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学会誌1号:論文1

発話行為におけるジェンダー

日置弘一郎

本稿は、平成9-10年度文部省科学研究費基盤研究(B)「女性事務補助職の総合的研究」における調査に基づいている。このことは、本稿での研究関心が社会言語学のものであるわけではなく、女性事務補助職(いわゆるOL)の職業行動や組織行動からはじまっていることを意味している。この点では、本学会の研究関心としてどのような範囲が設定可能であるか、あるいは、本学会での研究関心の類型を意識しつつ、発話という行為においてジェンダーがどのような意味を持つかについて考察する。

1.言語現象の記述と分析

日本語とジェンダーについての研究関心としては、言語現象としてジェンダーによって使用言語が大きく変化するという日本語の特徴があり、それを研究するという関心が存在する。例えば、日本語論の中で集団語としてOLの集団語としてのタメ口があり、それを社会言語学の研究関心にのせるという研究関心がある。ここで厳密には、OLの集団語をタメ語と呼び、タメ語の構造を研究することが関心となる。OLがある場面で使用する日本語の下位言語の体系としてのタメ語を抽出し、それを分析する。
これに対して、言葉を手がかりとしてジェンダーを分析するという研究が可能である。すなわち、ジェンダーを分析するために言語現象を指標として、対人関係や社会関係を分析しようとする研究である。こちらは、主たる研究関心がジェンダーにあり、対人関係を測定する指標としてタメ口を考える。つまり、タメ口を用いる関係か否かで社会関係を分析する手段としてのタメ口を考える。この関心では、タメ語の体系がどのようになっているかについての知識を必要とするものの、タメ語そのものを分析しようとする意図はない。
 
この二つの理論関心は、もちろん、相互に関連しているために、それを厳密に区分することは困難である。同じように発話しているように見えても、微妙な違いがあり、企業内で用いるタメ語と、学校の同窓生間でのタメ語は異なる。その知識がなければ、社会関係の分析は困難であり、相互に関連した研究が必要となる。この意味では両者をことさらに区分することは困難であるともいえる。
 
しかし、タメ語とタメ口を区分することは多くの場合に必要であり、それは、ジェンダーについての分析を含む研究の多くに妥当するように思われる。つまり、同一の現象であっても、ジェンダー表現としてのタメ語と、ジェンダーの場面としてのタメ口の区分が必要であるといってよいだろう。
 
日本語の特徴を抽出するためには、話者のおかれた状況とのセットで分析しなければならないが、このような特徴を記述するだけでは、分析の素材を収集するにとどまる。しかし、素材を収拾すること自体がなんらかの理論的根拠を持ち、これまでに見逃されていた言語現象を拾い出すことになっていることは最近の日本語論において明確になっている。
 
この点では、行動分析や行為分析、あるいは、科学とされる知的様式に、理論化とは、因果の形式で現象を記述することであるという信念があり、それに影響されて、分析とは因果命題を抽出することであるとされることが多い。古典力学の成功以来、科学の様式は、現象を原因によって結果が引き起こされる法則として記述することであるとしてきた。この形式での記述が成功する領域は非常に多く存在し、科学が知の形式として特別な地位を与えられる大きな要因となった。この形式が有効であるのは、因果的に記述することによって論理推論が可能となり、強力な論理推論によって非常に多くの仮説を作り出すことが可能であるためで、しかも、特定の初期値を与えることによって結果の予見が可能であるために、実証を可能とすることによる。しかし、言語現象や発話という行為は因果的に理解することは困難である。
 
単純な因果の形式だけでは現象をとらえることが困難であるケースが次第に知られるようになっている。現在複雑系などの議論では、単純系による記述というこれまでの科学の方法の拡張と、さらに、因果に変わる別の様式による現象記述の試みがなされている。発話における現象の分析は、単純な因果律では分析することが困難であるが、それを扱うためにはいくつかの概念を導入しなければならない。
2.フレーム変数

