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学会誌5号:論文1(宇佐美)

ジェンダーとポライトネス
―女性は男性よりポライトなのか?―

宇佐美まゆみ

1.はじめに

「言語とジェンダー」の関係については、1973年にロビン・レイコフ(Robin Lakoff)が言語と女性にまつわる問題を初めて提起して以来、社会言語学、言語社会心理学、言語社会学等における大きなテーマの一つとなってきた。一
方、「ポライトネス」については、70年代後半の語用論の発展とともに、言語形式の丁寧度のみの問題を超えた言語使用の観点を取り入れた分析が盛んになってきている。

これらの研究動向の中で様々な形で議論されてきたのが、「ジェンダーとポライトネス」の関係である。これまで、「女性は、男性より、より丁寧・ポライトなのか?」という問いかけがなされてきたが、この問いかけには、少なくとも表面上の言語行動を捉えた範囲では、多くの文化圏で、“yes”の答えが出ている。

例えば、「女性は、典型的には、男性よりもポライトな話し方をする。その特徴として、敬語や、ヘッジ、質問形などの、発話を和らげる装置(device)の使用率が高いことがあげられる。」(宇佐美訳)(Bonvillain、2002)などの指摘や報告は多い。
 このような数多くの報告を踏まえた上で、それでは、「なぜ、女性のほうが男性よりポライトなのか?」という問いに答えることが、社会言語学、言語社会心理学、言語社会学等のこれまでの研究課題の一つとなってきた。

2.そもそも誰がこの問題を問題として論じ始めたのか?

以上の課題を考える前に、そもそも、ジェンダーとポライトネスの問題が、問題として論じられるようになった発端に触れる。

「言語とジェンダー」の問題に、最初に取り組んだ言語学者は、ロビン・レイコフ(Robin Lakoff)である。彼女は、1973年の論文‘Language and Woman's Place’(1975年単行本となる)において、英語表現のうち、女性を指す数々のことばが、いかに女性無視、女性蔑視に基づいているかを明らかにし、我々が日頃何気なく使っている「女らしいことば」は、無意識的にせよ、女性蔑視に一役買っていると主張した。そして、女ことばを男性中心主義のアメリカ社会における弱者の言語であると位置づけるとともに、これを研究することによって、性差別主義(セクシズム)にメスを入れていく必要があると主張した。

どういうことが取り上げられたかを示す一例として、レイコフがあげた具体的な米語の女ことば1の特徴を、メイナード(1993)を参考に、以下にまとめる。

① 女性に特有の興味(ファッション、料理等)に関する語彙が豊富である。
 dart, magcnta(深紅色), mauve (藤色)等
② あまり意味のない形容詞を感情を表現するために使う。
 devine (すばらしい), cute (かわいい), oh, dear (おやまあ)等
③ 平叙文に、あたかも疑問文で相手の確認を求めるように尻上がりのイントネーションを使う。
夫「夕食は何時になるかね。」
妻「6時頃?」(↑)
④ 言い淀み表現を使って表現を和らげる。
 well (まあ、えー), kinda (まあどちらかと言うと)等
⑤ 強調表現として so (すごく)をよく使う
 I like it so much. (それ、すごく好きよ。)
It is so lovely! (すごく素敵!)
⑥ 文法にのっとった正しい表現を使う。
⑦ 極度に丁寧な表現を使う。
⑧ ユーモアに欠け、冗談を言ったり楽しんだりすることが余りない。
⑨ 一般に強調表現をよく使う。
⑩ 相手の確認、同意を求めるために付加疑問をよく使う。
 John is here, isn't he? (ジョン来てるわね。)
⑪ わいせつなことば、下品なことばを避ける。

このような観察をもとに、レイコフは、男性の権威に屈する弱者の言語として女ことばを位置づけ、その特徴を、「無意味な会話を丁寧に、媚びるように、感情的に、そして、差し障りのないように話す」と、(挑発的に)まとめたのである。

本稿では、これ以上詳しくは触れられないが、このレイコフの研究は、初めて「言語とジェンダー」を扱った研究として、また、数々の鋭い指摘を含んでいるものとして評価される一方で、後に、フェミニストたちからも批判されることにもなった。

