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学会誌3号:年次大会基調講演(中村)

 【日本語ジェンダー学会第2回年次大会基調講演】

言語とジェンダー研究

中村桃子

「言語とジェンダー研究」という分野名

本日はお忙しいところ多数お集まりいただき感謝しております。それぞれ第一流の専門をお持ちの先生方と興味を分けあえる機会を与えられたことをありがたく感じております。今日は、「言語とジェンダー研究」という分野について簡単にお話しいたします。

まず分野名についてですが、「言語とジェンダー研究」という分野名が確立しているわけではありません。ただ、私は、この分野を広めたいと願い、この名称を盛んに使っています。英語だと、“Language and Gender Studies”です。「と」が入りますし、分野名としては長すぎるので、もっと良いコンパクトなものがあれば広まるかと思うのですが、分野名が決まっていないと、なかなかたくさんの方に興味を持ってもらえないのではないかと思って、「言語とジェンダー研究」という言葉を使っています。

分野名を見て気づかれると思いますが、この分野というのは言語とジェンダーの関係を研究する分野だということです。ところが言語という概念も、ジェンダーという概念もなかなか一筋縄では行かない概念なのです。会場にも専門家の方々が多数いらっしゃいますが、各々の方が「言語とはなんぞや」と聞かれたときに思い浮かべるもの、「ジェンダーとは何ぞや」と聞かれたとき思い浮かべるものは、同じものもあるでしょうが、異なる部分も多いと思います。

これは、決めなければいけないというものではないと思いますが、しかし、研究を進める上で言語とはどういうものと捉えているのか、ジェンダーとはどういうふうに捉えているのか、ということを各々の研究者がしっかりと押さえて研究をしないと、せっかく集めた貴重なデータやその解釈などが、舌足らずなことになってしまうと思います。各々の方が、ジェンダーをどういう概念と捉えるのか、この点を考えて研究を始めるのが、非常に大事だと思います。私自身、言語に関しては言語学や社会理論から、又、ジェンダーに関しては特にフェミニズム理論から多くのことを学んできました。

言語をディスコースとしてとらえる

午前中の研究発表では語彙レベルの話が多かったのですが、私の話はディスコース(Discourse)についてです。私がジェンダーとの関わりで言語を考えるときに、言語をディスコースという概念で捉えたいと思います。ディスコースにもいろいろな概念がありますが、私が扱っている言語学とは別に、近年の社会理論の中で扱われているディスコース概念は非常に重要と考えています。

また、「ジェンダー」ですが、これは、いろいろな意味で使われています。先日ある新聞の座談会の中で「これからはジェンダー的なことにも注意を払わなくてはいけない」と言っていました。おそらくその方は「ジェンダー」という言葉をフェミニズムと同じ意味で使っていると思われます。フェミニズムというと社会的にいろいろと偏見があって「わたしはフェミニストです。」というとそれだけで、炎の女というような怖い女と構えられてしまうので、ジェンダーと言い直している部分も一般社会ではあります。

フェミニズム理論から学ぶことの大切さ

今日の話では、構築主義に基づくジェンダー観についてお話ししていきます。それはもちろんフェミニズム理論の発展に負っている概念です。

この日本語ジェンダー学会においては、フェミニズムという言葉を聞く機会は少ないのかもしれませんが、私たちが、ジェンダーを研究したいのであれば、ジェンダーを専門に発展してきたフェミニズム理論から学ばないのは、非常にもったいないことだと思います。

「私はフェミニストではない」、「私は差別のことはやらない」という発言をしばしば聞きますが、私たちは、学問的理論として相当年数を経て確立しているフェミニズム理論から、多くを学べるのではないかと思っています。学ばないともったいないと思います。フェミニズム理論はどんどん発展し、新しいジェンダー概念・解釈が生まれているのに対し、言語とジェンダーの関わりでは、いつまでも旧態依然とした「男対女」といったジェンダー観でやっているとなると、接点がないし、お互いが刺激し合えないし、ということでフェミニズム理論から学ぶことの大切さを今日は強調したいと思っています。