行為論でコミュニケーションを扱う場合にしばしば問題とされるのが変数の再帰性である。再帰性とは、ある変数が自分自身に依拠しなければ定義されないという性質である。コミュニケーションは、コミュニケーションが独自で成立するわけではなく、発話者とその受容者の双方が了解することを必要とする。つまり、コミュニケーションが成立するための要件が充足されるためには実際にコミュニケーションがなされることが必要であり、それが成立することによってコミュニケーションが強化され、あるいは、修正される必要がある。

その意味では、コミュニケーションが独立に与えられることはなく、コミュニケーションの成立によってのみコミュニケーションは成立が保証される。相互作用そのものとしてのコミュニケーションは、単独主体では完結せず、他の主体とのコミュニケーションがなされている事実を確認しなければコミュニケーションにはならないわけである。
このような再帰的な性格を持つ要素が入ってくると単純な因果によって人間の行為を説明することはできない。行動科学のように単純化された動機の充足であれば、原因と結果に類似した枠組みで人間の行動を説明することができるが、現実の人間の行為は非常に複雑な相互作用を含んでいる。このような場合には単純な因果での説明は近似でしかなく、その近似で有効であるのは、コミュニケーションが成立するプロセスではなく、コミュニケーションが可能であることをすでに前提としておいてよい場合である。
 
この場合のコミュニケーションにかかわる変数は因果的には処理できない。相互作用の過程で、複数の主体が影響しあい、それぞれのコミュニケーションにかかわる変数が変化する場合に、一方を固定して他方がそれによって変化するという因果による近似は困難である。コミュニケーションを目的としない内言といったかたちの発話を考えることは可能であるが、一般には発話はコミュニケーションを想定しているといってよい。コミュニケーションのプロセスで、相互作用のメカニズムを考えてみよう。
 
コミュニケーションプロセスにおいて、因果的分析が困難であることは、通常の独立変数(原因変数)として変数を設定して、その変数を従属変数と無関係に操作することが困難であることによる。
 
当面の関心であるジェンダーについても、それを発話やコミュニケーションの中で位置づける場合に、独立変数として因果の中に組み込むことは困難である。ジェンダーを外在的な規範としてとらえると、行為の中でジェンダーを因果的に理解することは可能である。例えば、ジェンダー規範に則して、行為が決定されるプロセスは因果的に記述可能である。しかし、コミュニケーションの場面では、ジェンダーは原因とはならない。ジェンダーそのものがコミュニケーションの内容を形成しているような場合をのぞけば、ジェンダーに即した表現がなされる場合に、それがコミュニケーションの影響を与えるものの、コミュニケーションそのものをひき起こすわけではなく、また、コミュニケーションプロセスに影響を与えたとしても、その影響は相互作用の中で成立する。
 
このことは、E.ゴッフマンが、行為と表出という区分を提唱していることにかかわっている。ゴッフマンは通常の行動科学的現象理解が、行為を目的遂行の文脈でのみとらえ、それを因果的に解明するという機能的側面に焦点を当てていることに注目する。社会的文脈では、その行為がいかに表出されるかは問題とされない。しかし、その行為の表出が一定の枠組みを形成し、社会的にはむしろ表出がいかになされるかがむしろ重要である。例示すれば、異性間の愛情表現において、じっと目を見つめるだけの愛情の表出と、高額の贈り物をするという表出と、さらにいきなり押し倒すという表出は等価である。しかし、社会的文脈からはこれらが等価であるとはとうてい考えられない。
 
ジェンダーは表出に大きくかかわり、機能的な行為枠組みの中でとらえることは難しい。機能的枠組みであれば、因果的な理解が可能であるが、表出の必然性は限定されており、複数の表出スタイルのどれを選択するかについて因果的分析は困難となる。
他方で、それでもなお、ジェンダーを表出規則として社会的に要請されたルールとしてとらえるならば、因果的に扱うことは可能であるということはできる。しかし、コミュニケーションプロセスを考えるならば、それは、外在的な規則だけではなく、コミュニケーションの中で再帰的に確認される枠組みとして内在化している。
 
ミンスキーは、認知科学において、フレームという概念を提唱している。これは、われわれの認知は経験を外挿して、認知されるべき問題状況を把握しなければ認識が不可能であることを証明したもので、空間の認知にしても、今どのような状況で対象を認知しようとしているのかについての理解がなければ認知そのものが成立しないことを示した。
 
