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学会誌6号:研究論文1(佐藤)

『源氏物語』における自己認識の性差
―「思ひ知る」の用法を中心に―

佐藤 勢紀子

 
要旨:『源氏物語』の登場人物の自己認識にどのような男女差が見られるかについて、「思ひ知る」およびその類語の用法に着目して検討した。その結果、女性の登 場人物では、「身」を思い知る例が多いのに対し、男性の登場人物では、自分自身の「心」を思い知る例が多いことがわかった。女性登場人物においては、「憂 き身/浮き身」の自覚に端的に示されているように、無常の相を体現すべく宿世によって定められた「身」が認識されている。一方、男性登場人物について見る と、主要人物では、最終的に「世」の無常を知るべく宿世や仏の方便によって定められた「身」が認識されているが、一般には「身」意識は女性ほど濃厚ではな く、自己の「心」のありように注目した自己認識が比較的顕著に見られる。
 
キーワード:『源氏物語』、自己認識、「思ひ知る」、「憂き身」意識、「心」への注目
1.はじめに
『源氏物語』は、11世紀という時代の作品としては世界的に類を見ない精緻な心理描写で知られているが、物語の中に描かれた登場人物には、どのような自 己認識が見られるだろうか。そこには男性と女性で異なる特徴が認められるだろうか。
 
これまでの『源氏物語』研究において、自己認識の問題は、個々の人物に焦点を当てた人物論の中ではしばしばとりあげられているが、物語全編にわたる登場 人物の自己認識のありようを考察した例はほとんどなく注1、性別による自己認識の違いを中心的に 扱った研究成果は管見に入っていない。特に、男性登場人物 一般の自己認識がいかなる傾向性を持つものであるかについては、これまで検討されていないのではないか。
 
本稿では、『源氏物語』の中で認識行為を表す語として多用されている「思ひ知る」およびその類語に着目し、男女の登場人物がそれぞれどのようなことを認 識しているかについて、調査を試みる。その結果から、『源氏物語』における自己認識の性差の一端が明らかになるのではないかと考えられる。
2.「身」意識に見られる自己認識
本節では、『源氏物語』の登場人物の自己認識に関する先行研究の成果をふまえつつ、論点の所在を明らかにする。
 
2.1    主要人物の人生回顧
 
物語の主要人物については、それぞれの人物像をめぐる論考の中で、その自己認識がとりあげられてきた。特に、正編の主人公光源氏、その生涯の憧れの女性 であった藤壺、そして最愛の妻紫上は、いずれも晩年にみずからの人生を振り返ってその「身」に思いを致す形で自己認識を表明しており、それらの自己認識 は、人物論の範囲を超えて、『源氏物語』の主題論、構想論にも関わるものとして、重要視されている。以下にあげる(1)および(2)は源氏の人生回顧にお ける自己認識、(3)は藤壷、(4)は紫上のそれである。
  
(1) 鏡に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけなきほどより、悲しく常なき世を思ひ知るべく 仏などの勧めたまひける身を、(御法 巻4-499)注2    
 
(2) この世につけては、飽かず思ふべきことをさをさあるまじう、高き身には生まれながら、また人よりことに口 惜しき契りにもありけるかな、と思ふ こと絶えず。世のはかなくうきを知らすべく、仏などのおきてたまへる身なるべし。(幻巻4-511)    
 
(3) 心の中に思しつづくるに、高き宿世、世の栄えも並ぶ人なく、心の中に飽かず思ふことも人にまさりける身、 と思し知らる。(薄 雲巻2-435)    
 
(4) あやしく浮きても過ぐしつるありさまかな。……人よりことなる宿世もありける身ながら、人の忍びがたく飽 かぬことにするもの思ひ離れぬ身にて ややみなむとすらん。(若菜下巻4-203)   
 
阿部(1989)は源氏の思いを中心にこれらの人生回顧をとりあげて詳細な検討を行っているが、その類同性を指摘するにとどまり、男女間での違いをとり たてて論じることはしていない注3。これに対し、佐藤(2002)は、上掲の源氏の人生回顧や続編 の主人公薫の人生回顧((5)、(6))に見られる方便 の思い――仏などによる衆生救済のための特別のはからいの認識――が藤壷や紫上の人生回顧には見られないことに注目した。そして、その原因を、女性は罪障 が深く救われがたい存在であるとする女人劣機の思想に求めた注4
  