今日の話のポイント

では今日のレジュメの中に、「今日のポイント」という部分がありますが、そこを読んでみましょう。

私たちは互いにことばを使って関わり合う中で多様なジェンダー・アイデンティティーを能動的につくりあげている。

その時、性についてこれまで歴史的に「語られてきたこと」から作られたジェンダー・イデオロギーから制限を受けたり、それを利用したりしている。

私たちが多様なジェンダー・アイデンティティをつくりあげることは、今あるジェンダー・イデオロギーを再生産すると同時に、それを変革する場合もある。

お聞きのように、「ジェンダー・アイデンティティ」だとか、「ジェンダー・イデオロギー」だとか、カタカナの難しい言葉ばかりで、今、ざっと読んだだけでは、何を言っているのかさっぱりわからないという方がほとんどだと思います。

このような難しい言い方をしなければならないというのは、私の勉強不足が一つの原因でもありますが、こうした専門用語を把握しておくと、他の方の本を読んだときに、それを適用して、内容を理解できるという便利さもあると思います。

今日このあとの一時間くらいの講演が終わったあとで、この四角の中に書いてあることが、皆さまの専門に当てはめて、ああこういうことだったのかと分かっていただけるように努力したいと考えています。

今日の話の前半は、他の方々が研究してきたことについてお話しし、後半は私が提案している「言語とジェンダー研究」の「ダイナミックモデル」の話になろうかと思います。

ジェンダー概念の成立

まず、言語とジェンダーの中の、ジェンダー概念の変遷についての話から始めたいと思います。

ご存知と思いますが、初期の概念としては、性を表す「セックス」がありました。このセックスという用語は、生物学的な意味合いが強かった用語です。ところが、性について、いろいろ研究を続けていくと、性には社会文化的な面が非常に大きいのではないかということが分かってきました。これについては、ジョン・マネーらによる『性の署名』(朝山新一・朝山春江・朝山耿吉訳;人文書院)というすばらしい本があります。翻訳されていますので、ぜひ読んでいただきたいと思います。

彼らは、どのようなことをやったかというと、今でいう性同一性障害の方をカウンセリングしました。生物学的には男であるけれども女として生きていきたい、またはその逆もありますが、そういった患者さんのカウンセリングをしていました。

そのような人が相談に来た場合ですが、今までは、「あなたは体は男なんだから、女になりたいと言わないで、気の持ちようなんだから、男で生きていくと思えばそれでいいのだから、気にしないで生きていきなさい。」と言ってきました。

ところが、何人もの相談者と話をしているうちに、彼らは驚くべきことを発見したんですね。それは、たとえ自分の体にメスを入れて多額の手術代を払ってでも、ほとんどの人が自分の希望している、あるいは自認している性の方を選ぶということです。セックスを変えても自分がなりたいと思うジェンダーのほうを選ぶというのです。これは何を表しているかというと、ひとつは人間にとって性というのは純粋に生物学的なものだけではなく、多分に社会文化心理的な要素を含むということです。ジョン・マネーらはこのことを明らかにしてくれました。

その他、さまざまな研究を蓄積して、ジェンダーという概念が提案されました。この時点では生物学的なセックスと、社会・文化的なものとは違うものと考えられていました。違う側面を持っていると言うだけでも意義があったのです。

フェミニズムの重要なテーゼのひとつは、ジェンダーを私たちの生物学的身体から開放するということなので、その後ジェンダーに関する研究がずっと続けられてきました。

本質主義のジェンダー観

2番の本質主義のジェンダーについて話を進めます。これについてはたくさんの研究が積み重ねられました。もちろんその中には私たちが今でも参考にする社会言語学(ラボフやトラッドギル)の研究も含まれていますが、今、この時点でそれらの研究を振り返ると、本質主義のジェンダー観にもとづいていたというように総括できます。

本質主義のジェンダー観というのは、特に言葉に関してどのような特徴があるかというと、ジェンダーとは私たちの中に内在している属性であると考えます。だから本質であるということです。

