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学会誌5号:論文5(松元)

ジェンダーからみた中学国語教科書
―教科書が伝える男女観と未来像―

松元敬子

要約:   本稿は、戦後の中学校の国語教科書をジェンダーの視点から検証したものである。国語教科書の教材の内容分析から、どのようなジェンダーイデオロギーが伝えられているのか調査を試みた。その結果、中学校の国語教科書は言語教育の傍ら、ステレオタイプ的な男女観を描き、子供達に性別役割分業意識に基づく職業観・人生観の形成を促すメッセージを伝えていることが明らかになった。

キーワード:男らしさ、女らしさ、性別役割分業意識、職業観、人生観

1. はじめに

昭和26年度改定版中学校高等学校の学習指導要領には、国語科の目標の1として「教育の一般目標は何か」という問いが掲げられ、「教育基本法第一条(教育の目的)に示されているとおり、真に民主的な国民を育成するにある」と記載されている。教育基本法は「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示」し、制定されたものであるから、「民主的な国民」とは、憲法にその権利を保障されている国民のことであり、当然ながら「法の下に平等」である。また、この目標の2には、「中学校・高等学校の主要目標は何か」が掲げられ、「中学校教育の主要目標は三つある」とした上で「(一)個人としての能力を最大限に発達させること」とある。従って、国語教育は、性によって差別されることなく個人としての能力を最大限に発達させるために行われることが目標の一つということになっている。しかしながら、現実にはその内容は必ずしもそうではなかった。

本稿は、戦後の中学校の国語教育が、民主主義に基づいた男女平等教育という目的に反し、教科書に採られた教材を通して、男性社会の反映であるジェンダーイデオロギーをいかに伝えてきたかを検証するものである。

近年フェミニズム言語研究における国語辞典の分析は、男女の権力差の存在が潜在的な文化情報としてさまざまな表現を通して伝えられていたということを認識させてくれた。そうならば、学校の国語教育における言語習得の過程において、権威をもってかかわっているもう一つのものである教科書を通しても、子供達が性差別イデオロギ-を伝えられてきたことは十分に考えられることである。教科書が子供たちの人間形成に果たした役割は、その権威・信頼性においても、時代の思想・価値観を反映したその内容においても大きい。

教科書分析では、小学校の国語教科書についてはわりになされ、教材批判もなされているが、中学校の国語教科書についてはそれほど多くない。だが、子供たちが自らの性アイデンティティをつくりあげ、社会における自分の生き方を模索しはじめる思春期の中学校時代のほうが、むしろ性差別イデオロギ-を敏感に察知する時期であるし、またこの時期は、思想的に周囲の様々な影響を一番受けやすい時期でもある。従って、中学校の国語の教科書が男女についてのどのようなイデオロギ-を彼らに伝えていたのか検証してみることにした。

2.先行研究

「ジェンダ-の視点から教科書批判を試みたもの」に関しては、70年代に「婦人問題懇話会」や日教組婦人部などが教科書の中の性差別を調査しており、佐藤洋子著『女の子はつくられる』にも取り上げられている。

また、90年には、大脇雅子・伊東良徳他著『教科書の中の男女差別』がある。この中では、性別役割意識の形成により影響が強いと考えられた小・中学校の国語・社会・家庭科の3教科の教科書と道徳の副読本について、1985年~1989年検定済の中から市場占有率(シェア)などを考慮して選ばれたものが、いくつかの視点から検証された。その結果、1990年においても、まだまだ性別役割分業のステレオタイプが描かれ、「男らしさ」「女らしさ」の定型化された概念を植えつけ、助長する記述があり、早急な改善の必要があることが指摘されている。

最近では、佐竹(1999)は小学校国語教科書の分析を行ない、人称代名詞・感動詞・会話の文末表現などの調査の結果、教科書の中で描かれる性差が現実よりも大きいということを明らかにした。また、氏原(1997)は中学校社会科・公民の教科書、佐々木(1998)は高校英語の教科書、中山(2001)は高校家庭科の教科書をジェンダ-の視点からそれぞれ分析して、まだまだ教科書に性別役割分業にもとづく男女像や、ステレオタイプ的な男女像が見られることを明らかにしている。特に、教科書を時系列に沿って、その歴史的変遷を考察した氏原は、「1975年の国際婦人年をきっかけとした社会でのジェンダーをめぐる動きをうけて、78年以降は顕在化カリキュラムでは、性別役割分業を打破する流れが支配的である」が、この流れは「作文などに描かれる、働く父親と家庭内役割にたずさわる母親の姿によって相殺される」ため、結局、読み手の生徒にとってはせいぜい「男性は職業に就き、女性は職業と家庭内役割を両立する」といった程度でしかないと指摘している。また、公民教科書では、性別役割分業を打破することだけを、男女平等を目指す動きとして位置付けるにすぎなく、人権としての男女平等の問題は、性別役割分業を打破する試みに矮小化されているという。他方で、女性と職業に関する記述の変化や写真・挿絵の被写体に大人の女性の割合飛躍的に増大したことなどから、正統な文化の担い手を男性とするメッセージは薄らいできている、と分析している。