(5)尽きせずはかなくいみじき世を嘆きたまふ。……現の世には、などかくしも思ひ入れずのどかにて過ぐしけ む、……「かかることの筋につけて、い みじうもの思ふべき宿世なりけり。さま異に心ざしたりし身の、思ひの外に、かく、例の人にてながらふるを、仏などの憎しと見たまふにや。人の心を起こさせ むとて、仏のしたまふ方便は、慈悲をも隠して、かやうにこそはあなれ」と思ひつづけたまひつつ、行ひをのみしたまふ。(蜻蛉巻6-205)    
 
(6) いかなる契りにて、この父親王の御もとに来そめけむ。……いと尊くおはせしあたりに、仏をしるべにて、後 の世をのみ契りしに、心きたなき末の 違ひめに、思ひ知らするなめり。(蜻蛉巻6-219)  
 
これら主要人物の人生回顧における自己認識の性差は、しかし、方便の思いの有無のみに求められるものではない。源氏と薫では、多くの愛する者との別れを 通じて「世」の無常を知るべき宿世を持つ「身」が自覚されているのに対し注5、藤壺と紫上では、高 き宿世を持ちながら思い悩むことの多い我が「身」に思い が集中している。男性主要人物の自己認識には、「世」の無常、「身」の宿世、そして仏の方便の思いが関わっているが、女性主要人物の自己認識では、もっぱ ら「身」の宿世が思われていて、「世」の無常の思いは見られない。しかし、紫上の「あやしく浮きても過ぐしつるありさま」という言い方を、無常の相を帯び た「身」のありさまと見なすこともできる。男性における無常を知るべき宿世との対応で言えば、無常を体現すべき宿世がここで認識されていると言えるのでは ないか。
 
2.2 女性の自己認識の典型―「憂き身」の自覚―
 
このような自己認識は、紫上一人のものではなく、続編の女主人公浮舟にも見られるものである。(7)は入水を試みて失敗し、小野の里に暮らす浮舟の人生 回顧である。
  
(7) 親と聞えけん人の御容貌も見たてまつらず、遥かなる東国をかへるがへる年月をゆきて、たまさかにたづね寄 りて、うれし頼もしと思ひきこえしは らからの御あたりも思はずにて絶えすぎ、さる方に思ひさだめたまへりし人につけて、やうやう身のうさをも慰めつべききはめに、あさましうもてそこなひたる 身を思ひもてゆけば、(手習巻6-319)   
 
ここで回想されている浮舟の過去は、先に見た紫上の「あやしく浮きても過ぐしつるありさま」という認識がそのままあてはまるような、さすらいの人生の様 相を呈している。浮舟自身にも同様の認識があり、「浮きて世をふる身」(浮舟巻6-152)という表現が、匂宮に宛てて詠まれた歌の中に見えている。
 
もうひとつ、この浮舟の人生回顧で注目されるのは、最後の方に出てくる、「身のうさ」という表現である。これは、女性登場人物に顕著に見られる「憂き 身」意識のあらわれである。
 
佐藤(1995)が『源氏物語』に見られる92例の「憂き身」表現注6の分析を通じて明らかにし ているように、「憂き身」の思いは宿世の思いと密接な関 係を持っており、『源氏物語』では、ほぼ女性特有の思いとなっている注7。そして、何より重要なこ とは、この「憂き身」は「浮き身」でもあるということで ある。浮舟のみならず、空蝉、六条御息所、明石君、玉鬘、落葉宮、大君、中君など、『源氏物語』で重要な役割を演じている多くの女性登場人物に「憂き身」 にして「浮き身」なる存在としての自己認識が見られる。より具体的には、不安定なさすらいの人生を送るべく宿世によって定められた嘆かわしい身という自己 認識である。さらに換言すれば、先に紫上の人生回顧について述べたように、無常を体現すべき宿世ある身の自覚、ということになる。『源氏物語』の女性登場 人物一般の自己認識は、この「憂き身/浮き身」の自覚に最も端的にあらわれていると言ってよいだろう。
 
2.3「身」意識の性差
 
「憂き身」や「浮き身」にかぎらず、『源氏物語』の女性登場人物の意識が「身」に向かいやすいということは、既に先学によって指摘されてい る。藤田(1980,245)は、『源氏物語』における「世」と「身」の用例を精査した結果、男性主要人物は「身」より「世」に対して深い嘆きを寄せるの に比して、女性主要人物は「世」より「身」に対して詠嘆、苦悩、感慨を寄せる比率が高いとしている。
 