私は生物学的には女というジェンダーを持って生まれてきたのですが、それだけではなく、その環境や成長の過程で女という性として、あるいは男という性としての立ち居振る舞いというようなものも学習してきました。生物学的にでも社会学習的にでもいいですが、ある人が、「女/男である」、「女/男の属性を持つ」と見なすものを本質主義的ジェンダーといいます。

本質主義のジェンダー観の第一の特徴としては、ジェンダー二項対立が挙げられます。これは、世の中には女というジェンダーと男というジェンダーと二つしかないという考え方です。初期の社会言語学におけるジェンダー研究では、女と男の言葉づかいはどのように異なるのかということを研究してきたわけです。100人なら100人の被験者をあらかじめ男と女に振り分けて、両者の言語使用を測定してその違いを比較して出して、なぜ、その違いがあるかという説明をするのに、片方は男だから、もう片方が女だからというように説明してきたわけです。

この二項対立、これは私たち一般の人の中にも根強くて、例えばこの前ベストセラーになった『女は地図が読めなくて、男は人の話を聞かない』、『男の脳と女の脳』とかいう本は、よく腑に落ちるし、好きなんですね。私も買って読みました。男はああで、女はこうだという説明の仕方は、私たちの腑に落ちます。このような、信念とか、宗教に近いような二項対立が私たちの頭の中にインプットされているということです。

二項対立にもとづいて、言葉に関してどのような研究がなされてきたかというと、男の言葉づかい、女の言葉づかいはどのように異なるかという性差の研究がなされてきました。言語的な性差とでもいいましょうか。

本質主義の二番目の特徴ですが、ジェンダーは属性であるという考え方です。それは、他の属性から独立して、私たちの言語使用に影響を与えるということになります。先ほどの男と女に分けた例についても言えますが、その人のジェンダーだけで、その人の言葉づかいを説明しています。言い換えれば、その人のジェンダーは、他のどの属性にも関係なく言葉づかいに影響を与えるということを前提に研究していることになります。

三番目は、一番目と二番目の特徴の帰結として、ジェンダーは、言語以前に存在していることになるということです。ジェンダー(属性)と言語使用の関係は、女だから、男だからこのような言葉づかいをするということになります。

これは、ジェンダーと言語との関係だけを抽出して、非常に単純化してまとめたときの本質主義の特徴です。本質主義については、現代社会学講座『ジェンダーの社会学』の中で上野千鶴子さんが詳しくまとめています。これは、最近『差異の政治学』(岩波書店)という題名の本になったと思います。

その後、この性の研究がどんどん進み、セクシュアリティの研究が進み、本質主義では性を説明できないのではないかという考えが出てきました。これが、このあと述べる構築主義です。

構築主義のジェンダー観

ジェンダーとは、理論的な構築物です。理論的な構築物とはどのようなものかというと、さまざまな社会的現象を説明するのに用いられる、便利な概念です。ですから、ジェンダー概念もフェミニズム理論の中で、さまざまに変遷してきています。これから先も、変わる可能性があります。みなさんの大きな貢献があれば、もちろん変わる可能性が大いにあります。

構築主義のジェンダーを、私は、ジェンダー・アイデンティティというふうに言い直しています。なぜなら、私たちが、言葉を使うことによって構築するアイデンティティだからです。私たちは、言葉を使っていろいろな人と関わりを持つなかで、自分のアイデンティティを構築します。ジェンダーは、その中の一部であるという意味を含めています。

なお、今日の話は、数十年に渡る複雑多岐な話をごく単純化し、分かりやすく説明していますので、骨組みを理解していただけたらよいかと思います。学習される場合は、原典に立ち返って下さい。Vivian BurrのIntroduction to Social Constructionism(邦訳あり)などが非常に分かりやすく解説しているので、これらの本を読んでいただけたらよいかと思います。

