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学会誌1号:『日本語とジェンダー』創刊号座談会

日本語にとってジェンダーとは?

司会 日置弘一郎(京都大学経済学部教授)
国広哲弥(東京大学名誉教授)(後半から参加)
佐々木瑞枝(横浜国立大学留学生センター教授)
見城美枝子(青森大学教授)
門倉正美(横浜国立大学留学生センター教授)
笠原仁子(ジャパンタイムズ出版部副編集長)

日本語ジェンダー学会の創設に際して、設立準備にあたった6名の学会メンバーが、「日本語とジェンダー」というゆたかな問題領域へのアプローチをそれぞれに縦横に語り合った。座談は学会の守備範囲からはじまって、声の調子が高くなることの意味、「公式語」や敬称語のジェンダー意識、ジェンダーの生理、心理現象にまでおよび、延々4時間余にわたった。日常的なやわらかいトピックが何げなく語られている中にも、さまざまな角度から「日本語とジェンダー」の問題意識を刺激する要素がひそんでいる。

なぜ、いま「日本語ジェンダー学会」か?

日置:まず佐々木先生から、日本語ジェンダー学会の成立の経緯についてお話しください。
佐々木:私は1970年代から留学生や外国人学習者に日本語教育の分野でかかわってまいりました。日本語を指導する中で日本人が見過ごしてきた日本語の語彙、文法、コミュニケーションの仕方など、はっと気づかされる面が多々ありました。
中でも「女言葉」「男言葉」の存在については、私が女性であるため無意識に使った女言葉を、男性の外国人学習者が使ってしまい、妙なマイナス概念を与えてしまうことなど、指導しながらも気になってきたところです。最近では、女言葉と男言葉が、特に終助詞の使用などで近づきつつあり、この点では、指導する側としては助かるのですが、長い歴史の中で築かれたジェンダー意識というのは、「男女共同参画社会」が生まれたからといって解消するものではない。
たとえば、「悪妻」という表現ひとつとっても、そこに含まれる倫理観、道徳観、社会習慣、男性の視点と女性の視点の違いなど、これから研究していくテーマとしては面白いものだと思いました。
日置:それらのテーマの集大成が『女と男の日本語辞典(上巻)』(東京堂)と考えてよいでしょうか。
佐々木:いえ、とてもそこまではいっておりません。
まず辞典のための準備の期間が相当長かったですね。辞典の執筆の準備段階で、有志を募ってジェンダー表現をテーマとする読書会から始めました。その読書会で、小説、論文、新聞、雑誌、コマーシャル、歌の歌詞などにどのようなジェンダー表現がつかわれているかを探し出し、ディスカッションするという作業を積み重ねました。日曜日にお弁当持参で、延べ80名の方たちが加わり、非常に活気に満ちたものでした。その方たちと研究をしているうちにわれわれで言葉と社会をつなぐものを立ち上げていくべきではないかという話がでました。読書会で終わらせるには惜しいほどに、研究に対する機運が盛り上がったのです。その読書会が、いわばこの学会の苗床になっていると思います。
日置:先生は他の学会にも所属していらっしゃると思いますが、なぜ、学会立ち上げにまでなったのでしょうか。
佐々木:はい。私は日本語教育学会、比較文明学会、社会言語科学会などの会員ですが、読書会のメンバーからは、「日本語とジェンダー」というテーマからの広がりを考える会をという希望もあり、2000年3月の総会で理事会も結成され、「日本語ジェンダー学会」が結成されました。ここでのジェンダーはあくまでdiscrimination(差別)ではなく「区別」と考えたいと思います。日本語とジェンダーの問題から派生してさまざまな問題を論じることができると思います。国によってどのような違いがあるのか、日本の地域によってどのような違いがあるのか、あるいは社会階層によってどのような違いがあるのか、年齢も大きな問題です。日本語では何歳くらいから、男女の言葉の違いを意識するのか、研究の対象は大きな広がりをもって考えたいと思うのです。

日本語ジェンダー学会の守備範囲

日置:それについてどのような見方があるのかといったことをこの学会で考えていきたいですね。幸いこの学会の理事も、別のご専門で、国広先生は言語学、私は経営学、見城先生は建築史のご専門ですし、門倉先生は哲学ですよね。
門倉:ええ、言葉の哲学です。
日置:笠原さんは出版社の女性編集者ですよね。――「女性編集者」という、この言葉そのものにすでに、ジェンダー意識が入り込んでいるわけですが。われわれの専門分野は異なっていても、どこかで関連はあり、それぞれ専門が違う観点から「日本語とジェンダーのかかわり」を見ていきたいということです。ジェンダーをどのように捉えるかというのは非常に大きな問題で、もう少し議論しなければならないのですが、その前に日本語とジェンダーといった場合に、学会の活動の範囲をどのように設定するかという問題ですが、方向は二つあり、正統派としては、ジェンダーに基づく集団語を考えるという方向で、もう一つは言語を手がかりとしてジェンダーを分析するという方向の両方があると思うわけです。つまり、研究対象として言葉を追求するのか、あるいはジェンダーを追求するかという二つがあります。当初は言葉の研究から始まったわけですが、そこで、この学会はその両者を含むと考えてよいと思うのです。
佐々木:むしろ、この学会としては後者を歓迎したいと思っています。今まで、学会はどうしても研究者に限定されていたのですが、言葉は文化の根底にあるわけですから、後者の方が社会と言葉のつながりについての問題として複合的にかかわっていけると思います。
日置:ジェンダー研究を中心として研究をしようとする人が、かなりこの学会にも入ってくると思います。そのときに、二つの関心の棲み分けを作っていくのか、あるいは、どのように研究の橋渡しをしていくかを考えていくことが必要となるように思います。
佐々木:言葉を手がかりにジェンダーを研究するというので両方を内包しませんか。
日置:それほどタイトではないと思いますが、これは日本語の学会ですと言われると入りにくい人がいる、研究の方向や態度の違いを今から意識しておいた方がよい、部会とかホームページの掲示板の作り方もそれを意識しておく必要がありそうです。
佐々木:この学会を立ち上げるに当たって、日本語教育学会の会長の水谷修先生にご相談したところ、良い企画だと思う。今、日本語教育学会から分かれて、文法学会などができている。あまりにも日本語教育学会が研究対象とする範囲が広いので、ジェンダーは時期を得ていると思う、と賛成してくださいました。
この学会については、どのような分野の方が入会されるかまだわからないですね。
見城:ジェンダー論の方は、「男性に対しての差異を撤廃したい、けれども女性が既に持っている特権のようなものはそのまま持っていたい」という傾向がある。男性の側から見ると逆差別になっても当然であるかのように思われているわけです。ですから、最初にきっちりと決めておかなけれならないことは、この学会は日本語における性差別を撤廃しようとする場ではないということです。この学会の目的はあくまでジェンダーの表現がある日本語研究であることを、しっかり考えなければいけないと思います。
日置:ジェンダー研究は重要な領域だし、研究して行かなければいけないんだけれども、それだけがこの学会の目的ではない。さらに、ジェンダーの概念を幅広くとらなければいけないということは言えると思います。この場合に、ジェンダー概念をどのように捉えるかについては、それぞれの領域での先行研究があるわけですが、それを尊重することは必要だと思います。それが言語現象として現れてきているというところで押さえることが必要だろうと思います。
佐々木:そうですね。言語現象の中でもたとえば、言いよどみ、間とか、相手に相づちを求めるといった言葉だけではなくてノンバーバルな側面も含んでいるわけです。そうすると、うんうんとうなずくというのも、女性の方が多いかどうかといった研究は、それが差別ではなくて、表層に現れないことで言語的な現象があるわけです。それぞれのお立場から、どのような研究を行っておられるのか、先行研究としてどのようなものがあるのかについてお話しいただけませんか。
日置:今おっしゃった中では、例えば、アイ・コンタクトの性差はあるのですか?
佐々木:あると思いますが。女性がどの程度しっかりとアイ・コンタクトをしているかについては、研究事例や報告を読んだことがないのでわかりません。
日置:日本人が相手をじっと見るというのは対抗なんですね。けんか腰の時にじっと見つめる。すると、そのときに男女差があるはずだと思います。女性の部下が男性上司にアイ・コンタクトをとるのは許されても、男性がアイ・コンタクトをとるとけんかを売っているという理解はあるだろうと思います。じっと見るのではなく、適宜逸らすというテクニックを日本人は訓練されているといえると思います。/DD>
佐々木:それは経営学の立場から女性の幹部と若い男性の事例などがでるとおもしろいですね。大学の先生で、一度も学生とアイ・コンタクトをとらない教授の話をきいたことがあります。黒板に向かうか、宙に向かってはなすかで、学生が数百人すわっていても誰にも目をあわせない。
日置:この研究は、経営学ではなく心理学での研究テーマなんですが、日本人でこのテーマをやっている人はいないように思います。
門倉:言語現象というのは、いわゆる「言外の言語」や行動的なものまで含めて幅広く捉えて、それを切り口とすると考えてよいのでしょうか。
日置:この点は門倉さんのご専門ですが、言語現象を幅広くという場合に、もう少し広げるとコミュニケーション全般ということになってしまうのではないでしょうか。
門倉:そういう面もあると思います。
日置:そのときに一般的に拡張してよいかはかなり微妙ですね。
佐々木:でもコミュニケーション一般に広げないと現代社会を研究対象にすることに不都合が生じるのではないでしょうか。
日置:言語化されたコミュニケーションならば問題はないのですが、例えば、オンラインでコミュニケーションするか、オフラインでコミュニケーションするかという問題でも、そこまでジェンダーが関わっている可能性があるように思います。例えば、オフラインの場が設定されたときに、そこにでていくかどうかというのはコミュニケーションの一様式になるわけですが、通りにたくさん人が集まっているというのもコミュニケーションの様式になるわけですから、そこまで広げると拡散してしまうわけです。あくまでも言語現象を中心としてコミュニケーションの中でジェンダーを考えるということが枠組みになるのではないでしょうか。
佐々木:言語現象を中心とする、あるいは言葉を手がかりとするという枠で考えるということですね。
門倉:言語現象を補完するものとして、コミュニケーションという領域が広がっているととらえていますが・・・
日置:コミュニケーションという範囲だと、ノンセクシュアルな衣類を身につけるというのもコミュニケーションではあるわけです。
佐々木:お二人の先生の間で、コミュニケーションに対する解釈に違いがあるようですが、門倉先生の言われる「言外の言語学」はあくまでも、言葉が基本になっていると思いますので、この「日本語ジェンダー学会」では「言外の言語学」も含めて、あくまで言語にかかわるジェンダー意識について取り上げるということにしませんか。
見城:日本語表現というところに集約されればいいわけです。
佐々木:そうです。ただ、日本語といっても日常語だけではなく、外来語も含んでいいと思いますし、アイヌ語や沖縄語も含めていいでしょう。他の言語との比較という意味から、翻訳の日本語の研究も対象にしたいとおもっております。
日置:さらに、比較のための外国語も含まれるという範囲で考えればよいわけでしょう。
佐々木:あるいは、マイノリティな言語や、時代の変遷の中で死語化している言葉も考えられます。