それは、仮に、女性が、レイコフの言うように話す傾向にあるとしても、それは、基本的には、社会規範のプレッシャーが女性にそうさせているのであって、問題の本質は、女性の側にではなく、むしろ社会の側にあるのだとフェミニストたちは考えたからである。つまり、レイコフの主張は、犠牲者である女性に、さらに責任を押しつけて非難するという「ダブル・バインド」になっているとして、フェミニストたちから痛烈な批判を浴びたのである。

その他にも、例えば、上記①については、ファッションや料理を「女性に特有の興味」と決めつけるのは問題であり、①は、「女ことば」としてではなく、「ファッションや料理に興味を持つ人々のことば」の特徴として捉えるべきだというような「前提」の問題、そして、それにも関係しているが、特に言語学以外の分野の研究者からは、「内観」のみに基づいて主張をするというレイコフが取った「方法論」の問題が厳しく批判されたのである。

筆者自身も、レイコフの主張が100%受け入れられるとはいかなかったどころか、性差別主義にメスを入れていくべきとさえ主張したにもかかわらず、フェミニストたちからまで批判されることになった最大の理由は、その「方法論」にあったと考えている。直感的、個人的見解から反対意見を持つ人々を説得、納得させるために最も効果があるのは、データに基づく根拠であるが、根拠というのは、多くの「実証科学」では、ある程度の統計的事実を踏まえておく必要がある。しかし、レイコフの根拠には、それが欠けていたと言わざるを得ない。

このように、レイコフの主張には、確かに、学問的には、「仮説」の域を出ないものが多く、その方法論的な問題は大きいと言わざるを得ない。故に、学問的には、より厳密に研究する必要のある様々な問題点を含んでいたと考える。しかし、それにもかかわらず、レイコフの主張の核心は、基本的には、「言語とジェンダー」が内包する問題の本質をついていたと筆者は考えている。「ジェンダー」の問題を、「言語」に反映されているものとして捉え、「言葉というものの重要性」を、「初めて」問題提起したことの「社会的意義と功績」は、「学問的方法論上の問題」という弱点を補ってはるかに余りあるものであったと、筆者は捉えている。

また学問的観点からも、レイコフの指摘が発端となって、その後、「言語とジェンダー」に関する研究が、様々な言語で様々な観点から行われるようになり、今では、学会などが構成される一つの研究分野にまで発展している。レイコフ以降、言語とジェンダーにかかわる研究は、方法論・内容ともに大きな進歩を続けてきた。その発端となったということの功績は、はかりしれないものである。

3.アメリカにおける言語の非差別化運動と言語とジェンダー研究のかかわり

レイコフが、言語とジェンダーの問題を言語学的に考えるに至った契機の一つに、アメリカで60年代後半から盛んになった公民権運動と、それと一体となった形で積極的に進められていた「言語の非差別化運動」があった。この運動の成果の一つとして、一昔前まで、「総称の‘he’」と呼ばれていたものも、‘he or she’と言い換えられるようになったということは周知のとおりである。この問題についてのフェミニストたちの活躍はよく知られるところであるが、言語の非差別化を推進するために、フェミニストだけでなく、その他の関連諸領域の研究者も一体となって、それぞれの領域において貢献したことは意外に知られていない。故に、ここでは、そのいくつかを紹介しておく。

心理学者 Martyna (1980)の実験的研究では、When someone listens to the record player, he will often sing along.(レコードを聞くとき、人はよく曲に合わせて歌うものである。)というような文を用い、下線の部分を、“he,”“she,”“they”と変えて被験者にその解釈を求めた。その結果、“he”を使うと、それが総称であっても、大学生の20%が男性だけを意味すると解釈し、“she”を使うと女性だと解釈するものの割合が増え、“they”を使うと、男女どちらとも言えないと解釈するものの割合が増えたという結果を報告した。

Bordine (1975)は、19世紀以前には、3人称単数の代名詞として、実際に“they”が使われていたが、男性言語学者の主張と権威の力によって、学校教育の中で、“they”が“he”に改められていった過程をまとめている。