社会構築主義とは、私たちの常識、概念は、真理ではなく社会的につくりあげられたものであるという考えです。そうすると、ジェンダーも、各々の社会・文化の中でつくりあげられてきたものだと考えられます。

バトラーの構築主義ジェンダー観

バトラーの『ジェンダー・トラブル』では、クイアー(queer)の人たち、ホモセクシャルの人たちですが、その人たちの言葉づかいについて述べています。ホモセクシャルの人たちの言葉づかいを観察すると、たとえば、「お姉言葉」を使って、微妙なジェンダー、チャーミングなアイデンティティをつくりだしていて、非常に興味深いものがあります。

バトラーは、パフォーマティビティ(performativity)、日本語だと、「遂行性」でしょうか。私たちは、言葉だけでなく、服装、しぐさなどさまざまな媒体を使って、その人のアイデンティティをつくりあげていると提案しています。

パフォーマンス(演技ではなく)であるとすれば、ここで身体と、言葉を分離することができます。今までは、男だから男言葉、女だから女言葉を使うと考えていましたが、クイアー理論を研究することによって、男でも女言葉を使って「おかま」になる、女でも男言葉を使って「レズビアン」になる、私たちは身体と言語行為を切り離しているという画期的なことが明らかになりました。

バトラーの言ったもう一つの大事な点があります。

今までは「生物学的な性別であるセックスと、文化・社会的なジェンダーとは、分けられてはいたけれど、やはり結びつけられていた。」つまり、生物学的な男性は、社会に生まれたら、男性としての立ち居振る舞い、言葉づかいを学ぶ、あくまでセックスが基で、その後で、ジェンダーを学ぶと考えられていました。

しかし、性の研究が続けられて、生物学的な性別も、二項対立ではないということが、少しずつ明らかになってきました。人間の性別が決まるのは、生物学的に、染色体、ホルモン、内性器、外性器4つのレベルがあり、それは二項対立ではなく、それぞれ連続しているものであるということです。つまり、程度の違いであるということが分かってきたのです。

なぜ、二項対立なのかということが問われはじめたとき、これをバトラーは、次のように解釈しました。本当は、連続しているはずの生物学的な性を、なぜ二項対立で分けられるのか? それは、世の中に、二項対立のジェンダーがあるからなのだと説明したのです。この世の中に、二項に分ける考えがあるからこそ連続した性を男と女に分けることができるのだと考えたのです。つまり、社会・文化的なジェンダーの方が基であって、連続した身体は、ジェンダーにもとづいて、男と女に分けられると主張したのです。

構築主義については、上野千鶴子さん編集の『構築主義とはなにか』が、勁草書房から出ています。これは、言語に限らず、近代小説、少女雑誌の分析など、非常に興味深い内容です。

ジェンダーは多様である――構築主義のジェンダー観(1)

このような研究の発展に基づいた構築主義のジェンダー観を、言語との関わりだけにしぼって簡単に要約しますと、次の3点にしぼって特徴をあげることができます。ひとつは、ジェンダーは多様であるということです。今までは、男と女の二つの対立する非対称なジェンダーしかなかったのですが、さまざまなジェンダーがあるということが分かってきました。例えば、人種でも違いますね。私たちが、ヨーロッパなどに行くと、アジア人としてのアイデンティティを求められる。アジアのエキゾチックでチャーミングなセクシャルな女性としてのアイデンティティを求められるかもしれません。年齢によっても、異なります。おばさんの女らしさ、femininityというんでしょうか。おばさんのジェンダー・アイデンティティと、若い女性のジェンダー・アイデンティティも違う。職業によっても異なる。経済、階級によっても異なります。

ジェンダーは多様であるという指摘は、アメリカのブラック・フェミニストたちによってなされました。それまでのフェミニズムというのは、白人の中産階級の英語圏、ヘテロセクシャル(異性愛)規範中心のフェミニズムであり、「私たち黒人女性のフェミニズムではなかった」という批判があったのです。このような批判にもとづいて、その研究から、ジェンダーが多様であることが指摘されることになりました。