近藤(2004)も、藤田とは異なる視点から、女性登場人物の「身」への注目を指摘している。近藤はまず、『古今和歌集』の歌語におけるジェンダー規範 の存在を指摘し、『源氏物語』にもそれがおおむね引き継がれているとしている。そして、男性語「知る」を多用している浮舟の歌の分析結果をもとに女性一般 の歌における「知る」の用例を検討し、その「身」「憂し」との連携に言及して、『源氏物語』は女性の「知る」を自己認識のことばとして位置づけていると述 べている。一方、男性の「知る」は、外部に広がる能動的方向性を持ち、自己認識に向かうことはむしろ少ないという。
 
先に見たように、源氏や薫においては、その人生回顧の中で「身」のありように目が向けられ、無常を知るべき宿世ある身という自己認識が形成されていた。 しかし、彼ら自身を含め、男性登場人物一般において、そのような「身」の注視は必ずしも日常的な行為ではないようである。これは、女性の登場人物一般が、 しばしばその「身」を思い、繰り返し「憂き身/浮き身」を嘆じているのとは対照的である。 
 
『源氏物語』の男性登場人物における「身」意識は比較的希薄であるようだ。しかし、このことから即座に、男性が女性に比べて自己認識が乏しい存在として 描かれているという結論を導くことはできない。男性登場人物には、「憂き身」意識を典型とする女性登場人物の「身」意識とは違った形での自己認識があるの ではないか。自己認識というものを「身」意識の範囲で考えてきた従来のアプローチの仕方を見直し、より広い枠組でこれを捉える必要があると考えられる。
3. 「思ひ知る」の用法
3.1 人生回顧と「思ひ知る」
 
ここで、考察を進めていく手掛かりとして、「思ひ知る」という語に着目したい。前掲の主要人物の人生回顧の(1)に「常なき世を思ひ知るべく」とあっ た。その尊敬表現「思し知る」が(3)にあり、類語の「思ひ知らす」が(6)に見えている。さらに、(2)の「知らす」も、他の例から類推して、「思ひ知 らす」の意であろう。このように、主要人物がその人生を顧みて総括する重要な場面で、たびたび、その認識行為を表す語として「思ひ知る」やその類語が使用 されていることは、注目に値する。以下、「思ひ知る」およびその類語をとりあげ、それらの語が『源氏物語』の中でどのように使用されているかを見ていく。
 
3.2    『源氏物語』における「思ひ知る」の用例
 
『源氏物語』には、「思ひ知る」およびその類語の用例は228例ある。その内訳は、「思ひ知る」133例、「思し知る」84例、「思ほし知る」5例、 「思ひ知らす」2例、「思し知らす」2例、その他、「思ひ知る」を含む複合動詞2例注8となってい る。また、思い知るという行為の主体の性別、すなわち、 思い知る人物が男性であるか女性であるかを見ると注9、男性83例、女性139例、その他人間一般 を指す例が6例となっており、女性が全体の約3分の2を 占めている。
  
3.3    「思ひ知る」対象
 
『源氏物語』が書かれた平安中期において、「思ひ知る」という語は現在よりも幅広い意味で使われている印象があるが、「思ひ知る」の語義を明らかにする 前に、まず、何を「思い知る」のかということを見ておきたい。『源氏物語』の登場人物が思い知る対象となることがらは実に様々であり、そのすべてを類別す ることは困難である。しかし、少なくとも、そこには、(a)もの、(b)世、(c)身、(d)心、の4つの大きなグループの存在が認められる。このうち (d)の心は、さらに、他者の心と自己の心に分類される。(c)身、および、(d)のうち自己の心を思い知る例は、特に自己認識の問題と深い関わりがある と考えられる。以下、順にとりあげて解説する。
 