例えば、われわれがいすを認知しようとすると、現在の空間枠組みが、例えば、レストランで食事をしようとしているのか、あるいは、大講堂で講演を聴こうとしているのかによって認知の枠組みが確定する。この枠組みがフレームである。フレームなしで、いすの形状を判断しようとすることはできない。どのような状況での椅子であるのか、空間の枠組みがどのようになっているかを確認しなければ形状だけで判断はできない。
 このミンスキーのフレーム概念は、社会的文脈にも拡張することができる。単に、認知枠組みとしての見当識という意味だけではなく、社会的状況をも含めて考えることが可能である。さらに、認識枠組みだけではなく、表出の枠組み、つまり、概念そのものの構成の様式も含めてフレーム概念を拡張することが可能である。フレームとしても側面を持つ変数をフレーム変数と呼ぶならば、これまでの機能主義的な因果モデルと認知的側面、主観主義的な理論を論理の形式として接合可能となる。これをフレーム概念と呼ぶことにする。
 
ジェンダーもまた、このようなフレーム概念としてとらえることが可能である。つまり、認識と表出のそれぞれの場面において、自分の行為やコミュニケーション表出の様式の枠組みとしての性格を持つ。この意味でのジェンダーは外部から与えられた規範や規則ではなく、自分自身が相互作用の中で生成していく枠組みである。
 
コミュニケーションの中で自分が他者に対してどのような表現をとることが有効なコミュニケーションとなるかを判断し、他者の理解の枠組みを想定しながら発話が行われる。相手と自分の関係を設定しつつ、表出の枠組みが選択されていく。このために、文法規則に従いつつも、それだけでコミュニケーションにおける表出の体系が説明できるわけではない。
 
自分自身の存在が他者に対してどのような意味を持つかを想定して、会話の様式が決定される。他者と自分との関係を認識する枠組みの中にジェンダーは忍び込む。さらにコミュニケーション過程で、その枠組みは修正され、相互作用によってコミュニケーションの相手とすりあわせが行われる。コミュニケーション過程において、このような枠組みの調整を行わない「堅い個人主義」の立場はあり得るが、それが一般的であるとはいえず、通常は発話の際にどのようなコミュニケーション様式を採用するかについての判断がなされる。
 
ジェンダーについて見るならば、自分自身のジェンダー認知を発話の様式に介在させるか否かの選択がなされる。ジェンダーニュートラルな発話の様式を採用すべきか、あるいは、積極的にジェンダーを強調するような様式を採用すべきかは状況に応じて決定されることが普通である。ほとんど無自覚的に相手との関係設定の中にすでに発話の様式にどのようにジェンダーを含めるかが選択されるために、通常は意識してジェンダー表現の様式を選択するとは考えない。
 
しかし、例えば、演説や討論、委員会審議など公的な場面での発話は、ジェンダーニュートラルに行うことが指摘されている。不特定の聴衆に対して、ジェンダーを特定しないように発話しているというよりも、公式場面においてはジェンダーニュートラルな形式で発話するというルールがあると考えてよい。このことは、判決の申し渡しや、表彰など特定個人に対する公式発言についてもジェンダーニュートラルに発話されることからも理解できる。
 
他方で、ここに公式語という状況に即した下位言語を設定することも可能であり、公式語固有の表現形式や文法を想定し、それを研究することも必要であるだろう。しかし、コミュニケーションとして考えるならば、公式語を使いこなすことができるとしても、それを用いるか否かの選択が介在し、それが発話の枠組み、さらには、その話者の社会観や世界認識と連動する。このために自己と他者の相互作用によってその枠組みが変動する。
 