人種、年齢、職業、経済、階級、それ以外に言語行為を行う地域、時代、特定の集団の歴史、政治、社会的状況、さまざまな状況で千差万別、多様なジェンダー・アイデンティティが考えられるということが言われています。

そのために、今までこの分野は英語の研究を中心に発展してきたのですが、ここにきて、局所的、それぞれの地域、集団での研究が強く求められています。この学会のように、日本語に限定して研究なさることは非常に意義の深いことで、今、まさに求められていることだと思います。

多様性ということは、本質主義と対比して何を言っているかというと、一つは、二項対立としてのジェンダーを否定すること。もう一つは、女という集団を均質な集団と考えることを否定することです。今までの二項対立の世界では、男を「人間」と同一視しすることが多く、女は均質なものとしてつくりあげられることが多かった概念でした。これに対して、多様性ということは、均質な女という集団を否定することになります。

ジェンダーは変化する――構築主義のジェンダー観(2)

構築主義のジェンダー観の二番目の特徴は、ジェンダーは変化するということです。さきほど述べたさまざまな要因によって変化しますし、一日の中でも変化する。私が、大学で学生に教えているときと、スーパーで買い物をしていて店員に「奥さん安いよ!」と話しかけられるときでは違うわけですし、一生の中でも変化します。

ジェンダーは選択して構築する行為である――構築主義のジェンダー観(3)

三番目は、先ほど述べたパフォーマティビティ(performativity)ですが、大ざっぱに言えば、ジェンダーは属性ではなく、自分たち が能動的に選択して構築する行為であるということです。ジェンダーは、私たちが言語を使う以前にあるものではなく、私たちが、さまざまな物を使って能動的 につくりあげる行為であるということです。言語使用の後にジェンダーが来る、言語以前ではなく言語以降になります。

今までの本質主義的研究だとジェンダーが突出してしまい、女だからこういう言葉づかいをする、女だから丁寧な言葉を使って女性らしさを表すと言われまし た。しかし、もしかしたら、そのような言葉を使ったのは、年下だからかもしれないし、そういう場だったからかもしれません。女が特定の言語行為を選択する のは、常に「女という性」にもとづいているのではなく、いろいろな理由が考えられます。

ここで、「ジェンダー」を、私たちが能動的につくりあげるアイデンティティと捉えることができます。アイデンティティの一部です。この考え方にもとづい て、今では、同性愛者の言葉づかい」、「小学生、中学生の女の子の男のような言葉づかい」のような、敢えて規範を破るような行為が研究されています。これ が、新しいジェンダーを創造する行為と考えられるからです。

女性という集団に意味はないのか――構築主義の問題点(1)

ここまでは、この分野の発展をたどってきました。これ以降は、私自身の考え方をはさんでお話したいと思います。

私は、構築主義にも問題点があると考えています。主に三つの問題を挙げることができます。一つは、二項対立なジェンダーを否定し、ジェンダーは多様であ り変化するものだとすると、女性はどうなってしまうのか。女性という集団は、何の意味もなくなってしまうのか?「何故、私たち女性は、誰でも夜一人で歩く ことを怖がるのか?」という有名な論文を書いた人がいます。多様であるならば、現実の女性は一つの範疇に収まらないはずですが、これでは女が誰でもなぜ夜 に一人で歩くことを怖がるのか説明できません。

一般には、女性は弱く、重労働をさせられないと言われています。しかし、買い物、子育て、老人介護など、女性も力仕事を結構していると思うのですが、特定のイメージや評価をひとくくりに与えられてしまう、この女という集団が意味を持たなくなるのか?