3. 分析の視点

教科書の内容が、男女の別を意識させ、性別役割分業を当然視するものであれば、学校教育はこうした価値観の形成を助長し、それによって、その後の女性のライフスタイルは少なからぬ影響を受けてきたのではないだろうか。実際、日本の女性の就労状況は、M字型雇用曲線が示すように、育児期には仕事をやめて子育てに専念するというパターンが多い。育児期女性の就労継続・退職に影響を及ぼす女性自身の心理的要因を調査した埼玉県共同参画推進センターの研究(注)によると、仕事を続けるか退職するかを決める最大の要因は、伝統的家族役割観をもつ夫や夫の親からの重圧であるという。しかし、(物理的事情は別として)女性が退職を選ぶ心理的背景には、夫が妻の育児役割を当然視するだけではなく、妻の側にも育児は女性の仕事とする性別役割分業意識が浸透していることも考えられる。従って、価値観の形成の重要な時期である中学生に、教科書が男女をどのような人間関係の中で提示しているかは大きな意味を持つ。

以上のような視点から、中学校の国語教科書においては男女がどのように描かれ、その内容からどのようなジェンダーメッセージが伝えられていたのか、特に次の点について検証し、考察を行うことにした。
 (1) 女らしさ・男らしさの区分け (2)職業観・人生観  

4. 調査資料

中学校国語の教科書。1959年(昭和34年)から2002年(平成14年)まで、学習指導要領が変わるごとにその適用年間の中から1カ年ずつ計6カ年分。シェア上位3社の中学1年から3年までの教科書合計54冊について調査した。
調査資料とそれらが準拠する学習指導要領との関係は以下の通りである。

分析の対象とした教科書 準拠指導要領
1959年
(昭和34)
三省堂   中学校新国語 改訂版一・二・三
学校図書  中学校国語一上下・二上下・三上下
大修館   新中学国語総合新訂版一上下・二上下・三上下
中学校高等学校 学習指導要領
昭和26年度(1951年)改訂版
適用 1953~1961
1967年
(昭和42)
光村図書  中等新国語一・二・三
三省堂   現代の国語中学1・2・3 
学校図書  中学校国語一・二・三 
中学校学習指導要領
昭和33年(1958年)告示
適用 1962~1971
1975年
(昭和50)
光村図書  中等新国語一・二・三
三省堂   現代の国語最新改訂版1・2・3
学校図書  中学校国語一・二・三
中学校学習指導要領
昭和44年(1969年)告示
適用 1972~1980
1984年
(昭和59)
光村図書  国語一・二・三
教育出版  改訂中学国語1・2・3
三省堂   現代の国語中学1・2・3改訂版
中学校学習指導要領
昭和52年(1977年)告示
適用 1981~1992
1993年
(平成5)
光村図書  国語1・2・3
教育出版  新版中学国語1・2・3
三省堂   現代の国語1・2・3
中学校学習指導要領
平成元年(1989年)告示
適用 1993~2001
2002年
(平成14)
光村図書  国語1・2・3
三省堂   現代の国語1・2・3
教育出版  改訂中学国語 伝え合う言葉1・2・3
中学校学習指導要領
平成10年(1998年)告示
適用 2002~
5. 教科書分析
(1)男らしさ・女らしさの区分け
① 性格
 女性とはこういうもの、男性とはこういうものという男女の性質についての記述が以下のように見られた。
 女性について
・ 内弁慶のくせに(59年三省堂中1)
・ (自己紹介の文で)気が小さくて話すことが嫌いです(59年学図中1上)
・ (クラス討論で、目立ちたいためにむちゃな行動をした男子生徒について「勇気があって頼もしい」と発言し た女生徒に対して、別の男子生徒が)
「女の立場から見ると、そういう気持ちがわくかもしれないな。一種の英雄崇拝主義ですね」(59年学図中3上)
・ 女の人の会話を聞いているとまわりくどいことが多い(59年大修館中1上)
・ しくしくと泣き出す(67年三省堂中1)
・ (公園に忘れた水筒をひろってもっていった飯場のおじさんのところへ)こわくてとりにいけない(67年三 省堂中1)
・ 女のくせに大きい口でさあ(67年三省堂中2)
・ うるさいなあ、女の人って。(67年光村中2)
・ (兄は)女のような性分でずるいから(75年学図中2、84年三省堂中1)
・ (自分は幼い頃)ひっこみ思案で泣き虫で泣かされてばかりいた(84年光村中1)
・ あき子は突然はげしく泣きだす。そうした行為による非難と抗議の仕方に…(84年光村中1)
・ 女の子というものが、男の子とはちがって、ひどく痛みやすい感情をもっているものだということに気づい た。男の自分などが想像もできないほど繊弱な、まるで鳥の産毛のような傷つきやすい心を女というものはもっているのである。(84 年光村中1)
・ 朝から体の調子が悪くヒステリ-ぎみだった日(84年教出中1)
・ (女の子はままごと遊びの中で)自分自身がおかあさんになりきってしまったと感じることで幸福な気分にな る(84年三省堂中1)
・ 物を作っている時間、それはわたしの生活の中で最も満ち足りた時間です。例えばワンピ-スなどを作ってい るとき。(84年三省堂中2)
・ 今まで自分は「消極的」であった。これからは「積極的」に参加するよう努力する。(93年光村中1)
 男性について
・ 男の子は乱暴なので(67年三省堂中2)
・ 男の子は甘くしてはいけませんからね(75年学図中1)
・ よほど男らしい毅然としたところがあって立派だった(84年光村中1)
 
