コンテンツへスキップ

学会誌13号-国際大会2013 in ウクライナ  シンポジウム発表要旨(矢野)

【シンポジウム:翻訳から見たジェンダー表現の諸相】

翻訳における付加と削除

矢野安剛

翻訳について

翻訳とは、ある言語のテキストを自然なコンテクストから取りだし、異質の言語的、社会文化的コンテクストのなかで「再構築」するという難しい作業であり、時代により、翻訳者により異なる。完全で、究極の翻訳というものは存在しない。翻訳は、目標言語のなかに表面的な相当語句を見つけ、目標言語の文法構造とその使用法を知ることが前提であるが、言語的、文化的に異なる原語と目標言語が同じコミュニケーション目的を達成するのにどのように異なった方法を取るのかを知ることも重要な前提となる。つまり、社会言語学者のヴィエルツビッカが‘…the lexicons of different languages do indeed suggest different conceptual universes, and that not everything that can be said in one language can be said (without additions and subtractions) in another…’(Wierzbicka 1992, 20)と述べているように、言語間翻訳では何かを付け加えたり、何かを省略したりすることが必要になるということである。

カチュル・スミスは、コミュニケーションは文意を理解し(intelligibility)、発信者の伝えたい意図をくみ取り(comprehensibility)、そして解釈する(interpretability)という3つの過程を経ると述べている(Kachru and Smith 2008, 61-64)。翻訳も同様の過程を経ると言える。読者がどう解釈するかによってはじめて原著者の意図が伝わるという見方に立てば、目標言語を通して読者がどう解釈するかが重要になるが、その解釈には読者の背景文化に影響される部分が多い。そのため、グローバル化され、言語や文化が共有される部分が急速に増えている今日でさえ、大きな問題として残っている。翻訳家のケンブリッジ大学のアンディー・マーティン教授は ‘… translation is always an interpretation’と述べ、英語をフランス語に翻訳する際、1950年代のニューヨークのsexist humorを1990年代のパリのpolitical correctnessにupdateしている例を示している (International Herald Tribune, 2013.1.30)。1925年から1933年にかけて、アーサー・ウェイリ―が「源氏物語」を英訳した際、かなり自由に意訳していて、平安時代の女房たちのしとねを、直接床にマットレスを敷いて寝ると直訳しては貴族階級の人々の暮らしを伝えられないからと、天蓋付きのベッドに置き換えたりしている。

また、日本での食事風景を「彼女は優雅にお茶碗を持ちあげて…」と韓国語に翻訳するとマナーを弁えない無教養のしぐさと取られるという。逆に、韓国でお茶碗をテーブルに置いたまま食べるのを日本語にそのまま翻訳すると、犬のような食べ方だと軽蔑される。一方の文化風習で良いとされていることがもう一方の文化では悪いとされている場合などけっこう多い。そうだとすると、目標言語圏の読者に原著者の意図を伝えるためには想定読者が住んでいる社会の文化風習に置き換える、いわゆる「翻案」(transliteration)がある程度必要になってくる。もちろん、正確さを要する科学技術系の論文や学術文献の場合は出来るだけ原著に忠実に翻訳し、注で言語差、文化差を解説する必要がある。

長谷川は、翻訳とは原語のテキスト上の慣習を保つことを考慮しながら、全テキストを目標言語のまとまりのあるテキストに「再構築」(recreate)することだと言っている(Hasegawa2012, 5)。翻訳とはまさにイタリアの諺にあるように、Traduttore, Traditore!(翻訳者よ、汝は裏切り者なり)なのである。言語形式の不備はつねに語の借用や新造で補われてきたが、意味内容は表現形式から完全に切り離すことはできないし、意味内容なしには言語形式は無意味である。詩歌、広告、だじゃれやごろ合わせなどを他言語に翻訳するのが不可能に近いのもそのためである。

言語Aを言語Bに翻訳するのには言語Bの母語話者が最適と言われているが、英語のように母語話者だけでなく、ひろく非母語話者に話され、読まれている言語の場合、非母語話者の翻訳の方がいい場合もある。それは、あまり凝った複雑な文章を書かないし、イディオムやメタファーなどアングロ-アメリカン文化固有の表現を多用しないので、世界中の非母語話者にも読みやすいからである。とは言え、母語話者には敵わない部分が多いのは認めざるを得ない。