3.3.1 もの
 
「思ひ知る」とその類語の用例228例のうち、34例が「もの思ひ知る」といった形で「もの」という語を冠して使われている注10。 これが「もの」を 「思ひ知る」のであって、「もの思ひ」を「知る」のでないことは、「もの思し知る」という表現が少なからず存在することから明らかである。
 この「もの」が具体的に何を指すのかはわかりにくいが、子どもがある程度の年齢に達して「もの思ひ知る」ようになるという言い方や、娘を「もの思ひ知 る」人物と結婚させたいという言い方が見られること、情趣を解しない人物が「もの思ひ知らぬ」者として非難されていることなどから、「もの思ひ知る」全体 で、様々な経験をして分別がある、物事の情理をわきまえている、などの意味で使われているのではないかと考えられる。
  同様の表現として、「何事も思ひ知る」、「よろづ思ひ知る」、といった表現も見られる。それらを含めると、48例、「思ひ知る」等の用例全体の2割強が上 のような意味で使われていることになる。
 
3.3.2    世
 
「世」や「世の中」を思い知るという言い方は、前項の「もの」を思い知るという言い方と近い意味で使われる場合もあるが、「世」という語をあえて使用し ているところに特別な意味があると考え、両者を区別して考えることにする。この種の言い方は、28例あり、全体の約12%に相当する。「世の常なさ」、 「憂き世」など、「世」の様相を含めて言われることもあるが、単に「世」や「世の中」を思い知るという言い方になっている場合も多い。ただし、当時、 「世」という語はそれだけで無常の属性を帯びたものとして捉えられていたと見られ(佐藤1995:148)、「世」を思い知るという言い方は、ほぼ、世の 無常や世の憂さを認識するという意味で用いられていたと考えてよいだろう。
 
3.3.3 身
 
 「身」や「身のほど」を思い知るという言い方は、19例見えている。「身」という概念が宿世の思いと強い関連を持っていると見られることから、「宿世」 や「契り」を思い知るという言い方8例、宿世の思いを窺わせる例6例も同種のものとして考えると、33例、全体の15%近くがこの種の言い方に属すること になる。(8)は明石君が「身のありさま」を、(9)は空蝉が「うき宿世ある身」を思い知る例である。
  
(8) 身のありさまを、口惜しきものに思ひ知りて、高き人は我を何の数にも思さじ、……命長くて、思ふ人々にお くれなば、尼にもなりなむ、海の底に も入りなむなどぞ思ひける。(須磨2-203)   
 
(9) うき宿世ある身にて、かく生きとまりて、はてはてはめづらしきことどもを聞き添ふるかなと、人知れず思ひ 知りて、人にさなむとも知らせで、尼 になりにけり。(関屋2-354)   
 
「身」を思い知るという言い方は、宿世によって定められたみずからの境涯を自覚することを意味しており、本稿で扱っている自己認識の問題と特に深い関わり を持つものである。
 
3.3.4 心
 
「心」を思い知る例としては、「心ばへ」、「心ざし」、「心のほど」などの用例を中心に、他者や自己の心情を思い知るという文脈を持つ例が相当数見られ る。そのうち他者の心を思い知る例の大半は、他者の自分に対する厚意の認識を示している。(10)は宇治の姫君たちが薫の厚情を思い知っている例である。
  
(10) ものおぼえぬ御心地どもにも、年ごろの御心ばへのあはれなめりしなどをも、思ひ知りたまふ。(椎本5-182)   
 
このように、他者の厚意をあらためて認識し感謝の念を抱く例が典型であるが、そのほか、他者の愛情の深さを思い知る例、また逆に、少数ながら、愛情の希薄 さを思い知る例も見られ、それらを合わせれば49例、全体の2割強が他者の心情を思い知る例となっている。
 
一方、他者の心情を思い知るのではなく、今まで十分に自覚していなかった自分自身の「心」を思い知る例も24例あって、全体の1割強を占める。「われな がら」、「わが心ながら」、「みづから」などの表現をともなう例が多い。(11)は源氏が自分の末摘花への気遣いのなさを、(12)は柏木がみずからの心 弱さを思い知っている例で、いずれもその心の至らなさの認識が前面に出ている。
  
(11) いみじうあはれに、「かかるしげき中に、何心地して過ぐしたまふらむ。今までとはざりけるよ」と、わが御心の情なさも思し知らる。(蓬生2-337)   
 
(12) 「例の、いとおどろおどろしき酔にもあらぬを、いかなればかかるならむ。……いとさいふばかり、臆すべき心弱さとはおぼえぬを、言ふかひなくもありけるかな」とみづから思ひ知らる。   (若菜下4-271)   
 