② 適性
 女性について
・ 女の子は女学校だけでたくさん(67年三省堂中2)
・ 私には学問のお話はちっともわかりませんわ(67年三省堂中3) 
・ 根気がよくかなり細かい仕事でもあきてしまうということがありません。だから学校の勉強の中でも、技術家 庭などが大好きです。(67年光村中1)
・ 科学の本や雑誌を見るのが好きで暇があると読んでいる(75年光村中1)
・ (女生徒が自分の読書歴について語っているとき)わたしは、科学的な見方や考え方をするのが得意なほうで はないのですが…(75年学図中1)
・ クラブは文芸部か美術部かまよう(67年三省堂中1)
 男性について
・ おとうさんは理学者だのにどうして国語が好きなの?(59年三省堂中1)
・ 機械いじりが好きで、クラブは科学部か珠算部(67年三省堂中1)
・ 日ごろおうちゃくな男子(67年三省堂)
・ とうちゃんは、海に生きるりっぱな漁師なんだ。心から仕事を愛する海の男なんだ。(75年光村中2)
・ 冬になると、わたしの家では男だけがする仕事が一つだけあった。まき割りである。(93年三省堂中2)
 
いずれも、ステレオタイプの男女の性格や適性を正当化するメッセージとして生徒の心に届くのではないだろうか。
 
③ 作品の扱いの対比
同じ単元で、同じ箇所で生徒に作文を書かせたものであるのに、男子生徒は社会的なもの、女生徒は家庭に関するものというように内容が不釣合いになってい るものがある。これは、男は社会、女は家庭という性別役割分業のメッセ-ジを伝えるものである。
 
例1 67年 「発表会」(学校図書中1)
ここでは、男女2人の生徒作品があげられている。女子は「カレ-ライス作り」であり、男子は「実験動物について」となっている。男は仕事、女は家庭とい う考えに沿ったテ-マになっている。
 
例2 67年「夢を語る」(光村中3)
次の「未来像」例1であげるように、社会で活躍する未来を描く男子生徒と、主婦になる未来像を描く女子生徒には極端な対比がある。
 
例3 93年 「伝える」(光村中1)
ここでも、男女2人の生徒作品の内容が、対照的である。
 
女生徒は「ボランティア活動に参加して」という題で、福祉センタ-へ行き、おむつたたみをした体験が書かれている。それに対して男子生徒は「ファ-ブル 昆虫記を読んで」という題の感想文になっている。
 
(2) 職業観・人生観 
①    作中人物の職業の種類
 作中人物の職業は、男性と女性でかなり異なっている。

 いずれも、ステレオタイプの男女の性格や適性を正当化するメッセージとして生徒の心に届くのではないだろうか。

③ 作品の扱いの対比
同じ単元で、同じ箇所で生徒に作文を書かせたものであるのに、男子生徒は社会的なもの、女生徒は家庭に関するものというように内容が不釣合いになっているものがある。これは、男は社会、女は家庭という性別役割分業のメッセ-ジを伝えるものである。