ジェンダーと言語表現

日置:次にジェンダーについて考えなければいけないわけですけれども、ジェンダーというのは一般には、ジェンダーを区分・差別といった制約や規範と考えるという捉え方はかなり固定的な考え方だと思います。行為論では、ジェンダーは外からの区分ではなく、内在的な認識枠組みであると考えています。つまり、自分がどのような存在であるかということを考えなければ言葉の選択もできないわけです。
佐々木:社会の中で自分がどのような立場でいるかを知ることから内在的なジェンダー意識がでてくるということですね。
日置:ジェンダーフリーという枠組みの設定自体が、ジェンダーを意識しなければ成立しないことは明らかなわけですね。そうすると、全くジェンダーを考えずに発話する事は不可能なわけですし、その結果を相手とのコミュニケーションを行ってフィードバックが返って、つまり、自分の中のジェンダー概念と他者のジェンダー概念をつきあわせることが必要となってくる。認識枠組みとして考えた場合には、これまでいわれているジェンダー概念を外在的な枠組みとして捉えるということはできなくなるわけです。言葉の問題は、このような認識枠組みと連動しなければ解決しないと思います。
佐々木:固定的な規範としては捉えない、固定的な規範に対してどうなのかという問題設定が行われるわけですね。たとえば、学生たちの言葉についていえば、そうした固定的な規範・枠組みがあるから学生たちの言葉が揺らいでいると理解されるわけですよね。今朝見城さんとそのことをお話ししたわけですが、その続きを見城さんからお願いできますか。
見城:私はもともとアナウンサーですから、言葉を生業としてきたわけです。それも書き言葉ではなく、話し言葉を主としてきたわけです。普通の学校の日本語教育ではなく、アナウンサーとして放送人として訓練を受けてきたわけです。考えますと、公式になればなるほどジェンダーというのが日本語にはないわけです。台本を与えられても、言葉としては公式の言葉としては、ニュースとか解説とか、総合司会で取り仕切ると言った言葉は男女差がないんです。

どんな時に声が高くなるか?

佐々木:確かに、「女言葉」も「男ことば」も私的な場面で、相手が身近であればあるほど使用頻度が高いわけですよね。ところで最近声が低いアナウンサーがでてくるようになりましたね。60年代のアナウンサーはもっと声が高かったように思います。
見城:私の声は低いですよ。(笑い)
佐々木:例えば、電話がかかってきたとき、「もしもし」と自分の声より半オクターブくらい高くして電話を受ける女性が多いと思うのですが。これも年代の高い人に多い。日本人の女性ではちょっとよそ行きでは声を高くするという傾向がありませんか。
見城:いや、ジェンダーがないというわけではなく、両方あるんです。
日置:ちょっと、ジェンダーの話に戻る前に思い出したことを忘れないうちにお話ししたいのですが、私のところに台湾からきていた留学生がずいぶん日本語が達者な学生でしたが、日本語を話すときに比べると、仲間と中国語を話すときにはぐっと低い音になるんです。
門倉:男性ですか、女性ですか。
日置:男性です。
見城:でも逆の現象もあるんですよ。私が中国を取材したときに、アジアの女性の声は高いなと思いました。民謡とか演歌とか、歌を歌っていると本当に高くて、それを聴いているうちに、演歌とか民謡のルーツを聞いているんだなと思いました。高いのはアジア的で、装うというのではなくて基本的に高音域がヨーロッパのオペラの高さではなく、ソプラノではないんですが、ある種の高さです。また、男性が高いですからね。すごい高さで歌うわけです。ヨーロッパのバリトンとかとはまったく別です。それで、装ってそうしているのではなく、高い民族なんだと思ったんです。
日置:いえ、声がフォーマルになったときに高くなるんじゃないかということが気になったんですが。
佐々木:フォーマル、インフォーマルというキーワードで声の高さとジェンダー意識をみると、先ほども申し上げたように、年代の高い女性がフォーマルな場面で声が高くなるという傾向がある、あったというべきか、なぜなら、それは社会的な立場と関係があると思うんです。女性の地位が高くなると、声も低めになってくる、あるいは、男女の立場が逆転すれば、男性でも「あ、すみません」と高い声で言う傾向が強い。これはテレビドラマなどで最近気になっている点です。シナリオには書いてなくても、俳優さんが無意識に声の高さを調節していると思うのですが。これも音声分析の研究でしてみると面白いかもしれませんね。
見城:緊張と関係があるのではないんですか。
佐々木:緊張も社会言語学の領域の現象だと思うんです。社会が高い声を要請していることが、緊張を呼ぶのだと思うのです。
見城:それはよくわかるんです。私の声はこういうように低いトーンなんですけど、自分がかつて新人アナウンサーで番組をしていたときのトーンがどうしてこんなに高いんだろうと思うんです。テープが早まわりしているんじゃないかというほど高いんです。
笠原:やはり緊張して・・・
見城:いや、ちがうんです。(低い声で)「こんにちは」という入り方では受けないという前提がありまして。実際にも人気が出ない。(高い声で)「コンニチハ」と言わなければいけないんです。やはり、かわいい女の子のイメージなんです。
日置:さらに付け加えると、日本に長く住んでいる韓国の言語研究者の人に、指摘されたことがあります。日本語では、ていねいなときに声が高くなるけれども、正確には目上の人としゃべるときといっておられたのですが、韓国では逆に声が低くなるというんです。
見城:日本人でもありますよ。目上の人としゃべるときには突拍子もなく声が高くなるということがあります。
佐々木:私さきほど国広先生にお電話をしていたのですが、ここでの話しかたと比べるとかなり高い声だったように思います。
見城:逆に、低くなるということはありませんか。従うというのか従順といった意味で声が低くなるということですが。
佐々木:年齢とか立場、その場の状況によると思うんです。
日置:最初の見城先生の話と少しずれてしまったわけですが、フォーマルだと声が上がるかどうかというのは文化現象かという問題ですよ。
門倉:女性だけではなく、男性も声が高くなるとというのが日置さんの仮説ですね。
見城:しかるべき神社の儀式ですとか、祝詞などは声の調子が上がるんですよ。
日置:フォーマルだと緊張しているという証拠として声の調子をあげるということがあるのではないでしょうか。
佐々木:最初から整理をすると、日本語では女性が話をするとき、フォーマルな場合には声の高さを上げるという現象は確認できます。それが公的な場面か私的な場面か状況によっても分かれる。しかし女性の立場が変化していく中で、見城先生のお話しにもあったように「かわいこちゃん」である必要がなくなれば、声の高さは低くなる。しかし、フォーマルな立場で読み上げられるもの、たとえば祝詞などの声の調子は高い。付け加えると、新年の歌会始の時に読み上げられるうたも、高い声ですね。このあたりは、日本の公式の場での声の高さもフォーマル用語の中に入っていると考えられると思います。
日置:私がいいたかったのは、男性の場合にもフォーマルに話をするときには声の調子をあげるという現象があるのではないかという点です。普段しゃべっている時よりもあげることでフォーマルであることを示そうとするという点では性差はないのではないかと思います。日本語に習熟している留学生も、それに染まって、日本語の場合には声の調子をあげてしゃべっているように思えるのです。
門倉:女性の声が上がるというのは私もかなり気づいていたのですが、男性の声が上がるというのは今初めて聞きました。自分が話をしている場合にはどうかなと反省をしているのですが。
見城:でも、おっしゃっていることは、例えば、乾杯などの発生の時には、咳払いをして、高く、「皆さん」とでますよ。そういうことではないですか、乾杯などの時には、「本日はまことにおめでとうございます」とやったときに、かなり高くでていますよ。それはやっぱり改まるという時に、プライベートから公的なところで、明確にはっきりと言うことになって、そこで上がるのではないかなと思うんです。
私がここに参加しているのは、アナウンサーを生業として、美しい日本語を話す、正しい日本語を話すということの訓練を受けた世代なんですよ。今のアナウンサーではそれがどこまで行き渡っているかわかりませんけれども、私たちは徹底的に訓練を受けていて、例えば、ささやいていてもきちんと「あいうえお」がわかるような訓練を受けてきたものの立場として参加させてもらっているわけです。私は、そこに興味深いものがあるだろうと思っています。公式な司会文のようなもののフォーマットでは男性も女性もない、だから日本語とジェンダーの学会としてはこういうこともおもしろいかもしれないと思っています。