ジェンダーに関しても、自己認識としての性自認が揺らぐことは少なくても、性役割を強く意識しなければならない状況か否かについてはかなり大きく変動する。相互作用の中でどの程度のジェンダー表現が必要であるかについての確認がなされていく。
発話においてはジェンダーはフレーム変数であり、固定的な社会規範として扱うことはできない。
3.予期理論
さらに、予期理論を考えることで、コミュニケーション過程を見てみよう。予期理論は社会学の行為理論の中で論じられているが、自分の行為を決定するのは、他者にどのように自分が予期されているかによると考える。例えば、自分が他者に対して好ましい存在であろうとすると、他者が自分をどのように予期しているかを考えて、その予期に対して整合的な、あるいは、非整合的な行為を選択することによってアピールする。恋人同士を考えてみれば、互いに望ましい存在に見えるようにふるまおうとしている。この場合には、相手の予期を予期して行為選択が行われている。
 
さらに、多重の予期が成立する。予期の予期に対して行為者が反応することは予期の予期の予期である。例えば、ある人間が異性を好きになって、その関心を引こうとしていることを周囲の人間が感じるのは、予期の予期を予期するためである。現実のコミュニケーションの場面で、予期の予期についての判断が下され、それを相互作用の中で操作しようとすることは日常的に経験する。自分に対する相手の期待を感じて、それに対する反応をどのように操作するかという社会的場面が日常の中で多く現れる。
実際、三重以上の予期も存在する。筆者が講義の中で例とするのは、百人一首におさめられている平兼盛の歌、「しのぶれど色にいでにけりわが恋は ものや思うと人の問うまで」である。この歌は、自分があの人を好きになっていることを周囲がわかっていることに気づいた自分を詠んでいる。
 
あの人を自分が好いていることを周囲が感じるのは予期の予期を予期している状態であるが、周囲がそれを感づいたことを自分が意識しているのは、さらにそれを予期しているということになり、四重の予期が成立している。このような心象を歌に詠み、それを鑑賞しているわれわれは、さらにその四重の予期を予期することになる。五重の予期がこの歌の鑑賞という行為である。また、そのことを解説しながら、学生がそれを理解しているだろうかとうかがっている筆者は六重の予期を行っていることになる。
 
講義というだけではなく、この歌は天徳の歌合に提出された歌で、壬生忠見の「恋すてふわが名はまだき立ちにけりひとしれずこそおもいそめしか」と争い、判者による勝敗の判断がつかずに主宰した村上天皇の判断を仰いだことでも有名である。天皇も判断に迷い、判者が天皇が低く、再度兼盛の歌を吟じていたのでそちらを勝者としたと伝わっているが、判者が天皇の意向を伺う状態も予期であり、こちらも六重の予期が成立している。
 
忠見の歌は予期の予期の予期を防止しようとする歌であり、こちらは三重の予期の操作にとどまっている。その点では、複雑さの構造は、より兼盛の歌の方が多重に人の心を歌い込んでいるといえるかもしれない。
 
日常的には五重、六重の予期が行為の判断において必要であることは少ない。さらに、「心の理論」(theory of mind)では、このあたりが通常は限界で、多重の予期が成立しても、人間はそれを操作することができないことを示している。無限後退にはいたらず、人間の操作限界が存在する。
 
日常の中でこのような予期を含む相互作用がコミュニケーションにおいて成立していることが行為論の中で論じられている。つまり、コミュニケーションは一人の中で完結しているわけではなく、相互作用としてしか成立しない。そのために、コミュニケーションは予期の体系を含むものとして理解される。ここで、予期の枠組みの中にフレームとして扱われる社会的枠組みが入り込むことになる。つまり、他者のフレームを予期することがコミュニケーション過程の中核的部分を構成しているといってよい。予期を伴わないコミュニケーションはフィードバックがあったとしても、予期を修正する過程を持つことはない。無自覚的であっても我々はコミュニケーションにおいて予期を行っていると考えてよく、たとえ、堅い個人主義者であってもフレームの変更は行わなくとも、予期そのものは行っていると考えてよい。
 