例1 67年 「発表会」(学校図書中1)
ここでは、男女2人の生徒作品があげられている。女子は「カレ-ライス作り」であり、男子は「実験動物について」となっている。男は仕事、女は家庭という考えに沿ったテ-マになっている。

例2 67年「夢を語る」(光村中3)
次の「未来像」例1であげるように、社会で活躍する未来を描く男子生徒と、主婦になる未来像を描く女子生徒には極端な対比がある。

例3 93年 「伝える」(光村中1)
ここでも、男女2人の生徒作品の内容が、対照的である。

女生徒は「ボランティア活動に参加して」という題で、福祉センタ-へ行き、おむつたたみをした体験が書かれている。それに対して男子生徒は「ファ-ブル
昆虫記を読んで」という題の感想文になっている。

(2) 職業観・人生観 
①    作中人物の職業の種類
作中人物の職業は、男性と女性でかなり異なっている。

  男性 女性
59年 動物学者、先生、理学者、科学者
医者、乾物屋、くつみがき、小使
船頭、絵描き、馬子、こっとう屋
弁護士、和尚、役人、農夫、学者
科学者、女中、中学校の先生
読書相談係、農業、産婆、作家
67年 天文学者、司教閣下、発電所勤務
医者、飯場の作業員、郵便局長
パン屋、肉屋、皮なめし屋、指物師
左官、錠前屋、機械工、小使、大工
教師、裁判所の書記、鉄道の線路番
魚屋 漁師、問屋の主人
作家、下宿屋の女主人、看護婦
料理屋の主婦、博物館勤務
75年 会社員、鷹匠、漁師、パン屋、医者
トラックの運転手、薬屋、サ-カスの人
船員、坑夫、作家 海軍士官、先生
アナウンサ-、放送記者、警察官
農業、先生、看護婦
84年 小使、禦者、船乗り、言語学者
民俗学者、曲物師、教師、駅員
探検家、医者、酪農家、昆虫学者
保険会社の支店長、製麺所経営
下女、農業、養蚕、学校の先生
駅の売店の人、魚売り、
染織家、看護婦、果物屋
日本語教育学者
93年 大学の仏文科教授、先生、修道士、
書生、バスの運転手、乾物屋、農業
マネ-ジャ-、映画監督、弁護士
宮大工、飼育係、古道具屋、医者
探検家、サ-カス、商社員
先生、お手伝いさん
絵本作家、看護婦、
アイスキャンデ-売り
空中ブランコのり
ニュ-スキャスタ-
02年 小学校の先生、美術の講師、機関士
絵師、修道士、歌舞伎役者、写真家
パイロット、土工、洋服の仕立て職人
天文学者、鉄道技師、ジャ-ナリスト
写真記者、社会学者、詩人
日本語の先生、医者、作家
アイスキャンデ-売り、添乗員
レストランの料理人、翻訳家
修道女、看護婦、劇作家、歌人
家具道具史研究家、言語学者

 

特徴的なのは、59年の教科書には男女平等の理念が息づいているように仕事を持つ女性が登場しているのに、それ以後は極端に減ってしまうことである。男性はいろいろな職業の人物が登場するが、75年までは女性の職業は少ない。性別役割分業を要請した時代の反映であろうが、こうした作品で教育を受けた生徒達にとっては、職業をもつ女性のイメージは描きにくかったのではないだろうか。だがまた84年から女性の職業の種類は増えている。このことは女性が社会で活躍し、生き方が多様化してきた様子を伝えている。

② 未来像
60年代は高度成長期にあたり、企業戦士と専業主婦という組み合わせの家族モデルが急速に広まった。67年の教科書には、先の「中学校教育の主要目標」の「(二)よい公民としての発達を含めて、望ましい方向へ社会人として最大限に発達させること」を、社会の要請に合った国民の育成と解釈したかのように、男は社会に出て仕事、女は家庭という性別役割分業観がもっとも色濃くでている。特にそれは未来像を語る女性徒の作文に顕著に表われており、将来は結婚して家庭に入り、母親として子供を育てるということを当たり前のように受け止めて人生を考える女性徒の姿が描かれている。その一方、男子生徒の未来像は職業像として描かれている。しかしながら、目標の3番目には、「(三)職業及び経済生活における能力を最大限に発達させること」とあり、その意味には「各人の素質と興味とに従って職業を選択する能力」と記されている。目標はあくまで個人の素質に合った能力を伸ばすことであって、性によって制限されるものではないはずである。