日本語の美しさとしてのジェンダー表現

見城:もう一つは、私は今建築を研究していますが、なぜ建築かというと、私は日本人論をやりたいと思ったわけです。日本人論と日本文化論を。例えば、日本では履物を脱いで上がるわけです。なぜ履物を脱ぐのか、欧米はなぜ履物を脱がないのか、そういう違いから住空間がどのように区切られているのか、区切られている住空間が日本人の接客ですとか、言葉の意味でも人をどのように受け入れ、奥まで受け入れるまでにどのような空間を作っているのかについて、内と外の問題とか、中と奥の区分とかそういった対人関係を研究しておりますので、日本のよさを追求してみたいと思っています。
その意味で、私が日本語ジェンダー学会に参加させていただくのは、日本語が持つよさというのがあるはずで、それがあらゆることをジェンダーが不平等だとして切り捨てられる前に日本語ジェンダー学会を立ち上げて、言葉の歴史であるとか、本当にこれが日本の文化であり歴史を積んできた表現であるといったことを構築したい、それがないままにジェンダーの勢いで、これは差別ではないか、女言葉なんか使うことがおかしいと、女ことばを使っていること自体に差別があるとする動きがありますね。それは必要なことかもしれないけれども、それは差別ではなく、男と女という言葉があるように、差別しているわけではないということをはっきり打ち出せたら、それは次の世代、もう、21世紀になりましたけれども、次世代にとって重要だと思います。子供たちの世代は、かえって平等ということを表すために、女の子らしいことを全部否定するんです。友達同士で暗号や記号と同じで同じ記号を使わなければかみ合わない、リンクしないので、大変乱暴なひどい言葉を使います。男言葉でもひどい言葉を使います。それがお互いの記号で、それをつかわなければならないということです。
それともう一つこの学会で、大事だろうと思いますのは、I-モードによるコンタクトになりましたから、どうしても限られた文章の中に昔の電文とまではいきませんけれども、より暗号記号的な、「いく」「いけ」「わかったか」といったような、本当にそのようなコミュニケーションがあります。
笠原:語尾がありませんね。
見城:ですから、それがもう一つのコミュニケーションとして大きいから、差別だ区別だという前に、言葉の性差が消えてしまうかもしれないんです。
佐々木:今おっしゃったことに関連して、絵文字ですね。日本語のメールで絵文字が多用されるということは、どこかにやさしいコミュニケーションを保ちたいという日本人の気持ちがあの狭い空間の中に絵文字を出すことにつながっているように思います。川端康成の小説の会話に出てくるようなたくさんの終助詞は、もう現代の会話では使われません。しかし、相手への配慮や思いやりを文末に持つ日本語は、メールの普及の中でも生き残っていると思うのです。ジェンダー差があるのか、あるとすれば、どのような絵文字が使われて、それはなぜなのかということも、この学会で問題にすることができるのではないでしょうか。
見城:この学会が立ち上がって、これは文化だということを伝えるために、この学会に参加させていただいたわけです。

作られた言葉としての標準語

日置:同じようなことを昨日留学生としゃべっていて気づきました。留学生はごく最近入試の口頭試問を受けたのですが、その学生が口頭試問の時に、関西弁の先生に試問を受けて、それがわからないというんです。それは「無理ないよ」といってやっているときに、気づいたのは、やはり標準語というのは作られた言葉で、フォーマルにこう設定するという、するとその言葉自体はあらゆるところでニュートラルであろうとする。先ほど見城先生がいわれたように、ジェンダー的にニュートラルであるというのはまさしく作られた言葉であるわけです。ですから、その意味では標準語と言うよりは「公式語」という地域語あるいは、特定の場面での集団語といった扱いをして研究する必要があるのではないでしょうか。
生活の中で普通にその言葉を使うわけではなく、特定のシチュエーションの時にその言葉を使うんだということを留学生に教えた方が親切なのだということがわかるわけです。
佐々木:公式の言葉を使うという場面がどこなんだということでジェネレーション・ギャップがでているんだと思います。ジェネレーションが高い人がここは公式だと思っていても、若い人が公式だとは思わないということが起きているために、ギャップが起きていることがあります。また、上下関係や先輩後輩の関係、内外の関係によって、「公式語」が使い分けられるという点も、留学生には難しいようですね。指導教官の先生にフランクに「よう、元気」と声をかけられたので、留学生が「よう、先生も元気」と問い返したら、相手の先生に「日本語の先生にちゃんと言葉の使い方を教わりなさい」と言われたという。ブラジルの女性ですが、非常に不思議そうに質問にきましたね。ここではいくつかの問題が重層的にある。「よう」という間投詞は女性はあまり使わない、たとえ男性でも目上の人に対してはこのような表現は使わない、先生がフランクに話しかけても、学生は丁寧に答えなければならない、もっとも、「3年B組金八先生」なら、話は別ですが。
日置:ですから、生活の中ではジェンダーというのは生きているんだけれども、それを無理やり否定しなければならないから、非常に不自然な言葉を使うようになる。そういった側面も、この学会で議論すべき重要なポイントになっているのではないかと思います。
佐々木:そうですね。さっき、見城先生がいわれた女の子が調子を合わせるために悪い言葉を使うというのも、ある種の公式語になってしまっているんですね。
見城:そのジェネレーションの公式語ですね。
日置:共通語なのか公式語なのか。

「男らしい」言葉、「女らしい」言葉とは?

佐々木:共通語ですね。まあ、スパイの暗号のようなものですね。そのグループにはいるためにはその言葉を使わなければならない。それが大人から見ると、女の子なのに男の言葉に合わせているということになる。男の子の言葉に合わせるのはどこか日本の社会では、「男なのに」という言葉があるように、女の子の方が男の子に合わせる。で、男性が女性に近づくことに対しては批判的な空気が強いんですよね。男のくせに女の言葉を使うと。子供の世界でも本当だったら、両方から歩み寄っていくべきもので、女の子が男の子の言葉を使わなくても、ニュートラルな表現にすればよいと思うのですが、その背景には、見えない力関係があるからでしょう。やはり、男言葉を使う男が権力構造を握っているから、同じ立場になるためには、女の子も「男言葉」を使わざるをえないという。一概に否定できない社会構造が子供の社会にもあり、それはまさしく大人の社会構造の鏡なのですけれどね。
見城:今、男女共同参画社会でしょう。十二年前ですか、1988年に男女雇用機会均等法を作るときに参加させてもらったのですが、そのときからの基本が、「男らしく」「女らしく」という育て方をやめましょうというのが標語の基本なんですね。私はさんざん抵抗したのですが、男の子が女らしかろうと、女の子が男らしかろうと、それが個性なのだから、かえって男らしく女らしくという育て方をやめましょうということ自体が非常におかしいと。中性というのはないんだから、男と女が雄と雌があるようにあるのだから、男の子が女っぽいかもしれないし、女の子が男っぽいということがあるかもしれないけれども、そのこと自体を出すと得体の知れない、女らしくもない、男らしくもない、子育てがそういうものを作らなければならないということになる、だからこれは非常に問題だといったんですが、延々とこれは語り継がれているんですよ。十年たって、男女雇用均等法が改正になっても、今男女共同参画型社会になっても、まだ、講演の最初に説明されるときにこれがでてくるんです。「男らしく、女らしく育てるのをやめましょう」と。
佐々木:そこで、男らしく、女らしくというのは何かといえば、その辺から正に男女役割分担の意識に縛られた発想なんですけれどね。
見城:それこそステレオタイプ的な男を想定し、ステレオタイプ的な女を想定しているでしょう。でも、仕事をしていたら、私たち、だんだん違ってきますよね。その人個人の魅力で考えるようになってきますね。
佐々木:基盤はあくまで個人ですけれども、その人が属するソサエティですよね。
見城:ただこういうことがスタートに語られるんですよね。だから、その波に乗れば、日本語の男言葉、女言葉というのもそこに振り分けられるんですよね。これは男らしく女らしくという範疇であるというように、ということでは、すぐジェンダーの問題として不平等の問題となっていくかもしれない。そういう意味でもこの日本語ジェンダー学会が表現としての女言葉は別に虐げられた言葉ではないということが明らかになるだけでも大きな成果だと思います。今までそういうことを吟味している人がいなかった。
佐々木:でも私の立場がちょっと違うのは、例えば、「雄々しい」という言葉が、どういうことを想定して日本人が言って来ているのか、日本語の背後にある文化意識を見ていきたいということを取り上げたいのであって、差別ということを問題にしたいというのではないという点ですね。
見城:そこをはっきりしないと、ジェンダーを専門にする方が入っていらして、差別を前提とした議論をされると混乱しますから。

