描かれず、主人公ですらその例外ではないのは、男性主人公の場合には少なくともその本人は文体を闊達に選択する様が描かれるのと対照的である。意図的な選択が描かれず単一的な使用をさせることは、それを規範として位置づけ強化していくことにつながる。水本(2006)は男性が女性文末詞を好ましいと歓迎する傾向が強いことを報告しているが、女性の主人公に単一的に女性ジェンダー指標形式を使用させるのは男性読者に対するおもねりであるかもしれない。とはいえ、男性誌掲載作品でも翻訳でない作品(例:ビッグコミック誌掲載『火消し屋小町』、モーニング誌掲載『働きマン』など)には話者の主体的な意図による選択的使用が描かれることを見ると、テクストの二重性が前提されているという翻訳・翻案特有の事情が非現実的に図式化された言葉遣いに対する抵抗感を薄めているのかもしれない。
 
女性向けの作品では、全く傾向の違う二つの作品のどちらにおいても、女性ジェンダー標示形式は好ましい性質を指標していない。過去を舞台にした作品では自分が女性であることを意識している標として機能しており、現代を舞台にした作品では話者の気分や態度を表現するために利用可能なリソースとなっている。後者が、現代の女性の話者の実感に最も近いあり方だと言えよう。指標される「女性性」の内実は、揶揄の対象と成り果てた「手弱女ぶり」であるかもしれないし、真面目に或いは冗談でその威を一時的に借りたい「堂々としたおばさんぶり」であるかもしれない。
 
このように、女性ジェンダー標示形式が指標するものは必ずしも一定ではない。その使用に肯定的評価を与え伝統的な手弱女というステロタイプの価値を上書きする作品もあれば、ステロタイプの虚偽性を前提とした解釈的な使用を主とし、ステロタイプを支える信念の無効性を際立たせる作品もある。今回見た6作品から観察されることをまとめると:
・    翻訳マンガ作品の女性登場人物の言葉遣いは、単一的に女性ジェンダー表現を用いたものもあれば、個人の属性の違いが言葉遣いに反映するように描かれたもの、個人の表現意図を反映した変化を含むものまで、様々なタイプがある。
・   テクストの二重性がステロタイプへの依存を強めていると思われる作品もあるが、全てがそうだとは限らない。
・   読者の年齢の低いものには女性ジェンダー標示形式の使用が単一的で選択性が見られず、成人読者を対象としたものには何らかの選択性が見られた。
・   女性ジェンダー標示形式の使用が単一的である場合、作品全体の日常世界への接近の度合いによってその使用の持つ意味が異なる。
・   女性ジェンダー標示表現の使用に選択性が見られる場合、選択を動機付ける要因には次のようなものがあり、いくつかが同時に関わることがある。
  ①個人の属性(年齢、社会経済的条件、個人的人格的素養)
  ②言語行為の攻撃性の有無
  ③発話者の表現意図
・   上の中で、最も多くの場合に見られる要因は「年齢の若さ=性的魅力」であった。
・   ①と②の要因は、「女性は女性らしさ(=やさしい、美しい、か弱いなど)を示す言葉遣いをすべき」「より上質の女性は女性らしい言葉遣いをする」というイデオロギーを強化する傾きを持っている。
・   男性読者対象のものは女性ジェンダー標示表現の使用を①、②の好ましい性質と関連付けるが、女性読者対象のものにはそうした関連は見られなかった。
 
フィクションや翻訳において現実とはかけ離れた頻度で女性ジェンダー標示形式が使われるのは確かである。しかし、以上の観察によって示されたように、ジェンダー指標形式の使用の全てが伝統的な女性役割を規範として強化するとは限らない。使用の質的側面を観察する必要がある。
6.終わりに
フィクションの言葉遣いの提示する問題は、現実の言葉遣いとフィクションの言葉遣いがずれていることそのものではなく、そのずれが我々をどこに導くのかということである。フィクションは、現実とはかけ離れた世界を提示してそれが規範であるかのように信じ込ませることもできるかもしれないが、「二つの現実(=現実と作品世界の現実)のズレを明確にすることにより、普遍で固定的であるように見せられているこの社会を、変えることが出来るものとして見せることも出来るし、また逆に現実社会をそのまま肯定して、その中に生きる片隅があることを示すこともできる。」(根本2004:1)ジェンダー標示表現も、ジェンダーについての固定観念から我々を解き放つように使われるかどうかが重要である。
 