これらの実験や調査結果を受けて、70年代には、マクグロウ・ヒル出版社が差別用語廃止をかかげて、総称の‘he’と呼ばれていたものも、‘he or she’としてその足りない意味を補うこと、または構文を変えて複数の‘they’を使うことなどのガイドラインを提案するに至った。また、アメリカ言語学会は、1992年3月に、「いくら言語としてぎこちなくなるとしても、総称として‘he’を使うのは好ましくない、男性のみを指す場合を除いては、意識して避けるべきだ」と公式に表明した。

そして、80年代90年代を経た21世紀のアメリカでは、一般には、「女ことば」が特に取り立てて意識されることは少なく、80年代にレイコフが指摘したように、「女ことば」をそれとしてくくり、「弱者の言語」として位置づけるという捉え方はほとんどなされていない。話し方は、性の違いによるのではなく、むしろ、各種の「話し方のスタイル」が存在するのであると捉えられるようになってきた。性にかかわりなく、男女ともに、話し手個人に、「種々のスタイルをTPOに応じて使い分ける自由と責任」があると考えられるようになりつつあるのである。現代米語は、新しい価値観に基づく社会の期待を背負いながら、男女差を不必要に強調しない「人間の言語」として急速に変化していきつつある(宇佐美、2002b)。

このような「考え方」は、いたって今日的であり、理想的でもある。しかし、現実の言語使用は、未だ男女のことばの使用傾向の違いを示してもいる。関連分野の研究者は、それが何に起因しているのか、また、30年前にレイコフが提起した問題の本質は何であったのかを、改めて考え直し、言語とジェンダーの問題の本質を明らかにしていく必要がある。

4. 日本における「言語と性」の研究-その変遷と今後の課題

一方、日本においても、「言語と性」に関しては、様々な形で論じられてきた。ただ戦前のものの多くは、躾書のような形で「女性のことば遣いはこうあるべき」と、執筆者の意見が述べられた類のもので、「言語と性」について客観的に研究されたものは、あまりない(詳しくは、遠藤(1997)、中村(2001)等を参照のこと)。

1960年代以降、「女房詞」「遊女語」などに関わる研究が行われるようになったが、これらも男性研究者による男性の視点からのものがほとんどで、いわゆる女ことばを、現代的な意味で、ジェンダーの問題と絡めて論じたものは、皆無であった。

そのような中、日本語と女性について、初めて現代的な視点から論じたのが、寿岳章子の『日本語と女』(1979)であった。その後、1980年代に入ると、欧米の研究動向の影響を受けて、ジェンダー、フェミニズムの観点から、日本語における女ことばや、女性を表現することばについて研究するものが増加していった(概観と位置づけは、宇佐美、2002aを参照のこと)。ここでは、以下に、その中の主なものをあげておくにとどめる。

  • 寿岳章子『日本語と女』(1979)中公新書
  • 井出祥子『女のことば、男のことば』(1979)日本経済通信社
  • 『新聞の社会面に表れた女性たち』(1984)月火水の会
  • 『国語辞典のなかの女性差別』(1985)ことばと女を考える会 三一書房
  • 『メディアに描かれる女性像』(1991)メディアの中の性差別を考える会 桂書房
  • 中村桃子『ことばとフェミニズム』(1995)勁草書房

80年代から90年代にかけての日本語における「ことばと性」にかかわる研究は、大きくは、欧米の研究の流れの影響を受けたフェミニズム的観点に基づいたものと、いわゆる日本語学を背景とする研究者を中心として、辞典の分析などに基づいて独自に展開してきたものに分けることができるだろう。どちらかというと、女性がどう表現されているかという問題を扱ったものが多く、先に紹介した英語における“he”“she”“they”の使用とその捉え方に関する研究のような、「言語」自体の問題にまで踏み込んだ心理学的研究は少ない。今後、日本語において、「言語とジェンダー」の関係をさらに追究していくには、言語使用やその効果に焦点を当てた、実証的方法論による研究の発展が望まれる。

以下には、日本語学を背景とする研究者を中心として、日本で独自に展開してきた研究の代表例として、『国語辞典のなかの女性差別』(1985)、高崎(1994)で取り上げられた「問題」となる言葉の定義や用例を列挙しておく。