言葉の社会的背景を見つめる

佐々木:この学会の方針は明確に打ち出す。でも、多様な考え方があってよいと思うのです。差別だけをとりあげるのではない、でも「なぜ違いがあるのか」はどこかで差別につながるかもしれない。例えば、「細君」という言葉がある、現在もうほとんど使われなくなっていますが、私の父は「彼の細君どうしているかな」などとまだ使っています。語彙を自分のものとするときに身に付けた言葉は、たとえ80になろうと90になろうと、変らない。だから言葉の研究はおもしろいと思うのです。考えてみれば面白い言葉ですよね。「細い君」だなんて。また、女性で頭のいい人が才女とか才媛といわれて、男性の頭の良い人は「才男」ではなく、秀才という、なぜ、女性にだけ「才媛・才女」という言葉が存在するのか。そういった点を考えていくことは、差別を論じるのではなく、日本の社会の倫理観を知る上で必要だと思います。
見城:今のことは重要ですね。差別ではなく、言語の背景にあるものを捉えていく、それを研究成果として世に出していく。
日置:社会の反映というのは、社会を反映して言葉が使われているのはもちろんのことなのだけれども、その言葉をなくしたからと言って社会的現実がなくなるわけではないと、それを的確に表現して議論していくためにも、言葉はむしろ適切に掘り起こされないといけないと言うことですね。
佐々木:先ほど、服装は問題にしないといいましたけれども、例えば、「脱帽」という表現がある。「今の見城先生の生き方には脱帽だわ」といったりするわけですけれど、「女性がこの表現を使うことに違和感を覚える」と年配の男性教授から言われたことがあります。「脱帽」というのは男性専用の語彙なのか、日本の洋装の歴史やマナーとも関係があると思うし、また英語の影響もあるわけですね。こういったところにもジェンダーが入ってくると思うので、日本語表現を考えていくときに服装の問題も入ってきていいわけです。そうすると、先ほどの住まいの言葉とか、いろいろなところで日本語の中に入ってくるわけです。差別ではなく、現実を見つめながらというところを押さえておけばいいわけです。
日置:私はそこで公式語というジャンルを考えるべきだと思うのですが、公式語ではなく生活に密着したところでこのような用法がある、それを脱却するために公式語はこういうように設定されているといったところにもジェンダーが反映されているのではないでしょうか。
見城:それでは公式語と日常語というような形で捉えられますか。
佐々木:でもどこまで公式語とするか、例えば、「大黒柱」という言葉は公式語になり得ますよね。大黒柱というときは、普通は男性を考えると思うんですよね。
見城:総合司会などをするときに、大黒柱というのは入ってこない言葉ですね。どうも感覚でしかいえないんですけれども、長年やっていると、これはこういう公式の時に使わないという振り分けがあるんですよ。それを網羅したことはないんですけれども、ここでは使うべきではないというのがあるんですよ。
佐々木:ただ、新聞なんかのトピックではずいぶん使われているんです。
笠原:経済関係の話題ですとわざとそういう言葉を使って表現する傾向があるようです。例えば、新会社の社長は大黒柱だというような普通の言葉ではなく、それによって彼の個性を出そうといったときに使います。
佐々木:女性にも大黒柱といえるんですね。私は『女と男の日本語辞典』という本で、女性が大黒柱として取り上げられているケースをいろんな小説や新聞から集めてみました。このような研究をこれからもこの学会を通して続けていきたいと思っています。「大黒柱」の使用上の解釈については、その人の属する社会によって異なるのは当然でしょうね。

敬称語のジェンダー

笠原:私が感じているのは、敬称語がずいぶん変わってきたなということです。例えば、見城美枝子「女史」とつけるのは今もうほとんどないですよね。
見城:もうさすがになくなりました。
笠原:少し古い資料ですが、女優、女子大生など、女性という言葉をわざわざ付けた「女性冠詞」は、1991年の調査で、「男性冠詞」の7倍、新聞などでは使われていたそうです。
しかし、80年代以降、男性と区別しない表現を求める傾向が強まり、だんだん女性を強調する表現は減ってきています。もちろん、この背景には、ことさら女性の性ばかりに焦点をあてた記事や取り上げ方を改めるよう求めてきたさまざまな運動があったことはいうまでもありません。そして、1997年には、『共同通信ハンドブック(これは、記者などのための記事マニュアルです)』で、初めて、性差別の項目がとりあげられました。このような表現はこれに言い換えるという「言葉狩り」ではなく、基本的には男女平等原則を示すことを明記したことは、画期的なことだったと思います。「女性を強調しない」「男女の敬称は統一する」などという姿勢はいまでは、かなり定着しているといえるのではないでしょうか。
この流れのなかで、「女史」という表現もなくなっていったのだと思います。私の仕事のなかでも、例えば、誰かにお世話になったというときに十五年、二十年前は、女性の名前の後に氏をつけるのはなんとなく落ち着かないし、抵抗があったんですが、今はもうごく普通のことになっています。
では、アメリカのメディアではどうなのかというと、ご存知のとおり、Equal Right Amendment(性差別撤廃運動)で大きく変わりました。ポイントとしては、いくつかあげることができます。まず、無性語化ということがいえます。たとえば、スチュワーデスをキャビン・アテンダントと言い換えた例などがこの例にあたります。ただしこの言い換えもやりすぎるとジョークのネタにまでなってしまうので、現在はかなり常識的なところにおさまっているようです。
ちなみに『AP Stylebook(これも記者の執筆マニュアルです)』によれば、中性的な表現のchairpersonは、むしろあまり使われておらず、語り手が男性ならchairman、女性ならchairwomanを使うことをすすめています。もちろん、mankindやhumanityという言葉がmanを使っていると言って、使えないということはありません。また既婚か未婚か、子どもがいるかどうかも職業と関係がなければ、記事であえて触れません。代名詞で示す場合もtaxpayerを常にheで受けることはせず、theyを使うということにも言及しています。一つ一つは地味なことですが、この積み重ねが意識改革へと結びついて、性差別撤廃の運動を定着させてゆくことになったのだと思います。そのなかで、ではいままでなじんでいた、例えばサンガー「女史」を、これを差別表現だと言って、「氏」にする必要はないでしょうね。
佐々木:例えば、キュリー夫人とか「夫人」になってしまっているわけですよね。キュリー氏では、別の人をさしているような印象を与える。
笠原:でも、ヒラリー夫人が大統領になると「夫人」ではなくなるわけですね。
佐々木:「夫人」か「氏」かという運動があったんですか。私は「氏」に関しては知りませんでした。
見城:いやある日私などは、「見城さん」から「見城氏」となっていたんでちょっとびっくりした覚えがあります。新聞でもそうですね。ある時期からですね。
日置:それはルールが変わったというのではないですか、新聞や報道の。容疑者というのがつくようになったでしょう、あれとほぼ時期を同じにしているのではないでしょうか。
佐々木:もう一つ、紳士録というのがあって、紳士録に載せたいと言ってきたので、「私は紳士じゃありませんから」と申し上げたんです。今は女性の方も随分のっておられますということでしたが、これも名称の変更はいつかあるのでしょうか。
笠原:あれはたぶん書名なので、ジェンダーと関係ないかもしれません。
佐々木:書名といえば書名ですが、やはり社会で活躍する男性にあわせてつくられたものが、社会が変化し、女性も載るようになった。しかし書名だから変えられないと言う状況なのではないかと思います。いつ頃から女性が載る用になったのか、初版にも女性は載っていたのか、うかがってみたい気がします。
ところで、相手の性が分からないときに、英語では「ミスター」にすることが多いようですね。
笠原:それはわからないからです。氏と同じ発想かなと思います。
見城:外国から送ってくる場合でしょ。だから、どちらかわからないからですか。日本でも「しげみ」さんとか「かおる」さんとかだとわからないから。
佐々木:それでミスターに合わせる。じゃなぜミスターに合わせるのか。ここにも「マンカインド」と同じ発想が働いていると思うんですが。
笠原:それで、中にはミズをバーレンに入れてくるというのもあります。こちらの名前を見ても男性か女性かわからないから、それで。
佐々木:外国の場合にはわからないことが多いですよ。私も、メールの交換でフィンランドの人をずっと男性だと思っていたら、電話をして初めて女性だということがわかったということがあります。

「くん」、「さん」、呼び捨て

笠原:職場でも、男性の年若い人を女性が呼びつけにすることはだめだという会社がまだあるのではありませんか。女性の先輩であっても、男性を呼びつけにすることはだめで、「さん」をつけて呼ぶわけです。後輩でも男性を「くん」と呼ぶことには、最近まで抵抗のある会社は、歴史の古い企業では結構あったように思うのですが、どうでしょう。
日置:それは会社ごとにローカルですよ。
佐々木:それは、会社だけではなく、私たちの子供の頃にも男の子は女の子を呼びつけにして、女の子は男の子に「くん」をつけている。
見城:今それは逆になっていますね。私の中学生の子が小学校の時から驚いたのですが、全部お互い呼び捨て、「小川」「山田」。会話の中でもですよ。「小川がこういったじゃん」「うそうそ、あれは山田がいった」。で、「あなた達、クンつけたら」といったら、向こうも「小川とかいっているから、何でそれが悪いの」と聞かれてしまったんですよ。ですから私たちが平等と論じる以前に変わっているんですね。相手をまた、小学校時代に「山田」といっていると、その後にくる言葉も違ってくると思うんです。山田君といった後ならば、「~してほしいんだけど」というようになると思うんですが、「山田」といった後になると、「山田、してよ」となると思うんです。
佐々木:ただ、それは仲間としてやっているので、一対一になったときにはその女の子は変わっていくと思うんです。なんとかくんとか、なんとかちゃんというようになると思います。集団の世界では共通語であっても、一対一の付き合いの場合は言語様式も異なってくるのでは。
見城:企業社会でも若手はそういう感じなんですよ。それでいつ変わるか。
佐々木:パーソナルな関係になったときにうちの娘もそうですよね。仲間と話すときは呼び捨てですけども、一対一になったときに個人的な関係になると言葉が変わります。
日置:標準語は両方に対して「さん」を要求しますね。
笠原:今はもう「さん」で統一で、「くん」はないんですよね。
佐々木:企業だけではなくて、NHKでも出演すると年輩の先生でも何でも、「さん」になっていますね。