他者の「心」を思い知る場合は、その心情は自分への厚意や愛情の深さを示すものとして肯定的にとらえられることが多いが、自己の「心」を思い知る場合は 否定的な評価がともなうのが普通である。これは一見矛盾しているようであるが、実際には両者の思いは水面下で繋がっている。他者の厚意や愛情への肯定的評 価は、裏返してみれば、それを十分理解していなかった自分への否定的評価につながり、反省を促すものだからである。
 
3. 4 「思ひ知る」の語義
 
以上の分析から、「思ひ知る」という語がどのような意味で使われているかが見えてきたように思う。「思ひ知る」の語義について、重要な点は、これが「知 る」とどう違うかということであろうが、「知る」が基本的には知識や情報を獲得するという意味で使われるのに対し、「思ひ知る」は、みずからの実際の体験 を通じて何ごとかを存分に覚知するという意味で使われている。しかも、その認識の仕方は、単に知的理解にとどまるものではなく、世の「あはれ」なることを 思い知り、人の厚意を「ありがたく」思い知るというように、情的なレベルでの了解まで含んだものであると見ることができる。
 
さらに、上にふれたように、何かを思い知るという認識作用は、多くの場合、何らかの意味で、自己の否定的な評価につながってくるものであるようだ。たと えば、「もの」を思い知ることは結果的には人間としての成熟を意味するが、その過程では様々な不如意を体験し、分をわきまえることが求められる。「世」の 無常や「身」の宿世を思い知ることも、自己の限界を知らされることにほかならない。また、自他の「心」を思い知ることは、しばしば自己の至らなさ、他者へ の理解や感謝の不十分さの認識と結びついていた。
 
現在、「思い知る」という言葉をある体験を通じて自分の力量不足や限界を認識するという文脈で使うのは、上のような「思ひ知る」の本来の性格によるもの であろう。また、これは現実の会話の中で日常的に観察される言い方ではないが、たとえば、漫画、アニメ、コンピューター・ゲームなどのサブ・カルチャー系 の作品に見られるように、敵対関係にある相手に対して「思い知れ」、「思い知ったか」などの言葉が投げかけられるのも、「思ひ知る」という語がその思いの 主体の否定的評価をともなうことに由来していると見ることができよう注11
4.「思ひ知る」の使用にあらわれた性差
さて、「思ひ知る」およびその類語の使い方について、男女による違いは認められるだろうか。思い知る主体の性別を全体として見た結果は、既に述べたとお りで、女性が主体となっている例がほぼ3分の2を占めている。また、男性では思い知る主体となる人物が限られていて偏りが大きいのに対し、女性ではより多 くの登場人物がより平均的に思い知るという行為の主体となっている。思い知る主体となっている人物は、男性では14名で、源氏(40例)と薫(14例)に 例が集中し、思い知る例の数が3例以上の人物は彼らを含めて6名にすぎない。一方、女性では、29名の人物が思い知る主体となっており、中君(27例)を 筆頭に、大君(15例)、玉鬘(13例)、紫上(11例)、落葉宮(8例)、浮舟(7例)と続き、3例以上の人物は15名にのぼる注12
 
さらに、何を思い知るかという点に目を向けると、男女の間で大きな違いがあることに気づかされる。表1は、思い知る対象が何であるかを男女別に示したも のである。表中の括弧内の数値は、その対象を思い知る度数の、男性、女性、人間一般、全登場人物のそれぞれが思い知る全度数に対する比率を示している。
 
表1 思い知る対象の男女による相違 
対象

主体   

もの 他者の心 自己の心 その他
男性
(%)
7
(8.4)
16
(19.3)
9
(10.8)
6
(7.2)
19
(22.9)
26
(31.3)
83
(100.0)
女性
(%)
37
(26.6)
11
(7.9)
23
(16.5)
43
(30.9)
5
(3.6)
20
(14.4)
139
(100.0)
一般
(%)
4
(66.7)
1
(16.7)
1
(16.7)
0
(0.0)
0
(0.0)
0
(0.0)
6
(100.0)