・辞書における「女」「男」の定義(新明解国語辞典1981年第3版より。一部省略)

「女」① 人間のうち、雌としての性機能を持つ方  ②「女①」として精神的、肉体的に一人前に成人したもの。<狭義では、気が弱く、心のやさしい、決断力に欠けた消極的な性質の人を指す。>
「男」① 人間のうち、雄としての性機能を持つ方  ② 「男①」として精神的、肉体的に一人前に成人したもの。<狭義では、弱いものをかばう、積極的な行動性を持った人を指す。>

 ・女性に関する語句(主に、高崎(1994)から)
    5種類の国語辞典の中の用例

 「養う」-妻子を養う
 「抱える」-妻子を抱える
 「~ば」-妻もあれば子もある
 「携える」-妻子を携えて赴任する
 「くらし」-くらしのことは全部妻に任せてある
 「従順」-夫に従順な妻
 「出家」-妻子を置いて出家する
 「逃げる」-妻子を捨てて逃げる

これらから明らかになることは、権威ある辞書が、従来の日本社会における「女性」の社会的地位や、社会が女性に求める役割意識等を顕著に反映しているということである。しかし、現在では、既に当てはまらなくなっている内容も多く、変革の必要性が叫ばれてきた。事実、2005年の現在までに、改訂されたものも数多い。

また、日本語に特有の問題としては、「女性が、配偶者を呼ぶことば:主人」について、が長年、議論の対象になってきた(宇佐美、1992、1997;福田、1987、などを参照のこと)。しかし、この問題は、女性個人の言語の選択の問題とも言えるだけに、意見や主張が多岐に渡ったまま、特に決着が出るというものでもないというところで留まっている。

しかし、筆者は、「主人」ということばを使用する女性の割合、使用場面、そして、そのことに問題意識を持っている女性の割合が、その時代の男女の役割に関する捉え方、或いは、女性の社会的地位を、間接的ではあるが、しかし、如実に反映していると見ることもできると考えている。これについては、また、稿を改めて論じたい。

いずれにせよ、このような問題が問題として一般に認識されるようにしていくには、いわゆる「気づき(awareness)」が重要である。言語とジェンダーについての研究が、単なる言語の研究にとどまらず、社会的な実践となっていくには、異文化理解教育などの分野で適用されている「気づき」を促す手法などを取り入れていくことも、有用であろう。

5.日本語の特質-言語自体に反映されている、社会の女性に対する期待(制約)-

ここでは、さらに、日本語の表現形式を「日本語自体の特質」という観点から、眺めてみる。「日本語には、男性専有、女性専有の表現があり、そのことが日本語を非常に豊かな言語にしている」と捉える人もいる。例えば、英語には、日本語ほど明確な男女差がないため、小説などの会話部には、いちいち he said, she said と誰が言ったのかを明記しなければならない。しかし、日本語の場合、「君は、早起きなんだね。」「ゆうべ、眠れなかったの。」(川端康成『雪国』)とさえ書けば、どちらの言葉かは、一目瞭然というわけである。

しかし、本当に、性によって言葉遣いを区別し、マークすることは、「豊かな言語」の証なのだろうか?普段、私たちが意識もせずに使っている「日本語」に
おける、性によって異なる「使用の原則」を分析すると、日本社会が女性に期待・要求している「女性像」というものが浮かび上がってくる(宇佐美、1997等)。

鈴木(1993)は、「女性が使えない語形式」として以下のようなものをあげている。(一部変更)
①断定の助動詞「だ」
   試験は、明日からだよ。
②話し手の意志を表す助動詞「う・よう」「まい」
   明日はやめておこう。
③話し手の推量を表す助動詞「だろう・まい」
   彼が休むことはないだろう。
④動詞・補助動詞の命令形。禁止の「な」
   早く来いよ。
  そんなに考え込むなよ。
⑤文末の疑問を表す助詞「か」「かい」
   一杯飲むか。