ユニセックス化

笠原:むしろ最近では、男性の女性化、ユニセックス化の傾向がかなり増えているようです。「女が見た○○」などという表現は、もう本のタイトルにもありません。むしろ、男の主婦、男の保母、男の看護婦という表現が増えていて、男の料理や料理教室などが見出しになって、「男でも」が強調されています。
見城:今は何が時代の言葉を先導しているのかというのが大きいと思うんです。子供たちにとってけっこう大きいと思うのが、テレビなんですね。テレビドラマですね。本当に一つのパターンがあって、今私は青少年のテレビの番組に関する委員会に入っていてそこで対象になるのですが、一つのパターンができているんです。女の子が強くでほとんど男の形になるんです。きつい、ピシパシして、それに男の子がウルウルして、眼の中にハートが入るような形で、だったら僕はすべてをやってあげようということになるんです。騎士道になるんです。そこでのパターンはこれだけ気を張ってやってきた女の子が、包み込んでくれる男の子に出会って、本当は肩のパットも取りたかった、本来の弱さを見せるというパターンがあって、それがアニメーションになるんです。アニメーションもパターン化して、必ず一人、女の子でジャンヌダルクみたいな子がいて。
佐々木:アニメの主人公足たちの言動は、読者である子供たちにある種の価値観を与えますからね。そういう意味でも、子供たちがどのような主人公に惹かれ、そこではどんな言葉がかわされているのか、ジェンダーがどのように表現されているのか、ストーリー展開と合わせて研究していく必要がありますね。
見城:若い世代があこがれということでは、態度と言葉、所作、立ち居振る舞いということはそこから学ぶわけです。だから、日本語が男言葉がかっこよさとか自立とかキーワードになっていることもきちんと研究できたらと思うんです。それが本当の意味での女性の強さとか自立につながっていくかどうかを含めて、言葉は大きな存在ではないかと思うんです。
日置:それは言ってみれば行動モデルのようなものですね。それが生み出す力というのがない方が楽に生きていけるのではないかという側面もあるのですね。これは、議論になるところだと思いますが、モデルがあった方がいいというのは、例えば女性管理職ですね。これまで女性管理職のモデルがなく、いわゆる「女の子」という働き方のモデル以外に組織行動のモデルがなく、総合職ができてからどういう風に働いていいかというと、管理職になった第一世代の人たちは、いわゆる「男勝り」という、男以上にという働き方だったわけです。影山裕子さんとか加藤富子さんの世代は本当に男勝りという行動様式だったわけです。それがもう少ししてくると、女性であっても女性らしさを出してくるようになります。それが、総合職ができて、管理職への登用が開けてきたときに、どういう人がモデルになるかというと、モデルがいないということになります。それは非常に不幸なことで、女性総合職が定着しない一つの原因でもあるということになります。女性一般のいわゆるOLとして、人から依頼された仕事をするという事務補助職の役割もしなければならないし、リーダーにもならなければいけないという矛盾した役割を押しつけられて、総合職はどうしたらいいかわからないというモデル喪失の状態になります。
佐々木:行動モデルというのは制服と同じですよね。制服があれば制約になるけれども、制服がなければ何を着ていいかわからないという状態ですね。女性の管理職の場合、モデルが少なく、たとえば国連事務官をされた緒方さんのようになりたいとか、今女性のリーダーのモデルが求められています。先ほどのテレビドラマの場合は明らかに女性のリーダーのモデルを作ろうという意識が背後にあり、そのモデルを作ろうとしているのが男性であればかなり男性側のバイアスのかかったモデルが誕生するのではありませんか。もちろん、作者が女性の場合も、その人の価値観によってモデルの思考や行動が左右されるわけですが。
ある出版社の広告ですが、今非常にもてはやされている女性タレントの、女性らしさの部分を残しておいて後はナイトの服装をさせている。ジャンヌダルクを連想させ、男性はつい、彼女の後についていきたくなるかもしれない。そういう意味で広告の果たす役割は大きいですね。ここにもコミュニケーション機能は働いている。男性のナイトの服装をしているタレントが、他のコマーシャルでは、スカートから美しい足を見せたりしている。そこに、日本社会の望む女性らしさのスタイルがあると思うんです。どんなに男性的な格好をしていても女性らしさは残しておいてほしいという願望がそれになっていると思うんです。総合職も男性と一緒にやっていく上で、個人個人が試行錯誤しながらやるとしたら、その辺が落ち着く場所ではないかなと思います。それはさっきのテレビドラマのモデル像とも結びつくのではないでしょうか。
日置:ある意味では、リーダーとか組織行動というのはあるパターンに入った方がやりやすいんですね。お互いに、上司もやりやすいし、部下もやりやすい。
笠原:そうですね。いちいち判断しなくてもいいから。
佐々木:ただ、そのリーダー像をどう作るかと、どんな組織行動が望まれるか(望むか)が、ジェンダーと大いにかかわってくるのではありませんか。そして、そのジェンダーの基本にはノンバーバルも含めてコミュニケーションがある。やはり、われわれの学会としては、この辺をじっくり研究したいと思うのですが。
見城:これは大事なことだと思うんですが、女性の側に立って考えることでもないし、男性の側に立っていうわけでもないのですが、ジェンダーとつくと女性がもともと被害者であって、この被害を掘り起こして、全部男性に返上していこうという考えがあるんですけれども、それが私には本当に不思議なんですよ。日本語ジェンダーというのは、別に日本語の中に女性が虐げられてきた歴史の日本語の女らしい言葉があるということを最初からとらえているのではないということを明確にしませんとおかしいですよ。時代錯誤ですよ。
佐々木:そうですね。アメリカで例えば、大学に黒人の方を10%入れなければいけないとか、女性も10%入れなければならないとか、それと同じになってしまいますね。要するに逆差別になるわけです。女性がそれだけ力がないからもっと入れてあげようというのは、本当に力を付けていくつもりなら、男性と同じ立場であればいいのです。でも現実の問題としては、○○審議会などの会議でも、女性は本当に数パーセント、時代錯誤といえないところもあるんですよね。
また、男性の立場にたって考えると、行動モデルがあるゆえに、それに拘束されてしまうということもある。先日、指宿で特攻隊の若き隊員たちの写真を見たのですが、彼らはなんと輝いている表情をしていることか、妙に感心してしまいました。当時の行動モデルにそって行動していた彼らは、エリートであり、英霊となったわけですから。その時に現代の行動モデルの一人である、キムタクのような青年は落ちこぼれであったかもしれません。三島由紀夫だって病弱な少年時代と、彼の中にある種の行動モデルがあったから、ボディビルをし、あのような死を選んだのであって、もし、数十年後に生まれていたら、まったく別の人生を歩んでいたと思う。当時青年に求められていた行動モデルは何か、どんな言葉で語られていたのか、男性と女性それぞれに求められていたものは何か、現代との違いは何かなど、興味はつきません。

男性学の視点

日置:門倉さんの方からも、この学会へのアプローチをお聞かせください。
門倉:私の場合は、一つは、今の流れで行くと「男性学」という発想ですね。「男性学」は日本では、80年代に入ってから女性学に触発された形で出てきたわけですけど、「男性学」の視点から日本語表現のジェンダー性を考えてみたいと思っています。例えば、男らしさとして男性にとっての規範とされていることに言語現象がどういうように絡まっているのかということです。
いろいろな側面がありますが、例えば、男はあまりおしゃべりではない方がいいというのがありますよね。そこら辺のところからも、男が言語現象に関して負わされている規範がかなりいろいろな形であって、男がそれを引き受けることでどういうようなゆがみが出ているのかというのも一つの尺度としてあると思うんです。
もう一つは言語現象という範囲をどのように定めるかがはじめに話題になりましたが、佐々木さんの『女と男の日本語辞典』の場合の関心事は語彙ですよね。
佐々木:語彙というよりも名詞ですね。
門倉:そうした語彙ももちろん重要なんですが、もう少し談話レベルというか、ディスコースとか文体論でも日本語ジェンダーという切り口があると思います。よく言われるのは平仮名の文化というのを女性が継承して育ててきたのに対して、男は漢字の文化を生きてきています。現在の社会でいえば、おもしろいことに、カタカナ語は男の文化だと思うんです。役人や学者がカタカナ語を使いたがるのは、前近代の漢字文化の男性性と通じているところがあると思います。
また、先ほどの「公式語」はジェンダーレスになっているという見城さんの指摘はおもしろかったし、その通りだと思うのですが、ジェンダーレスというのは実は男の言葉としてのジェンダーレスではないかと思います。英語のmanが男をさすと同時に人間全体をも指しているところに表れているように、男の公式のジェンダーがジェンダーレスという一般性になっているのではないでしょうか。
見城:男の人がスタンダードなんです。だから、公式な司会をする時に、「あら、どうしましょう」というような女の子の言葉が出たら資格がなくなるわけです。タキシードをいるようなものですね。形で示す。
門倉:公式語がジェンダーレスであることは基本的な認識として重要なことだし、大切な点だと思うのですが、伝統的には男の文化がジェンダーレスなものとなって公的な権威を帯びてくるのではないかと思います。それは笠原さんの世界、新聞にしてもメディアにしても幅広くあるんですが、官庁用語にしてもそうだし、あるいはフェミニズムの人たちがいっているように学問の言葉、学問の言葉も男の言葉であって、上野千鶴子さんが「私は学問の世界では男の言葉で勝負してきました」というのは当たっている。このように、文体論レベルで見た時に幅広い言語現象をとらえることができると思います。
見城:私はいつも思うんですけど、逆のことを考えると、男の人には男そのものの言葉がないのかもしれない。
佐々木:そう、女は両方持っている。
見城:佐々木先生は今日、パンツでしょう。全く大丈夫でしょう。私の方はスカートです。両方大丈夫なんです。門倉先生がスカートはいたらやっぱり。
門倉:スコットランドならば。
見城:スコットランドなら大丈夫でしょうけど。言葉の世界でも、これは男の言語なんだといえるのかどうか。基本は私たちの言語なんだけれども、さらに女はそこに遊びの言語を女だけの言語をもう一つ持ったかもしれない。
門倉:それは私も同感なんです。たしかに男の方が単一の言語体系しかもってないですね。それから、先ほどの日置さんの標準語についての議論で私が感じるのは、私は東京で生まれ育ったので「東京語=擬似標準語」という単一の言語しか習得していないという点です。私は、いわば「男」と「東京語母語話者」として、二重に単一な言語世界しか知らないような気がしているんです。