(%)
48
(21.1)
28
(12.3)
33
(14.5)
49
(21.5)
24
(10.5)
46
(20.2)
228
(100.0)
表1より、思い知る対象に関して、男性登場人物と女性登場人物の描き方に三つの大きな相違点が見られることがわかる。第一は、「もの」を思い知るという 言い方の多くが女性について言われていることである。ただし、このことは、必ずしも実際に女性登場人物が男性登場人物に比して「もの」を思い知っているこ とを意味しているのではない、ということに注意する必要がある。「もの思ひ知らぬやうなる心ざま」(末摘花1-362)、「すこしものの心思し知りなむ に」(若紫1-323)など、「もの思ひ知る」が打消や仮定の形で使われている例が多い。この物語において、特に女性が「もの」を思い知っているかどうか が大きな関心事になっていることは確かであるが、それは女性がとりわけ「もの」を思い知る存在であることを示しているわけではない。
 
第二は、「世」を思い知るのはどちらかと言えば男性であり、「身」を思い知るのは男性よりは女性の役割となっていることである。これまで指摘されてきた とおりに、男性登場人物は世の無常を深く認識し、女性登場人物は身の宿世を痛感する傾向が強いと言える。
 
先に、『源氏物語』の主要人物の人生回顧における自己認識を見たが、そこでも男性には「世」の無常を知るべき者としての自己認識があり、一方、女性には 無常を我が「身」に現ずる者としての自己認識があった。いずれにおいても最終的には「身」が意識されていたが、光源氏や薫がとりあえず思い知らされたのは 「世」の無常であり、藤壷が思い知ったのは「身」の宿世であった。そのような、主要人物の自己認識に見られた傾向は、『源氏物語』の登場人物一般にも認め られるものであるということができる。
 
そして、第三の相違点は、他者の「心」を思い知るのはほとんど女性であり、一方、自己の「心」を思い知るのは圧倒的に男性が多いということである。特 に、「身」への関心が比較的薄いとされている男性登場人物において、自己の「心」のありようがしばしば意識され、そこに「身」意識とは違ったタイプの自己 認識が形成されていることは注目に値する。男性は、物事のなりゆきを、基本的には宿世によるものとしながらも、自分の「心」の持ち方によってある程度操作 できるという意識を持っており、その点が、宿世に「身」を緊縛されている女性との自己認識の違いを生み出しているのではないだろうか。
 
このことに関して、男性主要人物の自己認識をあらためて見ると、先に掲げた(2)の源氏の人生回顧の続きは次のようになっている。
  
(13) それを強ひて知らぬ顔にながらふれば、かくいまはの夕近き末にいみじき事のとぢめを見つるに、宿世のほども、みづからの心の際も残りなく見はてて心やすきに、今なんつゆの絆なくなりにたるを、(幻4-511)   
 
ここで、「宿世のほど」と並べて「みづからの心の際」が言われていることは重要である。
 
また、薫も、浮舟の入水について、「わがここにさし放ち据ゑざらましかば」(蜻蛉6-225)、「ただ、わが過ちに失ひつる人なり」(同)などと自責の 念を抱いている。(5)、(6)で見たような宿世や仏の方便による人生解釈と並行して、自分自身の心構えが省みられている点に、男性登場人物の自己認識の 特徴があらわれていると言うことができよう。
5.おわりに
以上、「思ひ知る」およびその類語の用法を手掛かりとして、『源氏物語』の登場人物一般の自己認識にどのような性差が見られるかを追究してきた。その結 果、男性では、主要人物の人生回顧においては、無常を知るべき宿世ある身という自己認識があるが、それ以外では、「身」意識は比較的希薄であるのに対し、 女性の場合は、多くの登場人物に共通して「身」意識があり、言わば、無常を体現すべき宿世ある身が認識されていることがわかった。その最も端的なあらわれ が、女性に顕著な「憂き身/浮き身」の自覚である。また、男性登場人物においては、しばしば自分自身の「心」のありようへの注目が観察され、その自己認識 を特徴づけるものとなっていることが明らかになった。『源氏物語』の男性登場人物において「心」をめぐる自己認識が顕著に見られることについては、「思ひ 知る」の用例以外の部分での検討も含めて、なお考察を要するが、今後の課題としたい。
 