これを解決するために、私は、概念(イデオロギー)としての女性と、現実の女性を分けたいと考えています。構築主義の、千差万別なジェンダー・アイデン ティティをつくりあげるのが現実の女性です。しかし、社会の中では、まだまだ、二項対立のジェンダーという考え方が非常に強いと思います。『話しを聞かな い男・地図が読めない女』がベストセラーになるなど、宗教というか、信念というか、まだ強い二項対立を強く支持する考え方があります。女性を均質な集団と 見る傾向が強いのです。

最近、テレビでインタビューを受けました。クイズ番組で、最近変わったと思われることというアンケートを行ったところ、第4位に、最近女性の言葉が荒っぽくなったという調査結果が出たということで、これに対して何かコメントをということでした。

インタビューの中で、私は、「女の人の言葉が荒々しくなったということは、200年前から言われている。本当に近づいているのであれば、とっくに男と女 の言葉づかいは同じになっているはずである。では、アンケートの結果が何を表しているかというと、これは、いまだに多くの人が、男と女が違う言葉を使うべ きだと考えているからこそ、女の人が荒々しい言葉を使うことに気がつく、気になる」事実を示しているものだと言いました。200年も経っていて、本当に女 性の言葉が荒々しくなっていて、男性の言葉がもっと荒々しくなっていたら、日本中がどなり合っていなければなりません。200年間も言われ続けていること は、どういうことかといいますと、男女平等と言われる日本の社会でも、いまだに多くの人が、男と女は違う言葉づかいをするべきだと考えているからこそ気が つくのです。このアンケートは「二項対立のジェンダー観にもとづいて、女と男の言葉づかいは違うべきであると考えている人が多いことのあらわれです」と説 明しました。

思ったとおり、このインタビューは、ボツになってしまいました。理由は明らかです。テレビのプロデューサーの期待していたコメントは、「女が強くなった、社会的に力をつけたので、言葉が荒々しくなった(こんなに男らしくなった)」というものだったのでしょう。

これは、私たちの中に、何度も繰り返しますが、男と女は違う(男と女の2種類しかないんだ)という考えがいかに強いかということを表しています。しかし、現実には、ジェンダーは千差万別、多種多様なのです。

女はいつでも、自由に言葉を使えたか――構築主義の問題点(2)

二番目に私が問題だと考えたのは、構築主義が、女たちは能動的に言葉を使ってさまざまなジェンダー・アイデンティティをつくりあげてきたと主張している 点です。今まで、抑圧された言葉の使い手と考えられてきた女性も、実は、太古の昔から、自由に言葉を使ってきたと認められたのです。女性が抑圧された言葉 の使い手という今までの考え方は見直さなければいけないといわれています。

しかし、本当に女はいつでも、自由に言葉を使えたかというと、ちょっと待って下さい。やっぱり、何らかの言語使用に対する制限があるのではないかと言い たいのです。特に日本語を使う私たちに対して、私が制限と考えているのは、「女ことば」という概念です。ふつう「女ことば」というのは、実際に女性が話し ている言葉づかいだと考えられています。しかし、私は、違うと考えているのです。「女ことば」を、一つの概念(イデオロギー)と考えています。この概念 は、先ほど述べた二項対立ジェンダー観と平行して、日本人が非常に強く持っているものです。これが、女が実際に行う言語行為に制限を与えていると考えてい ます。

これは、日本だけではないのです。Discourse & Societyという雑誌をご存じでしょうか? その雑誌の1998年9(2)に、エーリッヒSuzan EhrlichがThe Discursive Reconstruction of Sexual Consentで、大学のセクシャルハラスメントの委員会について書いています。委員会は、被害者と加害者にインタビューし、委員には男性も女性もいま す。女の委員が、被害者に向かって、同意に基づく行為ではなかったかという答えを引き出すような質問をしました。このような状況であったにもかかわらず、 加害者は、「こんなに委員の中に女性が多いのは問題だ、バイアスがかかる」とクレームを申し立てました。実際には、女性の委員は、女性に味方するような質 問をしたわけではないにもかかわらず、単に女性が多いというだけで加害者が文句をつけてきたのです。このことは、先ほど述べた二項対立が、言葉やりとりの 解釈に関与するという例です。