翻訳の方略

翻訳にはいろいろな方略(strategies)があるが、5つほど挙げてみよう。

第一は、原語の意味を文字通り訳出することである。たとえば、言語的、文化的、地勢的に大きく異なる日英語でも、概念世界(conceptual universe)を共有している部分もあり、直訳できる。以下はその例のいくつかである。

苦い経験 bitter experience
法/規則を破る break the law/rules
深い/浅い知識・眠り deep/shallow knowledge・sleep
自分の目を疑う can’t believe one’s eyes
~に目をつぶる close one’s eyes to~
時代の流れ the flow of the time
芯まで腐っている be rotten to the core
鋭い目・痛み sharp eyes/pain
死ぬほど退屈する be bored to death
 (Yano 2010, 147)

そこでは、経験を「苦い/bitter」で形容し、法律や規則に「破る/break」を用い、

知識や眠りの程度を「深い・浅い/deep, shallow」で示すなど、日英語で発想が共有されている。

第二は、翻訳するより、説明する方がいい場合である。たとえば、「内弁慶」をin-Benkeiと直訳してもその意味するところは英語話者には伝わらない。むしろbossy at home and timid outsideと説明する方がよい。女性を追っかけまわしている男を「彼はベルルスコーニだ」と言うのもHe is Berlusconi.ではなくHe is a womanizer.と説明した方がよい。読者みんなが彼のことを知っているとは考えられないからである。

第三は、他の表現で置き換える方略である。概念世界を異にする場合で、その表現は文化固有のイディオムやメタファーの形を取る場合が多い。「茶柱」はa tea stalk floating vertically in one’s tea cupと直訳しても意味は理解してもらえない。その意味するところを汲み取り、a lucky omenと言い替えなければならない。「孫娘の姿に目を細めた」は日本語では嬉しさや喜びの表現であるが、英語のnarrow one’s eyesは疑いや怒りの表現である。このように同じ表現が言語によって意味するところが異なる場合もHe smiled at the sight of his granddaughter.rなどと言い替えることが必要になる。同様に「足を引っ張る」をpull one’s legと直訳すると「からかう」と言う意味になるのでprevent/block someone from doing somethingとでも説明するしかない。「油を売る」もwaste timeと説明しなければならない。以下は外国の研究仲間から集めた「とても易しい」の文化固有の表現の英訳例である。

a piece of cake (英語)
like doing … with your eyes closed (ギリシャ語)
like taking a walk (イタリア語)
like eating vegetables (中国語)
like turning your palm (ヴェトナム語)
like eating rice cake lying (韓国語)
like eating banana (タイ語)
朝飯前 (日本語)
(Yano 2010, 146)

第四は、省略する方略である。たとえば、電車で羽田空港へ行くのに「京急羽田線で行く」はその線を使うことが重要な意味を持たない限り、go by the Keikyu Line trainは余計な情報なので省略し、単にby trainとする。

第五は、逆に情報を付加する方略である。「蕎麦」や「畳」などのように、soba, tatamiだけでは外国人に分かりにくいと思われる場合にはsoba noodles,
tatami mat
のように情報を補い、理解を助ける。

日本文学作品の英訳における方略の実際

もちろん、日本語と英語という二つの言語は多くの概念を共有しており、ほとんどの場合、原語の意味を文字通り訳出するという第一の方略が使われる。そういうなかで、時として、やはり何かが失われ、何かが補われている。日本文学作品の英訳からいくつか例を拾い、観察を加えてみよう。最初は明治の文豪、夏目漱石の『坊ちゃん』の一節に見る地方方言の喪失である。

「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし」と云った。おくれんかな、もしは生温るい言葉だ。   (夏目漱石『坊ちゃん』, 27)

“You’re speaking too fast. I can’t understand what you say.
If it’s all the same to you,could you speak just a bit more slower, like?”