ジェンダーが予期に関与するのは、相手と自分の関係の設定とかかわる。相手が自分の発話におけるジェンダー要素をどのように予期しているかを予期し、それに応じて発話する。相手の予期にそむくことを意図的に行うとしても、それもまた、予期を予期することに他ならない。その意味では、ジェンダーニュートラルという立場は成立しても、ジェンダーフリーという立場は成立しない。ことさらにジェンダーを出さないという立場(ジェンダーニュートラル)は明らかにジェンダーを意識した立場であり、ジェンダーを全く意識しないというジェンダーフリーとは異なる。コミュニケーションの相手に性がある限りにおいて、ジェンダーを伴う予期は必然であり、ジェンダーフリーの予期は不可能である。相手のジェンダーが不明であるようなコミュニケーション(例えば、書簡や電子メールなど)の場合にも、相手のジェンダーを想定しながら、あるいは、どちらのジェンダーであっても差し支えがないようにコミュニケーションの様式が選択される。
 
現在のジェンダー研究が、ジェンダーを社会規範としてとらえようとする立場からの研究が多いことは認めるとしても、それは行為論とは結びつかない。むしろ、社会的役割を特定の社会場面(例えば、家族内での行為や職業生活の場面など)で固定させて価値規範として扱っている。ジェンダーそのものを価値意識の反映として扱っているケースが多く見られるが、この視点では、コミュニケーション過程を取り扱うことは難しい。発話の形式が話者の固定化された社会意識の反映であると考えることになり、その前提をおくと、話者はどの相手に対しても同一の発話の様式を持つことになる。現実のコミュニケーションがそのような状態ではないことは明らかである。また、コミュニケーションの分析を言葉を手がかりとする必要もないことになる。
4.タメ口モード

上記のようなジェンダーについての考察を前提として、タメ口、あるいはタメ語について考える。ここで、タメ語を集団語としてとらえることにはやや無理がありそうに思える。地方語などと同様に、日本語の下位言語として位置づけることはもちろん可能であるが、他の集団語と同じ扱いができるかについてはやや問題がある。それは、OLならばOLという集団に共有されている言語としてとらえることは難しい。

それは、集団に共有されて、その集団成員によって共通語として機能しているわけではなく、集団内部の特定の他者にのみ用いられ、あるいは、特定の状況でのみ用いられる点にある。例えば、子供たちのギャング集団や、特定の職業人たちの間で用いられる集団語は、仲間内を特定し、集団の凝集性を高める役割を果たしている。
 この状況は例えば、鈴木(2000)が、コートジボワールにおけるストリート社会における言語状況をレポートしている例に典型的に見られる。コートジボワールは、当初から多数の部族語が60あまりも混交する多言語社会であり、近代国家の様式を備えても、部族語の中での優越語は成立せず、旧宗主国のフランス語を公用語として用いている。
 
中核都市アビジャンには周辺から多くの人口の流入があり、スラム化が進行するが、路上生活者たちの固有言語が成立している。ムサ・フランス語から発達した「ヌゥシ」と呼ばれる言語は、路上生活の若者の共通語となり、独自の言語文化を形成しているとされる。この言葉は、初等教育におけるフランス語教育に脱落した子供たちによって用いられる言語であり、フランス語の特徴を残存させながらも、独自の語彙や表現を開発し、それにカンフー映画の用語などが導入されたものであるという。彼らが、たとえ同一の部族の出身であっても部族語を用いることを忌避し、ヌゥシによってコミュニケーションを図っている。
 
ヌゥシは、このような意味で集団語であり、それを用いることができないものは、路上生活において仲間扱いを受けない。いわば、その集団成員としての標識にもなっているが、多くの集団語にはこのような内と外を区分する機能がある。
 ところが、タメ口の場合には、OLすべてに共有されているわけではなく、タメ口をきく関係と、同じOLであってもタメ口を用いない対人関係がある。さらに、通常はタメ口を用いる間柄でも、そばに上司が居る場合にはタメ口を用いることはない。状況に即して用いられ、親疎によっても影響される。タメ口が集団語とはいえないのは、対人関係に付随して用いられ方が決定するためであり、常にタメ口関係にある場合ですら、状況によっては避けられる。
 
このような現象は、タメ口が親疎と連動しているだけではなく、特定の人間関係を表示するものと意識されているために生起する。タメ語使用を行うのは、少なくとも対等の関係の相手に対して、しかも、周囲に敬語・公式語を用いる人間が居ない場合に限定される。タメ口がどの相手に対しても無差別に用いられるわけではなく、同輩の範囲で、それも、年齢的にもかなり限定されており、三歳以上離れている場合にはタメ口使用は例外的になってくる。
 