上の①~③は、自分自身の判断や意志を主張する「断定・主張型発話」である。これらを、いわゆる「女ことば」にするには、断定の助動詞「だ」を取って、「明日からよ」とするか、発話を和らげる「わ」を加えて、「明日からだわよ」にすればよい。(後者は、今日あまり使用されなくなったが。)④は、話し手が聞き手の行為について言及し、判断や決定を下す「行為要求型発話」である。これらを「女ことば」にするには、「命令形」ではなく、「早く来てよ」「そんなに考え込まないで」のように、「依頼形」にすればよいのである。⑤は、「解答要求型発話」で、聞き手に選択の余地なく解答を要求するという強い行為と捉えられる。これらを「女ことば」にするには、「一杯、飲みますか」のように、言語形式の丁寧度を上げればよい。

つまり、これらから、女ことばの「使用原則」をまとめると、「物事を断定する物言いをすることなく、柔らかい言い方をし、命令形や禁止の形などのように、人様に行為を要求するのではなく、依頼形を用いて相手に『ご依頼』し、相手に質問して、答えを要求したいのであれば、必ず『丁寧な』形を用いなさい」ということになる。つまり、そこには、日本社会が暗に女性に強いているとも言える「理想の女性像」が具現されているのである。また、それは、先に見たように、30数年前に、レイコフが指摘した米語の女ことばの特徴のポイントとほとんど同じであるということに、もうお気づきのことだろう。

柔らかい物言いも丁寧な形を用いることも、決して悪いことではない。しかし、どうして女性だけにこのルールが適用され、要求されるのか。そのことを不問にして、日本語の女ことばを捉えてはいけない。人間の生き方の核心にかかわるからである。

6.ジェンダーとポライトネス

さて、ここで、改めて、「ジェンダーとポライトネス」の関係について、考えてみたい。1980年代に入ると、欧米の言語とジェンダー研究の動向の影響を受けて、日本語においても、様々な研究が、新しい視点で行われるようになった。その結果、2.の項にまとめたレイコフが指摘した米語の女ことばの特徴①から⑪のほとんどが、日本語のいわゆる「女ことば」の特徴にも通じるということが自覚されるようになった。それが、表現形式の使用にまで反映され、語用論的規則、制約にもなっていることを指摘したのが、上述の鈴木(1989、1993)である。

つまり、日米という慣習的、宗教的基盤が、かなり異なる言語・文化においても、女ことばの特徴に共通性があることが、明らかになったと言える。また、日本語、英語だけではなく、独語、仏語、ロシア語、スペイン語、中国語、韓国語等々においても、「女性のほうが、男性よりポライトである」という傾向が報告されている。つまり、言語・文化は違えど、女ことばの特徴の共通点は、「男性と比べると、女性は、柔らかく、丁寧に、あまり断定しないで、同意を求めるような話し方をする」とまとめられるということが、明らかになったのである。その特徴の共通点というのは、相対的な捉え方をしたものであるが、換言すれば、すなわち、「礼儀正しさの規範からの逸脱の程度が、女性は男性より遥かに制約されている」ということでもあるのである。

「女ことばは、弱者の言語である」というレイコフが投げかけた挑発的な主張に対しては、「否、女ことばは、女性の品格を表しているのだ」という反論も多くなされた。そして、「女ことば」は、「弱者の言語」なのか、それとも、「女性の品格」を表しているのか、という点は、「言語とジェンダー」研究における論争の主要な論点の一つともなってきた。しかし、今日では、そもそも「女ことば」「男ことば」というように、ことば遣いの特徴を、性によって区別すること自体が問題であるという主張が主流になり、ことば遣いの特徴の多様性を認め、また、それは基本的に個人のスタイルとして捉えようというあたりに収まりつつある。