"If it’s all the same to you’? ‘Like’? What kind of spineless language is that?...”
(A. Turney,Natsume, 3)

この英訳では、愛媛県の松山地方の「方言性」は失われている。強いて探せば、a bit more slowerの文法的破格に坊ちゃんが見下している田舎者のニュアンスが示されているくらいである。thirty-third streetの[th]を[t]と発音するニューヨークのブルックリン訛りを視覚化したり、nineteen eighty-nineを「ノインティアイティノイン」のように発音するロンドンのコック二ー訛りを視覚化するなどして置換えて方言性を出すこともできたであろうが、訳者はあえてそうしなかった。世界の英語使用者の80パーセント以上が非母語話者である現状(Beneke 1991, 54)。を考えると、ひろく世界中で読まれるには英語母語話者文化に特化した置換えは必ずしも得策ではないからであろう。

次は、川端康成『伊豆の踊子』の一節に見る社会方言、とくに敬意表現の喪失である。

「おや、旦那様お濡れになってるじゃございませんか。こちらで暫くおあたりなさいまし、さあ、お召し物をお乾かしなさいまし」(川端康成『伊豆の踊子』, 10)

“But you’re soaked. Come in here and dry yourself.” 
(E. G. Seidensticker,The Izu Dancer and Other Stories, 10)

原語の「旦那様」や「お--になる」の敬意構造や「…なさいまし」などの当時の社会の下級階級の女性のへりくだった社会方言が英訳では完全に喪失している。英文だけ読めば、まったく対等な関係のやりとりである。Would you please come in here and dry yourself, sir?とでもしたいところだが、日本文学に造詣の深いサイデンスティッカ―なので意図的に対等な人間関係に訳出したのかもしれない。

第三に、村上春樹の『ノルウェイの森』の会話に見る性差語を見てみよう。

「それは本当に—本当に深いのよ」…
「本当に深いの。でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの。このへんの何処かにあることは確かなんだけれど」…
「でもそれじゃ危くってしょうがないだろう」(村上春樹『ノルウェイの森(上)』,13-14)

“It’s really,really deep,”… “But no one knows where it is,”… “The one thing
I know for sure is that it’s around here somewhere.”…“Then it must be
incredibly dangerous,”…   (J. RubinNorwegian Wood, 5)

この英訳も女性特有の終助詞「のよ」「の」や男性特有の「だろう」は喪失され、男女の区別は表現されていない。英語の場合、女性はいわゆるgood,greatなどのhard [g]を避けてnice,wonderful, fantastic, terrificなどの柔らかい響きの語を多用すると言われているので、そういう語句の使用ができたかもしれない。

第四に、翻訳をはずれて、日本語そのものから性差語が消えつつある現状を若い作家の作品から例証してみよう。まず、すばる賞受賞作品の金原ひとみ『蛇にピアス』を見てみると、18歳と19歳の登場人物の会話は全編を通して性差的に中立な表現が圧倒的である。ごくまれに以下のような女性言葉が出てくる。

「これがいいの。シバさん、お願い」(金原ひとみ『蛇にピアス』, 37)

これは、刺青師の男性に強引に刺青を入れてほしいと頼みこむシーンで、性的関係のある相手に「女性性」をアピールするためにふだんは使わない女性言葉の「の止め」を用いている。

「うっさいわね、別に酒飲みたい訳じゃないわよ」(金原ひとみ『蛇にピアス』, 67)

これは刺青を入れる前の1週間は飲酒を禁じられていたのにべろべろになるまで飲んでしまい、咎めた恋人に苛立ちをぶつけている場面である。恋人への甘えの表現として女性言葉の終助詞「わね」「わよ」が選択されている。このように、中高年の作家や脚本家が思い描く女性像では義務的だった女性言葉だが、使いたいときにだけ選ぶ「恣意的」使用に変わってきていると言えよう。

さらに、朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』に次のような対話の場面がある。

「…風助くんに謝れよ」
「ラブとライクの違いだよ」
「…ナンチャンのほうが言っとったよな」
「私、竜汰、好きだな」
「悲しみってね、心に非ず、って書くんだよ」
(朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』51-71)

「だよ」、「よな」、「だな」などの終助詞は男性言葉の典型だが、これは女子高校生同士の会話である。一方で、男性が女性言葉の「の止め」を使うこともけっこう増えてきている。

「俺、残酷な言葉には詳しいの」(金原ひとみ『蛇にピアス』, 16)