もう一つの例を紹介します。Discourse & Society 11(3)、2000年、401-418ページの、Sylvia Shawの研究Language, Gender and Floor Apportionment in Political Debates.ですが、イギリス議会の議員の発言を分析しています。議会では、議長に認められないと発言できません。しかし、実際は、日本の国会もそう ですが、ヤジがあります。イギリス議会のルールでは認められないのですが、案外、ヤジが話し合いに影響していて、実際に発言者がヤジに答えていたりしてい ます。ヤジも、話し合いの機能を果たしているのです。

さて、議会の中での男女での正式な発言数に差はないのですが、女性のヤジは極端に少ないのです。女性議員に、なぜヤジを飛ばさないのかとインタビューす ると、「女らしくないから」と答えています。現実のその場の状況以外にも、二項対立のジェンダーという概念が私たちの言語行為にさまざまな影響を与えてい て、男女に分けると同時に、さまざまな制限を与えていると考えられます。女の言語行為は、二項対立なジェンダー観や「女」を均質は集団とみなすイデオロ ギーに制限されているということです。

ジェンダー・イデオロギーの捉え直し――構築主義の問題点(3)

3番目の問題点は、まさにこれに関わっています。つまり、女も能動的に言葉を使ってさまざまなジェンダー・アイデンティティをつくりあげてきたと主張す るだけでは、これまで見てきたような、実際に女が言葉を使おうとする時に影響を与え制限する力を持っている、イメージや概念のイデオロギー的な働きを明ら かにすることができないという点です。

そこで、これまで問題にしてきた「二項対立ジェンダー観」、多様な女たちを「女」という均質な集団とみなすこと、そして、「女ことば」という概念を、 ジェンダー・イデオロギーとして捉え直したいと思います。これは、ジェンダーは二項対立でない、女は均質でない、女の言葉づかいは千差万別だ、と認めるこ とです。「二項対立ジェンダー観」、「女」、「女ことば」は、すべて歴史的に作られた抽象的な概念だとみなすことです。私たちは、これらの概念が、実際に 言葉を使う行為にどのような影響を与えるのか、どのように制限し支配するのかを明らかにする必要があります。

ここで重要になってくるのが「ディスコース」という概念です。なぜならば、これらの概念はディスコースによってつくりあげられたと考えられているからです。そこで、次にディスコースについて話したいと思います。

ディスコースとは何か

「ディスコース」はさまざまな意味で用いられている概念ですが、最初に、言語とジェンダー研究、言語とディスコースという話をしました。ジェンダーとディスコースの関係について、これまでの議論を図示したものが、ダイナミックモデルです。

「ディスコース実践」、これは、個々の状況で、私たちが言葉だけでなく、さまざまな振る舞いなどを使って互いに関わり合うレベルです。私たちが多様なジェンダー・アイデンティティをつくりあげるレベルです。

「ディスコース秩序」、これは、さまざまな人々が歴史的に語るという行為をすることによって、さまざまな概念が積み上げられて、特定の社会の中で常識と してつくりあげられてきたレベルです。「二項対立ジェンダー観」、「女」、「女ことば」などの抽象的なジェンダーイデオロギーが蓄積されているレベルで す。

これを、双方向的に結びつけたモデルについての話をしたいと考えていますが、その前に、ディスコース実践と、ディスコース秩序について、話を進めます。
 ディスコースという概念は、さまざまな人が全く異なる概念として使っていますが、私は『ことばとジェンダー』(剄草書房)という本に書きましたが、大きく分けると2つに分けられると考えています。

一つは、文より大きな単位の相互行為です。これは、主に、言語学、語用論、談話分析と呼ばれている、言語研究寄りの人たちが示す概念です。文より大きな 単位ですが、それまでの、いわゆる変形文法、構造中心の研究から、機能中心、文と文のつながり、ハリデーのいう機能文法の文と文のつながり、「結束性 cohesion, coherence」というつながりです。相互行為というのは、その場、その場の状況です。語用論をはじめとする、誰が誰に対して、どういうような働きか けをするのかという研究です。ここで、言語研究が言語体系から言語使用へ移っていきました。日本語では、「談話」、「ディスコース」とも言われます。