声の高さ、再論

[ここで、国広氏が到着して話題に参加した。]
日置:先ほど、日本の男性は公式の場で声が高くなるかどうかが話題となっていたのですが、国広先生はこの点をいかがお考えですか。
国広:男性でも緊張すれば高くなりますよね。
佐々木:ああ、やっぱり高くなるんですか。
国広:なります、なります。
日置:緊張を装うという文化現象かもしれない。それで高くする方がフォーマルになるのではないかといっていたわけです。
国広:それはその通りですね。丁寧さの現れとして上げているわけです。ですから電話を掛ける時に、偉い人に掛ける時には上げています。
門倉:男性でもですか。
国広:「男性が」です。女性は女性なりに上がりますね。
佐々木:女性の方があがるかもしれませんけれども
日置:留学生が日本語でしゃべる時にも、台湾からの学生が僕としゃべる時の声の調子と、友人同士で中国語でしゃべる時の声の調子が違うというのも、そういうマナーを身につけたのではないかと思うのですが。
国広:そうですね。丁寧さの現れでしょうね。
門倉:それは気がつきませんでしたね。自分の声が公式の場であがっているとは。
国広:それは昔から私はいっていて、書き物にもしています。また、それは文化によっても違う。アメリカと日本で違う。
日置:韓国の研究者がいっていたのは、韓国では逆に声を低く、ゆっくりしゃべることが丁寧さの現れだということです。
国広:ほう、それは逆ですね。日本では声を低くすると尊大に構えているという印象を与えるわけですね。
日置:では、国広先生からも、この学会への関心の所在についてお話しください。
国広:私は言語学ですから、非常にニュートラルな立場で、男女差があってもなくても現実を観察し記述するということで、なかなか価値判断まで行かないわけですね。今度のシンポジウムでは、形容詞は女性専用の形容詞をとらえていこうとしています。容詞だけを集めた辞書がありますが、そこにこれは女性について使うと書いてある。それをピックアップして集めると何かしゃべれるだろうと思っています。

ミスター、ミズ、呼び捨て

佐々木:先ほど、英語で手紙が来る時に、性別がわからない時にはミスターにしているという話が出ました。
国広:手紙のアドレスですね。これは日米でいろいろなところで違います。何もつけないというのもあります。
佐々木:失礼ですよね。
国広:いや、失礼じゃないです。
佐々木:はじめてもらったのに、ミスター(Mr.)もミズ(Ms)もないから怒った人がいますよ。
国広:それは日本人の受け取り方です。英語的にはニュートラルですから、必ずしも・・・
佐々木:昔からなんですか?
国広:いや、昔というより、ビジネスレターの場合にないことがありますね。ミズが出てくる前からあります。称号というのは英語の場合、なくてもそれほど衝撃を与えない。それはふつうの言葉の上で英語の命令形は裸の命令形でかなり使うわけです。'Come here.'は裸の命令形でしょう。日本語では「こい」とかいう命令形は使えないわけです。
佐々木:そうですね。そういえば、ステュワーデスも英語では'Coffee or tea?' で済むのに、日本語だと「コーヒーになさいますか、お茶になさいますか」と言わなければならなくて、「コーヒー?お茶?」と言えないというのと似ていますね。ただ先ほどのミスターもミズもつけないというのはビジネスではなく、個人の場合も昔からあるのですか?
国広:個人的には、相手を知っていますから、つけないのはないです。相手がわからない時です
佐々木:でも今は、個人で知っていてもつけないですよ、学生たち。
国広:そうですよ。メールではなく、手紙でイギリス人なんかでも学生同士できますね、そうするとついてないんですよ。ミスターもミズも。それで、それはおかしいんじゃないかと聞くと、今はそうだというんです。
国広:呼びかけでも彼らはファーストネームを使いますよね。日本では使いませんよね。呼び捨ては絶対できませんね。

ジェンダーレスな標準語

日置:先ほどの標準語についての議論に話を戻しますと、標準語は非常に人工的に作られた言葉で、ジェンダーに対してニュートラルな言葉をフォーマルな場面では使う、標準語という言い方ではなく公式語というローカルな言葉を考えることができるのではないか、逆にそれを手がかりにしてジェンダーを考えることができるのではないか。公式語という枠組みを設定することによって今まで説明できなかった現象が説明できるのではないかというわけです。
佐々木:たとえば、女言葉を排して男言葉を使っているわけではなく、男の人も男言葉を使っているわけではなくて、ここでの話し合いは公式語として・・・
国広:公式語というよりは共通語ですよね。
佐々木:共通語というとまたジェネレーションとか女性と男性のなかでの共通語というようになりますが。例えば、私が笠原さんと電車の中で二人になったらまた違う話し方をすると思うんです。
日置:ですから、共通基盤というものを棚上げにしてという特殊な用法があって、それを公式語と呼ぼうというわけです。
佐々木:あるいはシチュエーションによってどういうように変えるかということです。
国広:「公式語」というアイデアは、なんか良さそうですね。共通語と違って、ニュートラルな特徴を含めて、男女差をできるだけ押さえる、丁寧さを丁寧なレベルで押さえる、そして方言差はなくなって共通語になるわけですね。
関西地方の留学生は関西弁を使っているんだろうかということはどうでしょう。関西弁を学んでいるのだろうか。
日置:結果的には学びます。私は京都大学の前は九州大学だったんですが、だいたい九州大学に来る留学生は最初の一年半ぐらいまではきれいな標準語を使っているんですが、それが日常生活では通用しないということがわかってきて、だんだん崩れてきて、三年もたつと立派な九州弁になってきます。
佐々木:今の日本語教育の場合、最初の一年ぐらいは「です」「ます」で教えるんです。日本に一年いるうちに学生たちは日本人学生と接しますから、「です」「ます」では通用しないということがわかって、普通のくだけた表現を身につけていって、それからやっと地方の方言というので日本語教育の一つの過程と一致しています。
国広:そうすると二重言語になってしまうんですよ。
佐々木:そうですね、二重三重ですね。特に女性の場合には女言葉を覚えるとなると何重にもなるでしょう。
国広:英語でもそうです。日本で英語を学んでいる人は一本槍じゃないでしょうか。実際暮らしているとそれじゃいけないんですよ。実際の経験で身に付いてしまうんです。しばらく住んでいるとくだけた言い方が身に付いて、ざっくばらんな言い方をどんどんするようになって、主語動詞がそろっていない言い方をするようになります。スタイルが違うんですけど必要でしょうね。
佐々木:ですからそういう意味で日本語は非常に奥が深いんでしょうね。あらゆる言語現象をこの学会の問題意識として取り上げるということで一致したんですが、相づちとかノンバーバルなものも取り上げるということで、それで声の高さなども問題としたわけです。今回この学会に関心を持って集まる方たちに男性も入っていただければと思っています。 というのは、女性だけで集まっても、弱者が集まって叫んでいるようになってもいけないので、なるべく男性もと思っているのですが。