「それでも僕ら、どうにか謝って、また教えてもらおうとしたの」(小澤征爾「レベル下げるな 本気見せなきゃ」朝日新聞 2013.3.6)

女性言葉についての意識調査を18歳から20歳の年齢層の大学生を対象に行った(2008年、早稲田大学教育学部「言語学」講義受講生約200名)。「嬉しいわ」のような終助詞「わ」を彼らは使わない。女子学生は自分は使わないと言い、男子学生は女子学生が使うのを聞いたことがないと言う結果であった。彼らの意識では、使うのは40歳代以上の女性である。また、「昨日パリから戻りましたの」のように「の止め」を使ったり、「またお茶ご一緒しませんこと」のように「こと止め」を使うのは60歳代の上流階級の奥様だと見ている。今から40年後、彼らが60歳代になったとき、上流階級の奥様になっている者もいるであろうが、その頃までに女性言葉はもう消失してしまっているのだろうか。

上記のいくつかの観察は、佐々木の「今後ますますジェンダーレス化は進む。近いうちに「『わ』は女性の使う終助詞で、『ぞ』は男性の使う終助詞」とは言えない、境界線のない時代がくるかもしれない(佐々木瑞枝『日本語ジェンダー辞典』,504)という予測を裏付けている。だが、私たちは、古代ギリシャ劇の登場人物のように様々な役を日常的に演じ、その都度言葉遣いを変える。親には息子や娘の役を、自分の子どもには父親や母親の役を、職場では上司には部下の役を、同僚には同僚の役を、部下には上司の役を、店やレストランでは客の役を、というようにさまざまな役を演じ、その都度言葉遣いを変えて1日を過ごす。佐々木の予測のように性差を意識しない言葉遣いをする時代が来るかもしれないが、それでも恣意的に使いたい時は使うという形で残る可能性もある。意外に性差語は、差別意識抜きの表現として生き残るのではないだろうか。

日本語の英訳における付加

日本語の英訳において失われるものを文学作品を例に観察してきたが、逆に何かを付け加える場合もある。コミュニケーションでは、聞き手・読み手が言語内、言語外コンテクストから復元できると話し手・書き手が仮定した場合、その情報を省略したり、代用形に置き換えたりする (Yano 1977, 1984)。たとえば、日本語の場合、無標(unmarked)の場合「ゼロ形式」を用い、有標(marked)の場合「代用形」(コソアド系、述部代用形ダ・デスなど)を用いるが、英語では文法上代名詞句he, she, it, they、代動詞句do、代形容詞句such、代副詞句soなどの照応詞を用いなければならない。いずれも完全形よりも簡潔な形態、担う情報量も少ないので「コミュニケーションにおける経済性の原則」に基づいている。たとえば、次例では

「浴室のシャワーでもあびたら……」
「そうするわ」と、女は浴室のなかに消えた。
(星新一『ノックの音が』, 9-10)

 “If you took a shower in the bathroom…”

“I’lldo just that,” she said, and disappeared into the bathroom.
(S. H. Jones,There Was a Knock,10)

日本語では非強調文では無標のゼロ代名詞句で言語的に表現されない「あなた」が英語ではyou、「わたくし」がIと義務的に照応詞として表現されている。一方、強調、対照、(指示関係の)明確化を表わす強調文では有標の代名詞句が使われる。

「あなたは、どなたなのですか」
「あなたも、お飲みになる……」
(星新一『ノックの音が』, 12-15)

“Just who are you?” Kunio asked again.

“Would you like some too?” the woman asked.
(S. H. Jones,There Was a Knock,10)

上に述べた情報の復元可能性は飽くまでも話し手・書き手の「仮定」であって、失敗する場合も多い。次は2人の女性AとBの会話片で、Aの夫の飯野は恋人が出きて家出しており、Bがためらった後、女と飯野はその後どうなっているのかと聞く場面である。

A:「捨てられたんです」
B:「えっ、誰が、どっちに」
A:「飯野が女にですよ」
(瀬戸内晴美『冬の樹』)

Aは、「捨てられたんです」の主語は自分の夫である飯野だとBが理解できると仮定していたのだが、Bの「えっ、誰が、どっちに」という反応で仮定が成り立たなかったことを知り、急いで「飯野が女にですよ」と情報を提供することによってリペアしている。指示関係の明確化の失敗の例である。