ディスコースのもう一つの捉え方が、社会理論でとらえられている概念で、社会的実践としてのディスコースの概念です。フーコーをはじめとする社会学者の 研究です。たとえば、『知の考古学』とか、これは、皆さんおなじみのことだとおもいますが、「私たちの社会にある知識とか、常識とかいうものは、語られる ことによって社会的につくりあげられていく」という考え方にもとづいています。この場合に、社会理論の中では、言語というものが急に注目を浴び、「言語的 転回」とか、大革命のように言われた理論です。言葉を使って語るということが、今、私たちが常識としている真実や真理を形づくるのに大きな役割を果たして いる、という考え方を提案しました。

社会的実践としてのディスコースとは、具体的には、社会に影響を与えるということです。どういう形で影響をあたえるかですが、いろいろな解釈があります が、例えば、哲学者アルチュセールのイデオロギー論によると、私たちの社会のイデオロギーをつくりあげることです。ディスコースは、私たちが、当たり前だ と思っている、範疇、カテゴリー、関係を形成するということが社会的実践としてのディスコースの一つの解釈のしかたです。

「女ことば」というディスコース実践

これを、日本語の「女ことば」という概念で具体的に説明してみましょう。平安、鎌倉、室町、江戸と、古来から、さまざまな人が女が話すということについ て語ってきました。この、語ってきたというディスコース実践が、社会の特に、支配関係の中で秩序づけられて、「女ことば」という概念を形成してきたと考え られます。つまり、私たちは「日本語には女ことばがある」という常識が流通した社会の中に生まれ、この制限の中で言葉を使わざるを得ないのです。

その場合に、「女ことば」というジェンダー・イデオロギーと、私たちが多様なジェンダー・アイデンティティをつくりあげようとしている具体的な言語行為(ディスコース実践)の関係を表しているのが、矢印①と矢印②です。

矢印①の方向では、「女ことば」概念は、私たちの言語行為を制限すると同時に、言語行為の資源を与えてくれます。たとえば、痴漢に遭っても「ばかやろ う!」と怒鳴れないで「止めて下さい」と懇願するしかないのは、「ばかやろう!」が「女ことば」ではないからです。このように、「女ことば」概念は、私た ちの言語行為に規範を与えるという形で、私たちの言語行為を制限しています。しかし、たとえば、女子中学生が友達に「ばかやろう!」といっていわゆる「女 らしさ」とは異なるジェンダー・アイデンティティをつくりあげることができるのも「女ことば」があるからです。「ばかやろう!」は「女ことば」ではないか らこそ、「女ことば」の規範を破ることに意味が出てくるのです。この意味では、「女ことば」は私たちのディスコース実践の資源となっているのです。

矢印②の方向では、私たちが行うさまざまなディスコース実践は、「女ことば」概念を再生産すると同時に変革します。たとえば、いわゆる「女らしい」女こ とばを使うことで女らしく優雅な人物として立ち現れれば、それは「女ことば」概念を再生産していることになります。一方、友達に「ばかやろう!」と言うこ とが特定の女子中学生の間でざっくばらんな人間関係を形成するようになれば、この集団内では「女ことば」イデオロギーが変革されたことになります。

このように、ダイナミックモデルでは、ジェンダーイデオロギーとジェンダー・アイデンティティを一端区別した上で、双方向的に関係づけることで、構築主義の抱える三つの問題点を克服しようとしています。

以上で、私の話は終らせていただきますが、今日の話をお聞きになって、この分野に興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、『ことばとフェミニズム』、 『ことばとジェンダー』(勁草書房)と、『言語』2002年2月号の特集「言語のジェンダー・スタディーズ」にも拙論を展開しておりますので、是非御覧に なってご意見をお聞かせいただければありがたいと存じます。また、今日は突然のお願いにもかかわらず、富山大学の湯川純幸先生にも社会構築主義についてお 話ししていただき、大変感謝しております。ありがとうございました。

(中村桃子 なかむらももこ 関東学院大学教授)

 
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