75年、84年はこれほどまで極端な対比はないもののやはり性別役割分業観が男女の家庭役割や文学作品の中の人物描写などから伝えられている。ところ<が、85年に国連の「女子差別撤廃条約」を批准したことから、政治的にも具体的に女性差別を廃止する政策がうちだされるようになると、教科書の内容にも大きな変化が見られるようになる。その後の89年の指導要領に準拠した93年の教科書ではジェンダーメッセージは大きく変わる。社会で活躍する女性、しかも日本だけでなく世界でも活躍する女性が取り上げられ、自信と充実感もって生き生きと働く姿が伝えられている。また、女らしさ・男らしさという分け方ではなく、一人一人の違いを大切にしようというメッセージも伝えられている。しか  しその一方で生徒作品や小説にはまだ性別役割固定観を反映した扱いが見られる。

2002年には、男女という性別による役割固定観は消えている。逆に、女らしさ・男らしさの区分けに疑問を投げかけ、性別にとらわれず、お互いを尊び合い、一人一人が人間らしく生きていくことが大切というメッセージが伝えられている。
 以下に、実際の教材の例を見ていくことにする。

例1.67年「夢を語る」(光村中3)
 自分の将来や抱負について書かれた男女2人の生徒作品には、極端な対比が見られる。

a.女生徒の作品は、「わたしの未来像」と題して次のように書かれている。

 わたしは、幼いときから、おとなになったときの自分の姿をいろいろに思い描いてきました。その、自分の未来の姿は、たぶんにおとぎ話的要素を含んだ、たわいのない、夢か幻のようなものでした。しかし、今、中学校の最終学年の、それも最終の時期にきて、わたしの描く夢は、ずっと現実的に、つまり、実現可能の形に引き締まってきたように思います。それは、今のわたしにとって、思い描いて楽しむだけの世界ではなく、ぜひとも実現したい願いのようなものになってきています。

そして、彼女の単なる夢物語ではない現実的な未来像は何かというと、

 何年か、あるいは何十年か先のわたしは、たぶん看護婦兼母親になっているでしょう。わたしの夫は、どこか、おそらく地方の小さい町の静かな郊外で、小さな医院を経営しているでしょう。わたしは、その信頼できる片腕として働いています。-中略-
 元気のよい、若竹のようにすくすくと伸びた男の子と、やさしさの中にしっかりした心根を持った女の子、これがわたしの子どもたちです。
 人間の生涯にできることには限りがあります。特に、わたしのように特別の才能に恵まれない平凡な人間は、世を驚かすような大事業や、すばらしい発明・発見など、望んでもできない相談です。わたしは、自分の力の及ぶ範囲で、自分の最もよいと信ずる生き方をしたいのです。

何と夢のない、自分の個性・能力を自ら小さく萎縮させた文章であろうか。そもそもこの文には矛盾がある。はじめに、自分の将来の夢は中3になって、「おとぎ話」や「夢か幻のよう」なものではなく、「現実的に、実現可能の形に引き締まってきた」と書いているが、医師と結婚することや夫が地方で小さな医院を経営すること、男の子と女の子の2人の子供を生み分けて持つことは、自分の意志で実現可能なことだろうか。これこそ、「おとぎ話」「思い描いて楽しむ夢の世界」ではないのだろうか。ここで、「現実的に、実現可能の形」と思われるのは、「将来結婚して家庭に入り、子供を生んで家事・育児に専念しながら夫を支え、自分のできるだけの力で周囲の人々に役に立つ人間になる」という文脈だけである。ただ主婦になるというのではあまりにも現実的で夢も希望も感じられないが、医師の妻で看護婦ということで夢らしくなっている。しかし、看護婦兼母親とは言うものの、看護婦として社会で生き生きと働き、自己実現するというよりも、あくまで医師である夫を支える家庭の主婦としての姿が多く描かれており、それは自分自身の力で切り開いて行くような未来像ではない。しかも、看護婦なのに何故か「手早くてきぱきと調剤をしてあげる」などど書かれ、看護婦の仕事のリアリティ-がまるでない。そのうえ何故、女生徒に、「わたしのように特別の才能に恵まれない平凡な人間」と語らせ、「自分の力の及ぶ範囲で、自分の最もよいと信ずる生き方をしたい」とする生き方を「家庭の主婦」にするのか。ここからは、女生徒の未来を家庭の主婦に結びつけて考えさせ、その個性や才能を社会にとっては取るに足らぬものと思わせるイデオロギ-が伝わってくる。

b.それと対照的なのが、男子生徒作品「ぼくの人生設計」である。
 この中で作者はまず2人の友人の夢をあげる。

 関川君は農家の長男だ。いつか話が将来の自分ということになったときに、かれの言ったことばが忘れられない。―略―

かれは、「今の桑畑を、人手がかからなくて収益の高い、くりの果樹園にすることや、すぐ近くのO市を市場に、都会向けの蔬菜を作ることや、新しいくふうのビニ-ル-ハウスを作ることや、動力を取り入れて仕事の能率を上げることや、そのほかいろいろな計画をもっていること」を作者に語る。具体的で、実現可能なその夢に作者は「かれの目がきらきらと輝いているのを見て、夢とはほんとうにいいものだな、と思った」と感動する。