女性のステロタイプは、単に言語の形式に留まらず、女性の言語行動や語るべき内容についても枷をはめてきた。「今もなお、良識的な女性たちは『はしたなさ』や『人間としての品格』といった制約の中で許されたボキャブラリーの範囲内で戦うことを余儀なくされてしまっている」(荷宮2003:196)。か弱くお上品なお姫様でなく、主体性のあるヒロインとなる道を拓こうとするとき、『ベニスの商人』のポーシャや『リボンの騎士』のサファイアに倣って、「男性的」な行動を取ることを正当化するために伝統的に用いられてきた装置である「男装」を行なうのか、女性であることを手放さずに「ヒーロー」であったクレオパトラ(朱雀2005:3-39)に倣うかは、なかなか難しい選択である。中立的及び男性的表現を用いることが、攻撃性や語る内容についての見えざる制約を解き放つのかどうか、また、「名誉男性」という新たな枷にはめられることにならないかどうか、慎重に考える必要がある。一つの新しい傾向として注目したいのは、女性ジェンダー標示形式を「好ましさ」と結び付ける社会の(或いは、男性の)固定観念を逆手に取って、通常の発話には用いない極端なまでに女性的な表現を多用しながら攻撃的な言語行動や「品格に欠ける」とされる内容についての発言を行なうという、いわば女性ジェンダー標示形式を鎧として戦略的に用いる発話例が、マンガや小説、エッセイの中に出てきていることである(因2005)。
 
1980年代以降の女性像の変化は、「男子に承認してもらうこと」を理想としないことを打ち出す雑誌が商業的に成功する(千野2006:27)という事実に象徴されるように、それまでとは規模の異なるものである。この時代に、フィクションの中の女性が語る言葉がどのようなメッセージを発し、我々をどこに導くのか、そのゆくえを慎重に見守る必要がある。
 
参考文献
  • 今井邦彦(2001)『語用論への招待』大修館書店
  • 小川早百合(2004)「話し言葉の男女差―定義・意識・実際」『日本語とジェンダー』4、日本語ジェンダー学会( https://www.gender.jp/index.html)
  • 尾崎義光(1997)「女性専用の文末形式の今」現代日本語研究会(編)『女性のことば・職場編』58-92、日本語ジェンダー学会
  • 尾上圭介(2004)『大阪ことば学』講談社
  • 金水敏(2003)『バーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店
  • 日下翠(1996)『金瓶梅』中央公論社
  • 佐島顕子(2005)「韓国少女マンガ事情」『漫画研究への扉』61-86、梓書院
  • 朱雀成子(2006)『愛と性の政治学 シェイクスピアをジェンダーで読む』九州大学出版会
  • 杉浦由美子(2006)『オタク女性研究』原書房
  • 谷口秀子(2004)『言語文化研究叢書Ⅷ:ジェンダーを超えるヒロインたち』九州大学言語文化研究院
  • 因京子(2003)「マンガに見るジェンダー表現の機能」『日本語とジェンダー』3、日本語ジェンダー学会
  • ―――(2004)「ジェンダー表現の機能」『言葉のからくり:河上誓作教授退官記念論文集』41-48、英宝社
  • ­­―――(2005)「女性語のゆくえ:絆として鎧としての女性語の可能性」『言語文化研究叢書XV: 言語と文化のジェンダー』30-45、九州大学言語文化研究院
  • ―――(2006)「談話ストラテジーとしてのジェンダー標示形式」『日本語とジェンダー』 53-72、ひつじ書房
  • 千野帽子(2006)『文芸ガーリッシュ』河出書房新社
  • 中村桃子(1995)『ことばとフェミニズム』勁草書房
  • ――――(2001) 『ことばとジェンダー』勁草書房
  • ――――(2003)「言語とジェンダー研究・イデオロギーと言語行為のダイナミックな関係」  山梨正明・有馬道子(編)『現代言語学の潮流』196-210、勁草書房
  • ――――(2006)「翻訳が再生産する女ことば」『日本語ジェンダー学会第7回年次大会予稿集』2-6
  • 荷宮和子(2003)『若者はなぜ怒らなくなったのか』中央公論新社
  • 根本萠騰子(2004)『文学の中の女性』近代文芸社
  • 松村瑞子(2005)「 少女マンガの言葉遣い」『漫画研究への扉』111-32、梓書院
  • 水本光美(2006)「テレビドラマと実社会における女性文末詞使用のずれにみるジェンダーフィルタ」『日本語とジェンダー』73-94、ひつじ書房
  • 山路奈保子(2005)「小説における女性終助詞『わ』の使用」『日本語とジェンダー』6、日本語ジェンダー学会 (https://www.gender.jp/index.html)
マンガ作品
  • 鳥羽笙子『源氏物語』NHKまんがで読む古典、(角川書店1991)
  • 羽崎やすみ『更級日記・蜻蛉日記』文庫版(集英社2006)  
  • 大河原遁『王様の仕立屋』(集英社2004)
  • 黄美那『ユニ』成美江子訳(講談社1995)
  • わたなべまさこ『金瓶梅』コミック世界の名作シリーズ、(双葉社2000)
  • パク・ソヒ『らぶきょん』佐島顕子訳(新書館 2006)
  • 安野モヨコ『働きマン』(講談社2004)
  • 逢坂みえこ『火消し屋小町』(小学館2000)
(因京子 ちなみきょうこ 九州大学留学生センター)
 
 
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