『源氏物語』の作者紫式部の家集に、次の歌がある。
 
   心だにいかなる身にかかなふらむ思ひ知れども思ひ知られず
 
この歌で「思ひ知る」という語が繰り返し使われているのは、夫の死に遭い、宮仕えを余儀なくされて、その「身の憂さ」に意識が集中していく式部の鬱屈し た思いを反映しているものと考えられる。ただし、ここで、「身」との対比で「心」があげられているのは、「身」意識におさまりきれない彼女の自己認識のあ りようを示唆している注13。『源氏物語』に登場する男女の自己認識はおおむね当時の貴族社会の通 念としてのジェンダー意識を反映していると考えられる が、そうしたジェンダー意識を土台としつつ、作者自身がいかなる自己認識を形成していたかを検討することも興味ある研究課題である。これについても、他日 を期することとしたい。
 
  1. 藤田加代(1980)第5章「「世」意識と「身」意識からみた不幸観」の「身」意識をめぐる考察、佐藤 (1995)第2章の「憂き身」意識をめぐる考察は、その数少ない例外である。本文に戻る
  2. 本稿における『源氏物語』の引用および用語の分析は、阿部秋生・秋山虔・今井源衛校注日本古典文学全集 『源氏物語』(小学館、1970~1976)による。括弧内の数字は全集の巻・頁を表す。本文に戻る
  3. 阿部(1989)「六条院の述懐」の初出は『東京大学教養学部紀要』39号(1966)。丸山 (1985)でも、光源氏と紫上について、それぞれの人生回顧をめぐる考察がなされているが、男女による違いという観点からの論考ではない。本文に戻る
  4. 『源氏物語』の女性登場人物に方便の思いが見られないことについては、重松(1967:  62)で指摘されているが、女の心が「方便を思うほど思念的でゆとりのある心ではない」とする解釈には従えない。本文に戻る
  5. 『源氏物語』において、「宿世」という語は、多くの場合、前世の業因によって定められた宿命の意で用いら れており、例(5)の用例もそうである。例(2)や例(6)に見える「契り」も、前世からの因縁の意であり、「宿世」に類する意味で用いられている。本文に戻る
  6. 「(心)憂き身」、「身の憂さ」、「身……(心)憂し」のほか、引き歌によって「憂き身」の意を表してい るものなど、間接的な表現も含む。本文に戻る
  7. 『源氏物語』においては、直接的な「憂き身」表現のうち男性の「憂き身」の自覚を表している例は4例にす ぎない(佐藤1995:133)。本文に戻る
  8. 「思ひ知り行く」、「思ひ知り始む」が各1例ある。本文に戻る
  9. 「思ひ知らす」「思し知らす」に関しては、行為の主体は、思い知らされる側とする。本文に戻る
  10. 「ものの心」、「もののあはれ」を含める。本文に戻る
  11.  なお、『広辞苑』(岩波書店)では、「思い知る」の語義を「なるほどと思う。身にしみてわかる。さとり知 る」とし、「無力を思い知らされる」、「どうだ、思い知ったか」という用例をあげている。本文に戻る
  12.  秋山虔・室伏信助編『源氏物語必携事典』(角川書店、1998)の第3章「源氏物語作中人物事典」では、 重要な作中人物として、男性105名、女性128名があげられている。女性の方がやや多いが、それを勘案しても、思い知るという行為の主体が女性に偏って いることがわかる。本文に戻る
  13. なお、式部の歌に見える「身にかなふ心」という言い方は「心にかなふ身」という常套句を裏返したきわめて 特異な表現であり、注目される。佐藤(1997)を参照されたい。本文に戻る

参考文献

  • 阿部秋生(1989)『光源氏論―発心と出家―』東京大学出版会.
  • 近藤みゆき(2004)「男と女の「ことば」の行方―ジェンダーから見た『源氏物語』の和歌―」『源氏研究』9,73-92.
  • 佐藤勢紀子(1995)『宿世の思想―源氏物語の女性たち―』ぺりかん社.
  • --------(1997)「紫式部の身と心-家集56番歌を中心に-」『日本思想史-その普遍と特殊-』ぺりかん社, 37-55.
  • --------(2002)「『源氏物語』の仏観―方便の思いに即して―」『日本文学』51(12),1-11.
  • 重松信弘(1967)『源氏物語の仏教思想―仏教思想とその文芸的意義の研究―』平楽寺書店.
  • 藤田加代(1980)『「にほふ」と「かをる」―源氏物語における人物造型の手法とその表現―』風間書房.
  • 丸山キヨ子(1985)『源氏物語の仏教』創文社.

(佐藤勢紀子 さとうせきこ 東北大学高等教育開発推進センター教授)

 
 

 

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