それに対して、もうひとりの会社員の息子である友人は、「ぼくは、将来、アルゼンチンに行くんだ。」と宣言していてこう語る。

ぼくは、将来、きっと南米に移住する。あの、見わたすかぎり草原の続く南米こそぼくの活躍する舞台だ。狭い日本がいやになったからではないんだ。ぼくは、なんにもないところから始めて、すべて自分の頭と、自分の力で作りあげてみたい。ぼくは、これほどすばらしいことはないと思う。男と生まれたからには、たとえ失敗するとしても、ぜひやってみたいんだ。

この荒唐無稽とも思える夢も、彼が大まじめに南米の事情を研究しているらしい様子を見て、作者は「ぼくは、かれを見ていて、大きな夢をいだくだけでなく、その夢を追って、たえず情熱を燃やし続けることが、ほんとうにだいじなんだなと、つくづく考えさせられる」と評価する。

そして、作者自身の夢はというと、「小さいときには、科学者というものにあこがれをいだ」き、「自分はノ-ベル賞をもらうような偉大な科学者になるんだと思い込んでいた」が、それは「ただ『有名な』ということだけにあこがれていた」だけで、ものの道理をわきまえるようになった今では、「自分のめざす目標は、「意義のある仕事」でなければならないということがわかってきた。」が「ぼくは『無名』でけっこうだ。ただし、自分で、生きがいがある、と思うことのできる仕事に、全力をあげて取り組みたい。」という。そして、「狭い土地に、たくさんの人間が住んでいるこの日本の自然を、高度の技術によって改造し、すばらしい世界の楽園にしたい。これが、ぼくの夢である。」と語る。

女生徒の夢と男子生徒の夢のこの極端な違いは、これから夢をもって未来にはばたこうとしている女生徒たちに、不平等で可能性を無にされる社会への予感と失望感を与えたのではないだろうか。男子生徒にはそれぞれに合った活躍の場が社会に用意されているのに、女生徒にはその場がほとんどない。そして、特別な才能に恵まれていないのであれば、等身大の幸せを結婚の中に求めよと言わんばかりである。

また、「男と生まれたからには、たとえ失敗するとしても、ぜひやってみたい」という言葉には、「男は冒険がゆるされている」という、社会が認めた「前提」があることを意味している。語られない女には、冒険はゆるされていない。ここには、男らしい行為や女らしい行為を区分けする意識が表れている。

生徒作品とされているが、この2つの作品から伝えられるものは、「女は家庭、男は社会で活躍できる仕事」というジェンダ-イデオロギ-である。個性よりも性別が未来像を決める大きな要因になっている。

教科書では、この作文のあと「実際に書いてみよう 右の作文を参考にして、めいめい自分の「夢」を書いてみよう。そして、できたら、みんなの作文を集めて、卒業記念の文集を作ってみよう」とある。このような作文を参考に、卒業文集を書かされたであろう生徒たちの心に与えた影響はどれほどだったであろうか。

例2.67年「わたしたちの論集」(学校図書中3)
この中の女生徒の作品とされている「美化運動について」では、次のような話が描かれている。

夕食の買い物をするおかあさんたちで、商店街は忙しそうである。そこへ、ちょうどまだ小学校にもあがっていないらしい5つぐらいの女の子がふたり菓子屋からでてきて、今買ってきたばかりのキャラメルの包装をはがしはじめて、赤いスカ-トをはいた子が道へなんの悪気もなく捨てた。すると、もうひとりの子がそれを拾い、自分のといっしょに道ばたに設置してあるごみ箱に入れた。そうしてこう言った。「この前ね、おかあちゃんがそう言ったの。『ごみを道に捨てちゃいけない』って、『ちゃんとごみ箱へ入れなさい』って。」