ジェンダーの生理と心理

国広:男性は大学生では今は「くん」で呼んでいるんでしょう。
佐々木:大学生はどうでしょうね。さきほど話題に出たのですが、今の子供たちは呼び捨てにしているようですね。小学生は女の子でも呼び捨てのようです。自分のことを「僕」という女の子も増えていますね。「僕」といわないと、男の子と同格ではないと思うのか。
国広:これはかなり複雑な問題で、その人の生理的な特徴からスタートしないと。私の孫娘がいまして、それが幼稚園の頃、「僕」といっていたんです。「僕、藤井フミヤだよ」なんて。そしてですね、今中学生になって年頃になると男性っぽい女の子になってしまった。これは生まれつき何かあったんじゃないか。それは文化ではない。人間が男になるというのは生理的に決まるわけでしょう。最初は女で胎児になって、半数が途中で男に変わる。するとずれるんですね。体だけ男になって、心は女のまま、あるいは両方とも男になるといったようにいろいろある。
佐々木:社会・文化的な現象ではなく、生理的な現象としてとらえられるわけですね。でも、最近良く見る光景ですが、たとえば電車の中で明らかに体育系のクラブか何かに入っていると思われる女子高生たちが、そのような言葉で、女の子しかいないのに、「ぼくはよー」なんていっている、そういった現象をどうご覧になりますか。
国広:そういうスポーツ的な女性は男の要素が残っているんですよ。それは文化的なものではなく、生理学的な要素が入っているので、文化だけだと危ないんです。
佐々木:そうですか。私は、文化的な現象に含まれるんじゃないかと思うのですが。
国広:もちろん、含まれますよ。私自身の一生を振り返ってみても、私自身の自己診断では、男性100%ではなくて70%ぐらいしかないですよ。乱暴な言い方はしないですね。標準語の男言葉では「飯を食う」ですが、私はいままで「飯を食う」と言ったことはほとんどないですよ。やはりそれは女性的なところがじゃまをしているのではないかと思います。育ちではないです。
佐々木:私は行動ではかなり男性的な部分があると思うんですが、言葉では乱暴な言葉を使ったこともないし、使いたいとも思わないですね。たとえ、言い争いになってもそうはいかないですね。それは文化的なもので、自分の脳のどこかがストップをかけていて、あるいは、自分のものになっていないから、その言葉で叫んでも本気ではないということです。
国広:文化は強いですよ。割合の問題はありますけどね。
佐々木:それって、医学の立場からこの学会に入っていただくとおもしろいですね。どなたか、この学会に関心をもってくださるとよいのですが。
日置:生理的なレベルでジェンダーがどのように発現するかという問題も重要ですね。
佐々木:ええ、ジェンダーはどこまでが生理的でどこからが文化的か、境界があいまいですね。
国広:いわゆるニューハーフっていますでしょう。体は男なんだけれども、気持ちは完全に女なんです。それは生理的なものであって。
日置:生理的なレベルの上に心理的なレベルが乗っかるでしょう。心理的なレベルのものがどうなっているかというと、河合隼雄先生に同じ研究会で伺ったんですけれども、彼はユング派の心理学者だから、昔話を研究されるわけです。その中に異類婚という領域があります。人間と人間以外の異類が結婚するという話です。日本の昔話の異類婚というのは完全にパターンがあって、異類嫁というのは人間が異類を嫁取りして子供が生まれ、その嫁がある日異類の世界に戻ってしまう。信太の狐もそうですし羽衣伝説もそうですし、白鳥伝説と呼ばれているものがそうです。それでどうするかというと残された夫と子供が必死になって、妻を探して、なんとか連れ戻して末永く一緒に暮らしました、めでたしめでたしというパターンです。
これに対して異類婿は全然違うパターンです。異類婿の方は、猿婿取り、とか、河童婿取りなどがあるわけですが、どういう話かというと、例えば、日照りの時に必死になって田に水をやろうと思っていたがうまくいかない、誰がこれをすくってくれると娘を嫁にやるのになというと、河童がでてきて田に水を入れてくれる。嫁にやらなければいけないんだけれども、親はやりたくなくて悲しむわけです。すると娘が知恵を出して、ひょうたんを嫁入り道具だと言って、川の中にもっていけば嫁にいってやろうという。河童は必死になってひょうたんを川に沈めようとするけれども、浮かび上がってしまう。結局あきらめて、娘は嫁にいかずに幸せに暮らしました、それでめでたしめでたしなんですね。
佐々木:その類の民話は日本の各地に残っていますね。種子島に行ったときに見た資料にも同様のものがありました。これは民話のような実話だと思いますが、ポルトガル人が鉄砲をもってきますよね。そのとき種子島時隆という名前だと思いますが、どうしても鉄砲の作り方を知りたい、それで、鉄砲の鍛冶職人の16歳になる娘がいて、ポルトガル人に嫁がせるんです。鉄砲の作り方を教えてもらい、いざポルトガル人が帰国する段になると、どうしても、娘を異国の人に渡したくない。娘をなんとか日本に残したいので娘を尼さんにしてしまうんです。娘は尼になったからもうあなたとはポルトガルにいけないんだという。鉄砲の作り方だけは覚えて、娘はやらないというわけです。私はその話を聞いたときに、こんなストーリーをどこかで読んだことがあると思いました。それはまさしく異類婚のパターンだったんですね。
日置:要するに河合先生にいわせると、異類婚というのは婿の労働力を搾取して人間世界から放逐してしまう、そこで重要なことは放逐された婿が恨み辛みをいうのではなく、あきらめるということです。中には、猿婿取りの中で、人間にだまされて川に流されていく船の上で、辞世の歌を詠む。自分はこういうように非業の死を遂げていくけれども、残されたおまえたちは幸せに暮らしてくれ。河合先生にいわせると、これは現代日本の産業社会における男性の姿だというんです。
佐々木:なるほど。労働力を搾取され、「濡れ落ち葉」になっていく、まさに「差別」された男性の姿というわけですね。本当にそうかもしれませんね。そういう話が残ること自体が男性は労働力であり、女性は子供を生む人という役割分担が社会に支持されているからでしょうね。さっきの異類婚のお話でも女性は生んで育てて家を大きくしていくわけですよね。そのもとにあるのは女性が家を守るということですね。
日置:それで最後は、男は産業廃棄物として捨てられるわけです。そういう言ってみれば昔話で刷り込まれしまったジェンダーのパターンというのがあって、今それを下手に議論すると、これは逆にどうしても男性学を必要とするということになります。今女性の方が経済基盤としての財布のひもを握りしめていて、男はどうやって生きていくかというと労働力を提供するしか生きていけないということになる。ユング的にいえば、集団的無意識として刷り込まれていて、それが発現してジェンダーになる。すると、その自覚を持たなければ、気づかずにねじを巻かれているわけですから、巻かれたとおりに動いていると産業廃棄物が将来待っているということになるわけです。
佐々木:産業廃棄物にならないようにどうするかということですね。
日置:それが男性学の重要な課題になると思います。生理学的なものの上に、心理学的なものがのって、社会状況があって、具体的なビヘイビアとして発現してくる。われわれは、その一番上に乗った行動様式とか言語現象とかを見て判断しているわけですけれども、それがどこまで根のあるものかということはジェンダー論の中ではこれまでかなり希薄なんですね。そこのところまで行き着かなければならないんだけれども、ジェンダー論と心理学というのはこれまであまり接合されていなかったように思います。
佐々木:学問的な広がりと深まりによって、どんな風にこの学会が育っていくのか、楽しみです。そういう意味で認知心理学のアプローチだと今のは説明できるかもしれません。あるいは、遺伝学などでも、過去の記憶が残っている人がいるともいわれますね。すると、このような昔話の伝承もどこかでジェンダーとして、心理学以前に遺伝学としてあるというのも考えられますね。
国広:するとわれわれの学会は、当然日本文化論を巻き込まなければならないということになりますね。日本は母性的社会といわれていますね。女性が虐げられているというけれども本当はそうではないわけで。
佐々木:財布のひもしかりです。
国広:これは心理学的文化論的に解明してほしいんですが、私いつも疑問に思っているのですが、家内は私の給料を全部自分のものだと思っているんです。お金を私にわたすときには恵んでやると思っているんです。これは俺が稼いできたんだよと毎回いわなければ。
佐々木:それはともかくとして、生理学の上に、生物学、その上に心理学が乗っていて、その上に社会現象として言語とか、ジェンダーがあるというのはわれわれの課題になると思うので、それぞれの立場から、議論するといいですね。
日置:ジェンダー一般というか、ジェンダーの構造に目配りをしながら議論をしていかなければ、言葉の問題だけでは片づかないということですね。

イリイチのジェンダー論

門倉:日本語ジェンダー学会への私の一つのきっかけはイリイチの『ジェンダー』という作品で、かなり前に読んだのですが、おおざっぱにいえば近代という時代はジェンダーを破壊するプロセスだという見方ですね。もちろん、そういう破壊されている中にも日常生活の中にジェンダーの世界というのが、いかに近代化が進んでも、残り続けているということがでてくるわけですけれども、近代化の過程の中で、経済が一番大きいと思いますが、彼の問題意識の中では、医学、生理学とか、あるいは哲学の人間観とか、彼がほかに強調するのが教育制度ですが、さまざまな近代に成立した学問と政策とかが、彼の主張によれば、ジェンダーを破壊する基本概念を形成している、彼の用語ではキーワードというのですが、近代社会の中でのいろいろなことを説明するキーワードがすべてジェンダーレスになっていて、それが日常の中に浸透しているんだということで、あらゆる学問の根本的な概念のジェンダー世界からの再検討ということを提起しているという点で、この本はおもしろいと思います。
先ほどの日置さんの、生活世界の言葉と公式語の対比、ずれというのは非常に大きな重要な問題意識だと思いますが、その場合の生活世界の言葉というのは、ここでイリイチがジェンダーといっているような前近代の豊かさというのを近代化が高度に遂げられた日本の社会でも未だに保持されている、その全体的な世界の豊かさを掘り起こしていくことは重要な課題だと思います。
生活の中で使われている言葉の日常世界でのジェンダー表現の豊かさというのは、先ほどもちょっと言ったように、私は東京で生まれ育っているために、標準語しか自分の言葉としてないというところがあって、妻と話していると、彼女は福岡ですから、方言のもっている豊かさというのがあって、方言の方がジェンダーの世界を生き延びやすいということを強く感じます。もちろん、東京の言葉でも下町の言葉などにはそういう方言性が残っていると思うんですが、私の場合には父母が田舎から出てきたものですから、人工的な標準語の中で育ってしまったというモノリンガルな悲哀というのがあります。それに対して、方言世界を豊かに育ってきた人は、学校で習うことばと方言のバイリンガルになっていくというところがあると思います。
イリイチの言葉の中に非常におもしろい言葉があって、「教えられる母語」というんです。普通は母語というと教えられるものではなく、自然に赤ちゃんの時から母親との関わり合いで獲得していくものを母語というわけですけれども、「教えられる母語」とは学校で教えられる学校言語で、学校の国語の時間などで教えられる言語です。あるいは、最近の子供でいえば、テレビを通じて、中性的、ニュートラルな、ここでの言葉でいえば「公式語」を吸収していくということです。そういったときに、教わるのではなく自発的に獲得した母語が学校的な言葉で壊されていくという問題意識が私にはあって、本当の意味での「母の言葉」というのがジェンダーを色濃く残している言葉世界なのではないでしょうか。それに対して、公式の言葉や学問の言葉やメディアの言葉というのはすべて中性化している言葉といえます。
佐々木:私は昨日屋久島から帰ってきたところなんですが、向こうでは奥さんのことを「バキー」と呼ぶんです。バキーというのはなんのことか、ちょっと馬鹿に似ているので馬鹿にしているのではないかと思って調べたんです。すると、馬より貴いと書くんです。昔は馬が一番貴くで、それよりも貴い人が奥さんだからバキーと呼ぶと、そうすると価値観まで残っているわけで、母系社会だったんだなということがわかるわけです。それに対して学校で習う言葉にどんな豊かな意味があるというのか。意味を込めた言葉が残ることのできる社会が存在する必要があると思うんです。
門倉:でも、やっぱり学校で習う公式の言葉や知識体系を修得していないと偉くなれないんですね。企業社会で成り上がれない、そういう社会構造になっているんです。
日置:それを使いこなせることが共通のプラットホームを形成して、それが一種のリテラシーになるわけです。それを使いこなして、自己表現ができないと組織の中で昇進できない、いい大学に入れない、ちゃんと国語の点数がつけられるという世界になるわけですね。
佐々木:評価される世界の中で仕方なく捨てていくということですね。この学会では保っておきたいものがあれば、残しておきたい。
日置:できるだけネットを経由して広い地域にわたってアクセスできること、また広く情報を得ることが望ましいということは明らかです。