ただ、筆者は、レイコフが既に30年前に(挑発的に)投げかけた「女ことばは、弱者の言語なのか?」という問いかけへの答えは、今でも「イエス」であり、また、「ノー」でもあると考えている。つまり、先に挙げられたように、女ことばの特徴の中の最も本質的なものは、「丁寧に話す」ということである。そして、「丁寧に話す」ということは、基本的には、力のない者が力のある者に話す際の特徴と位置づけられるからである。しかし、語用論的には、力のある者が丁寧に話すことも、もちろんできる。そして、力のある者がそうすると、その「丁寧さ」は、「品格」となる。さらには、その「品格」という魔法のことばは、力のある者が、そうでない者たちに、明に暗に「丁寧に話す」よう教育するために、巧みに用いられてきたと言えるのである。つまり、力のない者は、丁寧に話せなければ、「下品」であるとして貶められる。それを避けるために、無意識的にも、丁寧に話そうと努力する者たちがいる。しかし、ここで見落としてはならないのは、力のある者は、丁寧でないことば使いをしても、「下品」とは見なされないという事実である。それは、「親しみを込めた話し方」となる。つまり、「品格」というものも、結局は、力のある者が、コントロールしていると言っても過言ではないのである。

言語・表現形式は違っても、日米両文化において、女性は、「柔らかく、丁寧に、あまり断定しないで、同意を求めるような」話し方をすることが報告されてきた。日米ともに、女性たちが、そのように、期待され、教育されてきたということだけは明らかであり、そこに問題の核心があることには変わりがないのである。これは、レイコフの「女ことばは、弱者の言語なのか?」という問いかけへの答えの「イエス」の部分である。
 一方、先に述べたように、力のある者が丁寧なことばを使用すると、その「丁寧さ」は、「品格」となる。つまり、もし、仮に、いわゆる「女ことば」は、弱者の言語ではなく、「品格」を表しているというのであれば、その使用者、つまり女性が、社会的に「力を持っている」ことを示す必要がある。個々の次元で考えるのであれば、現代では、社会的に力のある女性が増加してきているし、社会的力があって、且つ、いわゆる女ことばを使用する人も世代が上になるほど多いだろう。「女ことばは、弱者の言語なのか?」という問いへの答えの「ノー」の部分である。もちろん、女ことばは、強者が用いることもできる。よって、弱者だけの言語とは言えない。

ただし、ここで注意しなければならないのは、「言語とジェンダー」の問題の核心は、結局は、誰が実際に「女ことば」というものを使っているかということではなく、「女ことば」という総体を形成する個々の言語事象の特徴がどうなっているかということと、女ことばという総体それ自体のイメージが、特定の言語社会・文化で、直接的・間接的に、実際の女性たちに押し付けられているという事実のほうである。

7.今後の課題

以上、アメリカと日本を中心に、「言語とジェンダー」研究を概観しながら、「ジェンダーとポライトネス」の関係を論じた。上にも述べたように、ジェンダーとポライトネスは、密接に関係しているが、それら両方に関係しているのが、「力関係」という社会的要因である。また、ポライトネス・ストラテジーに、影響を与えているとされている「社会的・心理的距離」も、さらに、これらに複雑に絡んできている。ジェンダーの問題にも、ポライトネスの問題にも、「力関係」と「社会的・心理的距離」というものが、鍵となって複雑にかかわってくるのである。

これからの「言語とジェンダー」研究の課題は、いわゆる女ことばの特徴とされてきたような話し方を、「女ことば」として固定的に捉える枠をはずし、改めて、「誰が、いつ、誰に対して、どのような場面で、何を、どのように話す際に用いているのか」ということを改めて明らかにしていくことになるだろう。相対的な言語使用の観点を考慮にいれた「語用論的」な観点から、さらに展開していく必要がある。その点は、ディスコース・ポライトネス理論の考え方と共通する点である(DP理論については、宇佐美、2001a;b;c;2002c;2003、Usami,2002等を参照のこと)。そうすることによって、ジェンダーとポライトネスの関係も、対人コミュニケーション論の枠組みの中で、より包括的に捉えていけることになるだろう。

「ジェンダー」という概念は、「不必要な性役割意識」を問題として取り上げる必要から生まれた概念である。それが、逆に、「ジェンダー」という枠組からのみ、言語を、社会を捉えてしまうという陥穽に陥ることのないよう、改めて自覚する必要がある。