 それを見ていた筆者は、

わたしも将来いつかは母になる。そうしたら、きっとりっぱな母親になろう。そうして、あの子のようなしっかりしたこどもに育てよう。そう決心した。

と書く。「りっぱな母親になる」や「しっかりしたこどもを育てる」といった言説は、戦前の軍国の母をつくりあげた教育を思い出させる。母親のいいつけを守って、ごみをごみ箱に捨てた子供を見て、何故女生徒が、その子供の母親に自分の将来を重ねる連想をするのだろう。2つの文脈は一見自然そうにみえるが、よく考えてみると実は不自然な意図を感じざるを得ない。等身大の中学生の感覚からずれているような違和感がある。女生徒を未来の母親に結びつけて、道徳教育をするような作為を感じざるを得ない。

例3.67年「7.自分の立場に立って  自分の世界」(光村中1)
ここでも、「自分の世界」と題する女生徒の作文は、自分の将来について夢のない、現実に束縛される姿を描いている。         

将来については、何回か先生に尋ねられましたが、まだはっきり決まっていません。それは、わたしの前には2つの道があるからです。高校に行く、というのと、家で農業をやる、というのとの二つの道です。

祖母と母は、家に残って農業を手伝い、あとは洋裁を習ったり、編み物を習ったりしてはどうかと言います。父も迷っているとみえて、
「おまえを高校へ行かせるくらいの金はあるのだから、なるべくやりたいのだが、やっぱりかあさんひとりに働かせることはできないからなあ…。」
父は発電所に勤めていますので、母が、四十いくつにもなって、ひとりで農業をやらなければなりません。とすれば、母にひとりで田畑の仕事をさせておいて、自分は高校に進むということは、やっぱりわたしにはできないように思われるのです。

戦後「ベビ-・ブ-ム」の世代が高校進学を迎える60年代に入ると、「15の春を泣かせない」とのかけ声のもと、「高校増設・希望者全員入学」の運動がおこり、高校進学率は年々増加していった。一方、社会においては、第一次産業就業者の著しい減少に見られる農業従事者の激減という産業構造の変化がおこっていた。すでに高校進学率が70%を超え、さらに上昇しつつあった67年当時にあって、何故このような時代と逆行するような、家にしばられる少女の未来像を例示しているのだろうか。

例4. 67年 「姉妹」 (畔柳二美作 三省堂中2)
これは、北海道の山の中の発電所の社宅から札幌の叔母の家に下宿して裁縫女学校へ通う姉と、女学校へ通う妹の2人の姉妹を中心とする父母・弟3人の家族の物語である。家庭での出来事を描いているが、ここでジェンダ-に関する気になる表現をひろってみると、まず、おばの発言がある。おばは、女学校へいく妹が英語の勉強をしているのを見て、「おおよそむだだあね。圭ちゃんの学校(姉の裁縫学校)はそれから見ると家庭的で、もう何枚着物を仕立てたか数えきれやしない」と、姉の実用的な技術の習得を認め、妹の勉強に無理解で否定的な意見を述べる。ここには、「女に学問は無用だ」というイデオロギ-が現れている。

また、次女と母との会話で、次女が「女子大へやってよ」というのに対して、母は、「ねえさんが学校をでたら嫁入りのしたくをしなければならない。それから弟3人を中学から大学までやらなければならない。女の子は女学校だけでたくさん。この村から女学校へいくのは毎年3~4人。上を見ればきりがない。下を見てわが身のしあわせを感謝するものだよ」という。そして、父の給料を一升の水にたとえて、月給取りの生活はその分配をいかにじょうずにするかで安定がでると説得するのである。

この作品は、1955年に出版されたものであるが、作者は明治45年生まれで、「女学校」という言葉からもわかるように、作品の時代背景は戦前である。戦前の「女に学問は無用」「学校をでたら嫁入り」「男の子は大学までやらなければならないが、女の子は女学校だけでたくさん」といったジェンダーイデオロギ-を伝える作品を戦後民主主義の男女平等教育の中で何故とりあげているのだろうか。文学作品として教科書に載っていたら、生徒はそれほど昔の作品とはとらえず、同世代の主人公の気持ちを理解しながら読むうちに、このイデオロギ-をその時代のものと錯覚して受け取る可能性もある。事実、67年当時は地方ではまだまだ世間にこのような空気は残っており、こうした見方を現実の自分を取り巻く世の人々の考え方と受け取る可能性は十分にあったのである。

例5. 84年 「ヒサとマツ」 (中野重治 三省堂中3)
これは、「奉公」に出されようとしているヒサという女の子を描いた作品である。しかし、すでに高校進学率は 90%をとうに超え、大学・短大への進学率も全国平均37%台という時代にあって、時代に合わない女性の姿を描いた教材という思いは否めない。