視点の移動

ところで、川端康成『雪国』の冒頭の文、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」はあまりにも有名であるが、サイデンスティッカーの英訳では“The train came out of the long tunnel into the snow country” (Seidensticker,Snow Country, 3)となっている。「抜ける」と言う語は「通路(何かの中)を通って、向こう側へ出る」(新明解国語辞典第7版)という意味である。主人公の視点は汽車の中にあり、乗っている汽車とともにトンネルに入り、それを「抜けて」銀世界の雪国へ「出る」のである。無標文なので、「コミュニケーションにおける経済性の原則」に基づいて、「私が乗っている汽車は」が言語的に表現されていないゼロ形式を取っている。サイデンスティッカーの英訳でcameが使われているのは明らかに誤訳である。移動動詞のcomeは話し手/書き手の現在の時間的・空間的位置への移動であり、この英訳では当然ナレーターは雪国のある点に居て、トンネルから汽車が出てくるのを眺めていることになる。正しくはThe train went through the long tunnel into the snow countryとすべきであろう。ただ、日本文学に造詣の深いサイデンスティッカーである。視点を移動したのには何かの意図があったのであろう。文学作品にはそのような「翻案」が許される場合がある。

翻案と言えば、『源氏物語』を英訳したアーサー・ウェイリーのThe Tale of Genji (1921-33)は、加筆、省略、置き換えなど極めて自由に翻訳したことで知られている。上にも触れたが、平安時代の女房たちが直接床に寝床を敷いて寝ていたくだりは天蓋付きのベッドに置き換えている。事実に即して訳出するよりも「貴族階級」を意訳したのだろう。かつて、元首相の吉田茂が白足袋を履いて会見に臨んだのを、white socksと直訳するとテニスにでも行くと思われるのでフォマーリティを表わすためにwhite glovesとしたという話を聞いたことがある。翻訳には同様の柔軟さが求められるのであろう。

規則化、一般化への流れ

私は、ここ数年不規則な表現が規則的なものへ、特殊な表現が一般的なものへと変化していく言語現象を、日英語を対象に観察してきた。言葉の学びやすさ、使いやすさの観点からそれは普遍的な傾向だと見ている。いくつか例を挙げてみよう。

まず、最近よく目にし、耳にする、形容詞化接辞の「的」と「化」の用法の広がりを見てみよう。

この製作は戦略的に拙かった。
安定的な外交関係を構築しなければならない。
私(わたくし)的な見方をすれば…
気持的には迫ってきた。
AKB的人生論
体調的にはまだ万全ではない。
整合的に、説得的に説明する道徳原理の体系を構築する。

 

当面はまず、事態を安定化させる政治・外交的なメカニズムを作る。
お互いの利益が最大化できるように対立をコントロールしようとしている。
一般入試も特色化させているのが東京工業大だ。
資源の最適な配分によってこそ自己のリスクは最小化できる。
理論の最適化をはかる。
取り調べを可視化する。
高齢者は重症化する場合がある。

規則的な形容詞化接辞であり、ほとんど制約がない。規則的であるゆえに日本人にも外国人学習者にも学びやすく、発展的に使いやすい用法である。じゅうらい、「説得するように」「安定する/させる」「最小にする」などと言っていたのが、「的」「化」に収斂されていくようである。これも規則化の一現象である。

次に、複数接辞「-たち」を見てみるが、これは、もともとは神や天皇、高貴な人々に使う敬意の接辞であった。

玉ほこの道の神たちまひはせむ吾(あ)が思ふ君をなつかしみせよ。
  万葉集17 (8世紀半ば)
親たちの顧みをいささかだに仕うまつらで。
  竹取物語 (9世紀初期)
このかくほのかなる女たちの御中に弾きまぜたらむに。
  源氏若菜下 (11世紀初期)

だが、時代が下がるとともに敬意は薄れ、対象も一般の人々、そして目下の者へと広がっていった。

子どもたち、お前たち、俺たち (現代)
小鳥たち、魚たち  
小石たち、スプーンたち (現在)
時間たち、言葉たち、英語たち  
 (Yano 2011, 139)