さらに、年齢と社歴が重層しており、大学卒で社歴は後輩であるけれども、年齢は同一であるという高卒OLの場合にはタメ口関係が成立する場合としない場合がある。社会的に対等であると意識されることが条件になるが、その対等の条件にはかなりの個人差がある。
 
このように見ると、タメ口を集団に共通すると考えることはできず、タメ語は集団語であると考えることには無理がある。
 
それでは、どのように考えるべきだろうか。地方語や集団語として共有され、その集団成員の間で話される集団語に対して、タメ口は特定のOL相互の間で話される。これまでの社会言語学での扱いとはやや異なる使用となる。それは敬語と同様に、会話における待遇表現としての性格を持っている。けれども、それが特定の集団内に限定される点で待遇表現とも異質である。
 
筆者自身の関心からは、このようなタメ口の使い分けが問題である。それが明確な公式語のような使用についての意識がある場合、あるいは待遇表現におけるようにコミュニケーションの相手に対して明確な判断がなされる場合とは異なり、タメ口の場合には、ほとんど自覚することなく使い分けがなされている。このような使い分けのメカニズムに関しては、多重言語使用者(マルチリンガル)が複数言語を使用する場合の使い分けの研究がなされているが、その場合にはコードスイッチングという概念で押さえられている。
 
例えば、日本語と英語のバイリンガル使用者が、コミュニケーションの相手によってどのように使用言語を変えるかについては、言語コードそのものが切り替えられるために、それを追求することはそれほど難しくない。また、同じ相手と言語を切り替えて会話するということもさほど多くないために、そのメカニズムはかなり外部から観察しやすい。
 
しかし、タメ口では言語コード全体の切り替えはおこらず、一部の語彙や文法の体系が変化するにとどまる。その意味では、待遇表現のレベルでの切り替えであるようにも見えるが、現実には表現を含むかなりまとまった下位言語であるといえる。いわば、下位言語と待遇表現の中間に位置すると考えてよい。
 
このレベルでの言語切り替えをコードスイッチングとしてとらえることは、コード体系が変わるわけではないために、かなり無理がある。記号論の用語を用いるならば、コード体系は同一でも、コードのまとまりであるモードのレベルでの変容が行われていると解釈することができる。その意味で、タメ口から通常会話への切り替えはモードスイッチングであり、単に待遇表現の使い分けではなく、言語モードの切り替えとして理解することができるだろう。社会言語学ではモードレベルの概念は提出されていない。
 
記号論でのモード概念を社会言語学に導入することが果たして適当であるかについては、言語モードとしてのタメ口の分析が有効であるかによって判断されるべきであるだろう。基本的には記号論からの概念の導入はそれほど不自然ではないが、問題はむしろ、モードスイッチングメカニズムの複雑さにある。コードスイッチングほど容易に観察ができず、しかも、そのスイッチング自体を話者が意識しているとはいえない。これは、モードが基本的に話者自身のフレームに依存しており、その変容を自明のこととして受け入れているためであるといってよい。
 
さらに、タメ口をはじめとして多くのモード水準の言語現象はジェンダーにかかわることが多い。社会関係の中でモード選択が行われているために、社会的場面における役割にジェンダーが絡むことが多く、そのためにジェンダーとモードが分離してとらえることが難しくなる。このような意味で、モード概念の導入にはかなりの困難があるが、概念としては十分に検討する必要があるように思われる。
 
言語現象におけるジェンダーを研究する場合にジェンダーが社会に共通して成立している規範として理解したのでは、言語研究として非常に平板になることを再度強調しておきたい。
参考文献

ゴッフマン E. (1959) 「行為と演技」, 誠信書房
ミンスキー M.  (1975) 「心の社会」, 産業図書
鈴木 裕之   (2000) 「ストリートの歌」, 世界思想社

(日置弘一郎 ひおきこういちろう 京都大学経済学部教授)

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