ところが、93年では、ガラッと様子が変わった印象を受ける。性別に関係なく、自分の個性にあった未来像を描く教材が見られるようになる。

例6.93年 「表現1どうぞよろしく 将来の夢」(光村中1)
ここでは、「わたしは庭師になりたいと思っています。」と女生徒がジェンダーフリーの職業観を表明する。父親は大きな庭石をはこんだりしなきゃいけないから無理だといい、設計士になれとすすめるが、これに対する作者の答えは、「いやだ」である。それまでの女らしさの枠にはまらない職業を選び、自分の将来の夢をはっきり示し、反対意見にも毅然と意思表示する姿は以前と比べると大きな進歩である。

わたしは、なにがなんでも庭師になりたいのです。机に向かって図面を引くだけでなく、木や石にふれ、対話しながら庭造りをしたいのです。わたしでも努力
と工夫できっとできると信じています。

と結んでいる。

例7.93年「未来を見つめて 一歩前進」「無医村の優しい人々」(教出中3)
これら2つの作品はともに女性が仕事を通して社会とかかわってゆく様子を描いたものである。

「一歩前進」は、女生徒が教師になる夢を持ち、「よし、父が果たせなかった夢をわたしが実現するぞ。」と決意を語る。それに対して父親は、「いい先生になってや。」と応援するものである。

「無医村の優しい人々」は、シュバイツァ-にあこがれて看護婦になった女性が、青年海外協力隊に参加し、パラグアイの無医村で、現地の人々の医療のために自分自身の力を発揮して現地の人々と生活をともにした日々を描いている。
 この教材の目標には、「筆者の実体験にふれ、世界への視野を広げる」とある。
 これらは、67年の教材とうってかわって、女生徒に、夢の実現を可能にする社会が眼前に広がっていることや、自分自身の力で切り開いてゆける将来への展望を抱かせるメッセ-ジを伝えている。

6. 結論

国語の教科書は、言語教育を行なう一方で、ステレオタイプの男女像を描き、性別役割分業のイデオロギ-を伝えてきたということが明らかになった。以上を
まとめると次のようなことが言える。

(1) 教材の内容が、性別役割固定観を反映していた。
 家事分担や職業観、生徒たちの未来像などに性別役割固定観が表わされている。同じ単元で同じテ-マで男女生徒によって書かれている作品の内容が、性別役
割分業の考えを反映して、男女で不均衡なものになっているものがある。
(2) 男らしさや女らしさの固定観念、性格や能力について生まれながらに決まっているかのような記述があった。
(3) 93年からは変化がみられ、2002年には、性別よりも個性を重視している。
 ①以前とは逆に、男らしさ・女らしさの固定観念に疑問を投げかける教材が採用されている。
 ④古い価値観を反映した作品はなくなり、かわりに自ら主体的に考え、批判精神を養うような教材がでてきている。

7. おわりに

今回の調査で、男女平等のもとで個人の能力を最大限に発達させることが教育目的であるはずの国語の教科書は、その教材を通して男女不平等な性別役割固定意識をつくりあげるイデオロギ-を生徒の心へ発信していたことが具体的に明らかになった。たとえ文学として高い評価を受けた作品でも、過去の時代に書かれたものはその時代の社会思想と無縁ではない。明治や大正、昭和の初期の文学作品は男女不平等を当たり前とする社会の中で書かれたものであり、作品に時代思想が常識のように書かれている可能性がある。

だが、未来に生きる子供達には社会の成熟に見合った価値観が身につくような教育を考える必要がある。社会思想は、時代と共により多くの人が幸福になれる社会の方向へとたえず進化している。それゆえ、過去の時代の文学作品は十分に吟味して、人を差別したり、貶めたり、可能性を封じ込めたり、未来への夢をうような表現がなされているものは、教材として採用しないでほしいと思う。もちろん過去の作品で優れたものもあるが、この点に関して十分な配慮・検討が望まれる。いつ、誰によって書かれたものであっても、人間の尊厳を傷つけ、人権を侵害するような思想の含まれたものは教材として取り上げてほしくないと切に思う。          

子供たちには、未来に夢を抱き、自分自身の力や可能性を信じ、お互いを人間として尊重しあい、共存できる社会をつくっていくための心を育てるような「感情」や「感動」が伝わる作品で学んでほしい。歴史や社会についての認識が不十分で、アイデンティティの形成期にある子供たちに、大人の判断力が必要とされるような読みものを与えて、良くない影響を与えるのはやめてほしいとつくづく思う。これまでは、教材が何を伝えているかについてあまりに無自覚だったのではないだろうか。      

(注)育児期女性の就労中断に関する研究」with youさいたま埼玉県共同参画推進センター 平成14年

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(松元敬子 まつもとけいこ 武蔵浦和日本語学院)

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