現代では本来の「敬意」が消え、対象も「神、貴人」そして「人間」から動物、無生物、そして抽象概念へと広がり、対象への制約も消え去った。一般化の典型である。敬意・蔑みおよび対象の制約は「あなた方、皆さま方、野郎ども、虫けらども、きゃつら、てめえら」など他の複数接辞に残っており、使い方は恣意的である。接頭辞「お-」から、長い使用を経て「敬意」が消えた例は「おしろい、おやつ、おみおつけ、おみおて」などにも見られるが、これも一般化の例である。

また、「二重『ヲ』格の制約」(柴谷・影山・田守 1982, 402-4)、’the Doublewo Constraint’ (Shibatani 1990, 310)の用法を見てみよう。本来、「太郎が英語を勉強をする」のように、単文内に目的格「ヲ」を重ねることはできないのであるが、昨今は

国民の生活を再建をしていく。
総理のご決断を支持をしたい。
靖国神社参拝を断念をするつもりです。

のように頻繁に耳にするようになった。私はこれを空虚な内容を補うために自分の発言に重みをつけるため政治家が使う「虚辞の『ヲ』」と呼んでいるが、最近は一般化が進み、「電車を発車をさせます」などといろいろな場で耳にするようになった。日本語のモデルと目されているNHKのアナウンサーまでが「二種類のガムをかんで、かむ力を測定をしました」(2010.6.6 NHKテレビ1午後7時のニュース)と言うまでになっており、そのうち書き言葉にまで浸透し、いずれは正用法となるのであろう。いずれ、「虚辞の『ヲ』」改め、「強調の『ヲ』」として市民権を与えねばなるまい。これも制約を撤廃する一般化現象である。

さらに、副詞の「ぜんぜん」は否定文でしか使われない「否定制約」(Neg Constraint)がかかっているのだが、この「否定制約」がじょじょに適用されない場合が増えてきて、若者の会話で「ぜんぜん面白い」などを耳にすることが多くなってきた。

すでに、若者だけではなく、一般に使われ始めている。いずれ、副詞「全然」への否定制限も撤廃されるか、恣意的な選択肢になり、一般化に飲みこまれるであろう。

くわえて、じゅうらい「やったり、もらったり」の対象は主として具象物で抽象概念に使うケースはあまりなかったようであるが、近年「勇気を貰う」「元気を貰う」「自信を貰う」「やる気を貰う」など抽象概念に使われているのをよく耳にする。これもヤリ・モライ動詞の対象の「具象物制約」をはずす、一般化の一現象ではないだろうか。

一般化現象は男性自称詞「俺」の用法にも見られる。昔は広く貴賎男女を問わず目上にも目下にも用いたが、現代では「俺とお前の仲じゃないか」のように男性が同輩以下の者に対して用いる、身内のインフォーマルな言い方になっている。「ぼく」などよりぞんざいな語で、公の発言をする際には用いない。だが、昨今、「俺は早く横綱になりたいっす」とか、「俺は自民党を立て直す使命感をもって選挙に臨みました」とか、政治家やスポーツ選手は公の場の発言に「俺」を頻用し、内外、公私の区別が曖昧になってきているが、先日小学6年生の作文に、この区別が完全に消滅している例を見た。

白石は、俺をどれくらい待たせれば気が済むのだろうかと考えていたところだった。(独白:自分=身内)たった今、絵の外の世界を見てきました。この絵は、俺がさっき言ったように盗まれていました。
俺はこの泥棒二人を捕まえるため、みなさんと一緒に作戦を練りたいと思います。

これは朝日学生新聞社児童文学賞と朝日小学生新聞賞を受賞した土屋絵梨子(当時小学6年生)の「ナポレオンの戴冠式」前篇(朝日小学生新聞2013.4.29)のなかの文章であるが、
内在化された語彙「俺」にはすでに内外・公私の区別が失われている。