1 本稿では、日本語において「女性専有」と扱われている終助詞などの表現形式、及び、女性がよく使用する傾向にある表現、言い回しなども含めて「女ことば」と呼ぶ。ただし、それは、一般にそう捉えられているものとして言及するという意味である。
筆者自身は、現代日本語におけるいわゆる「女ことば」「女性語」というのは、基本的には、いわゆる「丁寧度の低い口語的表現や罵りことばまですべてを含めた日本語の総体」から、「丁寧度の低い形式や言い回し、断定的な表現や罵りことばなどを除いたものの総体」が、一般に、いわゆる「女ことば」とイメージされているものであると捉えている。つまり、本来、ことばに、性による二項対立はなく、言語使用の特徴や傾向は、社会的に作られるものであると考えている。故に、性だけでない他の社会的要因と関係づけて考えていく必要がある。

付記 本稿は、これまで筆者が様々な形で発表してきた内容をもとに、まとめ直したものである。それらと重なる部分もあることをお断りしておく。

引用文献
<日本語>

  • 井出祥子(1979)『女のことば、男のことば』日本経済通信社
  • 宇佐美まゆみ(1992)「言語・思考・アイデンティティ」『ことば』13号、現代日本語研究会
  • 宇佐美まゆみ(1997)『言葉は社会を変えられる』(編著)明石書店.
  • 宇佐美まゆみ(2001a)「21世紀の社会と日本語-ポライトネスのゆくえを中心に-」『月刊言語』30(1)( 1月号特集「21世紀の日本語」)大修館書店、2001:20-28.9頁.
  • 宇佐美まゆみ(2001b)「談話のポライトネス-ポライトネスの談話理論構想-」『談話のポライトネス』(第7回国立国語研究所国際シンポジウム報告書)、国立国語研究所、2001: 9-58.50頁 
  • 宇佐美まゆみ(2001c)「ディスコース・ポライトネス」という観点から見た敬語使用の機能-敬語使用の新しい捉え方がポライトネスの談話理論に示唆すること-」『語学研究所論集』6、東京外国語大学語学研究所、1-29. 29頁.
  • 宇佐美まゆみ(2002a)「言語とジェンダー研究」『月刊言語』31(6) (30周年記念別冊「日本の言語学」)、大修館書店
  • 宇佐美まゆみ(2002b)「ジェンダーとTPO」『英語教育』50(13)、27-29.大修館書店
  • 宇佐美まゆみ(2002c)連載「ポライトネス理論の展開(1-12)」『月刊言語』31(1-13、6を除く)、大修館書店、2002:毎号6頁 総頁数 72頁
  • 宇佐美まゆみ(2003)「異文化接触とポライトネス―ディスコース・ポライトネス理論の観点から―」『国語学』54(3)、国語学会、2003:7、117-132.
  • 遠藤織枝(1997)『女のことばの文化史』学陽書房
  • 月火水の会(1984)『新聞の社会面に表れた女性たち』
  • ことばと女を考える会(1985)『国語辞典のなかの女性差別』三一書房
  • 鈴木睦(1989)「いわゆる女性語における女性像」神戸大学「近代」発行会第67号、1-17
  • 鈴木睦(1993)「女性語の本質-丁寧さ、発話行為の視点から-」『世界の女性語・日本の女性語』日本語学臨時増刊号、明治書院.
  • 寿岳章子『日本語と女』(1979)中公新書
  • 高崎みどり(1994)「ことばから引く日本の女性の「今」辞典」、『ことば』15号 28-35.
  • 中村桃子(1995)『ことばとフェミニズム』勁草書房
  • 中村桃子(2001)『ことばとジェンダー』勁草書房
  • 福田真弓編著(1993)『「主人」ということば:女からみた男の呼び方』明石書店.
  • メイナード・K・泉子(1993)「アメリカ英語」『世界の女性語・日本の女性語』日本語学臨時増刊号、明治書院.
  • メディアの中の性差別を考える会(1991)『メディアに描かれる女性像』桂書房
  • れいのるず秋葉かつえ・永原浩行編(2004)『ジェンダーの言語学』明石書店

<英語>

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  • Usami, Mayumi (2002) “Discourse Politeness in Japanese
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(宇佐美まゆみ うさみまゆみ 東京外国語大学大学院教授)

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