男性の言語表現の変化

笠原:最近オフィスでは、男性の上司が部下をしかるときに丁寧表現を使うようになってきています。
佐々木:丁寧表現、つまり女性が使うような表現という意味ですね。社会言語学的な観点から見ると、女性言葉に代えた方が柔らかい印象を与えるので、相手に助言したり、しかるときはその方がいいという判断があるのでしょうね。例えば、女性社員をしかるときに相手の言葉に代えることでスイッチしているんです。「だめだろう」というより「だめじゃないの」と言った方が、相手に与えるストレスが少ないだろうと、優しさを加えているわけです。絵文字の「にっこりマーク」のようなものですね。
見城:逆もありますよ。私なんかは男性が多くいるところで仕事をしていますから、そのうち自分の言葉をだんだんその場の共通語に同化していこうという努力があるのかもしれませんが、「それはいかん」みたいな言葉になってきます。気がつくとすっかりおじさんになっているんですよ。おもしろいんですよ、分かり合えている男の中では、男化するまで一生懸命にやっているということが評価されるというのと同じように、受け入れてもらえるというのもあるんですよ。「おっと」とか思うんですけど、おじさんになってしまうんです。
佐々木:それはジョークに受け取られませんか。見城美枝子というエレガントな女性が男性言葉を使うということで皆と合わそうとしているんだということで。
見城:それは、あえてやったら嫌らしいんでしょうけど、いっぱい話しているうちに自分の頭の中での考え方が女言葉で切っているんではなくて、頭のなかで「これはいかん」と思っているわけです。
国広:女性は自分一人に対していうときには使いませんか。
佐々木:私は使いません。
見城:女っぽいんですよ。
佐々木:わたし、行動的には、あまり女性的ではないんですが・・・。独り言でも「いかん」とはいいません。少なくても使用語彙ではありませんね。
見城:たまたまそういうグループで長いつきあいをして、仕事の話をして気持ちもわかってということがあるんですね。そうした中で、大変なことを背負っているというときに「これはいかん」と思わず口に出してしまうと、それは向こうにも私の状況がすぐわかる、そういう共通語として使っている感じです。
佐々木:逆に今の子供たちは、独り言でも寝言でもそうなっているかもしれませんね。もし、そうであるとすれば、それは既にジェンダーフリーとしての言葉が母語として組み込まれていることになる。「女言葉」「男言葉」の使い分けがなくなっていくとすれば、まさにその世代からでしょうね。意識的にせよ、無意識的にせよ、使い分けしている間は、ジェンダー言葉の間を行ったり来たりしているわけですから。

ジェンダーの描かれ方

門倉:ところで、先ほど見城さんが指摘されていたように、ジャンヌダルク型の新しいヒロインストーリーみたいなものがあっても、そこには相変わらずの、女性はかくあるべきというのが刷り込まれていくということがあるわけですね。ですから、ゲーム世界とかアニメとか女の子が喜ぶマンガとか、少女マンガとかの中でジェンダーがどのように描かれているのか、ジェンダー表現がどのようになされているのかということを見ていくと、かなりおもしろいんじゃないかと思いますね。
佐々木:それからカラオケの歌詞ですね、あの中で延々と歌われる演歌の世界の女性像というのはまさに男性が望む女性の理想ではないでしょうか。それも現実の家庭を離れた上での理想という。年代的には高い人に支持されている演歌ですが、形を変えてメロディーやビートを変えて今でも若者たちに受け継がれているのではありませんか。
門倉:演歌はもちろん、古いですよ。
佐々木:古いとはいうけれども留学生たちはけっこう歌っていますよ。
国広:ああいう女性がいまでもいるんでしょうかね。ただ耐えているという。
佐々木:あの中の歌詞でね、本当にあれは、あんな女性はいないと思うんですね。来ないあなたをただただ待ってますとか、繰り返し歌われるパターンというのは無意識のうちに、人間の感情の中に刷り込まれていきますからね。
国広:ちょっとずれますけど、女性は女性らしさで評価されるのを好まないということがあるんでしょうか。
佐々木:場面にもよるし、女性によるんじゃないですか。アメリカのテレビドラマで、宣伝企業の受け付けの女性が「太った」ということで解雇され、会社を訴えたところ裁判で負けるというのがありました。そのドラマで展開された主張が、「本は装丁が大事、商品はパッケージが大事、受付に座る女性もパッケージと同様美しさが求められる」というものでした。あれでテレビの視聴者から抗議はこないのかと思うほどでしたが、その中で、女性の弁護士が「あなたも美しいから採用が決まった」と上司から言われて、ショックを受ける場面もありました。彼女は、知性で弁護士に採用されたと当然おもっていたわけですから。
国広:美人とか美しいということをこっちが伝えても、喜ばない女性がいるんですね。これはどうなんでしょうね。女性としては、美しい、美女ということで世の中を渡っていきたくないという大学の同僚ですけどね、そういうインテリ女性というのがいるわけですよね。
笠原:それはすごくわかるのは、能力の欠けている部分を自分の努力で得たものじゃないもので評価されるのが不満なのだと思います。例えば、私たちがハンサムな社員がいて、「あなた男性としてもすてきだし、いい仕事するわね」っていったら、私が彼に対して、男女というシグナルを発しているのか、そうではなくて単純に仕事をやってほしいからというシグナルとして送っているのか、相手は判断に困るし、なぜ業績と関係のない事柄をもちだされるのかと当惑するのではないでしょうか。誤解されるような部分、その辺すごく難しいですね。
見城:すごく簡単なのは、わかりやすい例でいうと、巨乳とか美乳とかありますね、グラビアに。特集してますね。それを蔑んでみるということがあるわけですよ。
国広:男性がですか。
見城:ええ、男性だけでなく女性も。それは若い世代の人も、そういうタレントに対してはバストが大きいだけじゃなく、例えば演技がどうとか、そういう評価が「巨乳」とか形容されるだけでゼロになってしまうんですよ。もしかしたら、その巨乳のタレントさんも、本当は演技もあるかもしれないのに、まず、それで売られてしまうと、女という体で売られてしまうと、もうその段階で、後は否定なんですよね。
国広:要するに知的な能力を無視されたという・・・。
日置:一般化していうと、自己認識ですね。自分がこういうものだという自分の認識とまわりの評価が不整合だったらそれに対して怒るということですね。
見城:そこにはね。体で売っていくタレントさんとか女優さんは命が短いんです。結局は体が年を取れば、それは終わりですから。ところが演技でいく人というのはいつまでも自分の実力で伸びていくわけです。まさに、論文でほめられていけば、サバイバルで自分の道が築けるわけですけれども、器量からいわれたら、来年はもう少し若くて顔のいい子がきたら、それはそれで価値はなくなるのではないかと。だから女性は容貌だけであれこれいわれた時に、傷つくのだと思います。
日置:自意識を類として集めるとジェンダーになるんですね。自分というものがなんだという認識がないと、そもそもが怒ることすらできないわけですよね。それだからこそ他人とのすりあわせが必要になってきてジェンダーが形成されるので、だから、中からのジェンダーなので、外からのジェンダーではありませんという側面をいわなければ議論にならないでしょうというのが行為論などでいう認識枠組みとしてのジェンダーなんですけど。
佐々木:女性の側でも揺れていると思うんです。女性自身は美しくあろうとして努力しているから、あれだけの広告があるわけでしょう。それなのに、いわれて怒るというのは、自己の内部の中でもコンフリクトがあるんでしょうね。その一つの例が、メリル・ストリープが主演しているイギリスのある映画なんですけれども、彼女が小説家で非常に美しく装って、小説を書くとそれが全然受け入れられない、サイン会に誰も来ない、彼女がめがねなんか掛けて服装もかわいくなく、男性的な服装にしていると、サインを下さいって皆が来るという映画があるんですが、まさにいまの風潮を示唆していて、女性でもフリルの付いたドレスなんか私も着たくないというのがありますよ、女性を強調したくないと。女性であるのは、ほかのところで見せればいいというのはあります。
見城:すごいギャップなんですよ。相手は純粋に美をほめているのに、本当に心から美しいと思っているのに、女性がそれを拒絶する際には、実は二重三重のギャップがあるのでしょうね。化粧品はよく売れているわけですし、若い子の本を開けば、あんなに若い時からエステなんか要らないというのに、女の美を磨くのにどうしたらいいか、胸をどう大きくしたらいいのか、ウェストをどう細くしたらいいのか、もう「風とともに去りぬ」の時代じゃないのに、というぐらい、錯誤が激しいんですね。私はこの学会でもおもしろいと思うのは、表層の部分と深層の部分とのギャップがものすごくあるので、そこを掘り下げていけるのではないかという点です。
佐々木:それは男性にもあてはまるのではありませんか。少なくとも、コマーシャルでは「かっこいい男性」になるための条件のようなものが、つくられてきていますね。
日置:情報が発達したがゆえにそれが強化されているんですね。
佐々木:そうかしれません。しかも行動モデルがありますからね。テレビなんかで使われているタレントがパターン化されていくと、こういう人がおかしさの対象になって、こういう人が理想のモデルになると、人間のパターンが決まってしまいますよね。
見城:いまは、男性のほうに危なっかしい美形が望まれているんですよ。壊れそうな美形が。男性のほうに美形が象徴されていますよ。女性のタレントはかつての美女でない人でも、個性で売れるんですけど、いまはジャニーズ系を中心として男性の美形ということが表立ってきているんです。だから男の子のほうが自分の眉毛は剃ったりしているんですね。
佐々木:大学生の中でもタイプが二つに完全に分かれていますね。髪を染めて、すらっと見えるようにしようとする男の子たちと、初めからそういうことに関心を示さないタイプと。同じクラスの中に両方のタイプが共存していますが、教室を離れても共存していけるのかと不思議に思うことがあります。ディスカッションすると互いの価値観が異なるということが、歴然と出て面白いですね。男性学で「男性の理想像に関する変容」をぜひ、研究していただきたいですね。
日置:けれども、モデルというのが、それをいかにパッチワークするかということで個性を作っていくのだという雰囲気になっているでしょう。
見城:そうですね。カードのゲームのように。
佐々木:一ついいたいのはコマーシャルがジェンダーの形成にかなり影響を与えているということです。
日置:たしかにコマーシャルは重要なジェンダー表現の要素を豊富に発信していますね。ジェンダーをめぐる話は尽きないのですが、時間もかなりオーバーしていますので、ここらへんで座談会をしめたいと思います。

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