最後に

このように、語法が規則化、一般化へ流れ、性差語の使用が減少し、敬意が消え、対象制限が無くなってきている。このように、使用制限が緩和され、一般化が進むのは日本語だけの現象ではなく、普遍的な現象であり、今後もこの傾向は進むと思われる(Yano 2011, 128)。英語でも、Band-Aid, Frisbee, Kleenexなど特殊な製品の商標だったものが医療用絆創膏一般、皿型遊具一般、ティシューペーパー一般へ変化している。不規則の規則化、特殊の一般化への流れはまとめれば前述の「有標」から「無標」への流れである。この傾向は普遍的であり、時代を超え、言語差を超えて見られる現象である。「無標」は一般に使用が「義務的」(+obligatory)であるが、「有標」は完全に消えるのではなく、場合によって恣意的に使われる「選択的」(+optional)として残るであろう。日本語の「兄」「弟」は「生まれ順」(birth order)が義務的なのに対し、英語のbrotherは選択的で、年上・年下は問わない。だが、問わないがその区別がないわけではない。big brother, baby brother, elder/younger brotherのように必要に応じて形容詞をつけて表現する。性差語もこの大きな流れのなかでだんだんと「義務的」から「選択的」な用法へと変化していくのではないだろうか。

資料

  • 朝井リョウ (2012)『桐島、部活やめるってよ』集英社
  • 金原ひとみ (2004)『蛇にピアス』集英社
  • 川端康成 (1950)『伊豆の踊子』新潮社
  • Kawabata Yasunari (Trans. Edward Seidensticker, 1974)The Izu Dancer and Other Stories.<
  • 川端泰成 (1947)『雪国』新潮社
  • Kawabata Yasunari (Trans. Edward Seidensticker, 1956)Snow Country.New York: Vintage International.
  • 瀬戸内晴美 (19 )『冬の樹』
  • 夏目漱石(1929) 『坊ちゃん』岩波書店
  • Natsume Soseki (Trans. Alan Turney, 1972)Botchan.Tokyo:Kodansha International.
  • 星新一 (1972)『ノックの音が』講談社
  • Hoshi Shin’ichi (Trans. Stanleigh H. Jones, 1984)There Was a Knock.Tokyo:Kodansha International.
  • 村上春樹 (1978)『ノルウェイの森』講談社
  • Murakami Haruki (Trans. Jay Rubin, 1987) Norwegian Wood.London:Vintage.
  • Waley, Arthur D. (1921-33)The Tale of Genji, 6 vols.

 

参考文献

  • Beneke, J. (1991) Englisch alslingua franca oder als Medium interkultureller Kommunikation. In R. Grebing (ed.)Grenzenloses Sprachen lernen. Berlin: Cornelsen.
  • Hasegawa, Yoko (2012)The Routledge Course in Japanese Translation.London: Routledge.
  • Kachru, Yamuna and Smith, Larry E. (2008)Cultures, contexts, and World Englishes. London:Routledge.
  • Martin, Andy (2013) ‘The treachery of translators.’International Herald Tribune, 2013.1.30).
  • 佐々木瑞枝 (2009)『日本語ジェンダー辞典』東京堂
  • Shibatani, Masayoshi (1990) The languages ofJapan. CambridgeUniversity Press.
  • 柴谷方良、影山太郎、田守育啓 (1982)『言語の構造:意味・統語篇―理論と分析―』東京:くろしお出版
  • Wierzbicka, Anna (1992)Semantics, Culture, and Cognition:Universal Human Concepts in Culture-Specific Configurations.Oxford
    University Press.
  • Yano, Yasukata (1977) Intersentential Pronominalization:A Case Study from Japanese and English, Unpublished PhD thesis, University of Wisconsin-Madison.
  • 矢野安剛 (1984)「英語の代名詞化と日本語のゼロ代名詞化:その平行性」『学術研究』33号、57-69.
  • Yano, Y. (2010) Culture-specific or Culture-general?:Cultural Differences in English Expressions.Philippine Journal of Linguistics 41.Manila:The Linguistic Society of the Philippines, 135-151.
  • Yano, Yasukata (2011) English as an International Language and ‘Japanese Enlish.’In Seargeant, Philip, ed.English inJapan
    in the Era of Globalization
    .  New York: Palgrave Macmillan, 125-142.

 

(矢野安剛 やのやすかた 早稲田大学名誉教授)

 


目次に戻る

 

Copyright © 2001 The Society for Gender Studies in Japanese
All Rights Reserved.