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学会誌13号-第13回年次大会シンポジウム 発表要旨(佐々木)

【シンポジウム:メディアの中でジェンダーは
どんな姿を見せているのか】

歌の中でレフレインされるジェンダー意識

佐々木瑞枝

1.はじめに

子供によって歌われることを目的として作られた創作童謡には、子供の口を通して無意識にリフレインされている。その内容には自然発生的に伝承されてきた「童歌」とは異なる、「大人の「識見」による隠れたカリキュラム」が織り込まれている。

下記に挙げた曲で一人称の呼称である「ぼく」が「私たち」を代表するものは「汽車ぽっぽ」や「線路は続くよどこまでも」など数多く、それに対して男女共に使える呼称である「私」や「私たち」が使われている童謡は驚くほどに少ない。「やさしいお母様」の歌詞は「私がおねむになった時」と「私」が使われているが、実際にはかわいい女の子のイラストが歌詞に添えられていることが多く、「私」には男性は含まれていないと感じる子供たちが多いのではないだろうか。

曲名 表記
【男の子】
雨ふり かあさん ぼくのを
お月さんと坊や かわいい坊やと
おばけなんてないさ ぼくだってこわいな
汽車ポッポ ぼくらをのせて
さっちゃん ぼくのこと
線路はつづくよどこまでも ぼくたちの
手のひらを太陽に ぼくらはみんな
とんがり帽子 おいらの家よ
どんぐりころころ 坊ちゃん一緒に
ないしょ話 坊やのおねがい
バスの歌 ぼくも左へ
ひょっこりひょうたん島 ぼくらを乗せて
ぼくはごうけつだい ぼくはごうけつだい
マーチング・マーチ ぼくをはこんで
ママが赤ちゃん 僕にも だっこ
もえあがれ雪たち ぼくらの 街に降る
われは海の子 われは海の子
 
【女の子】
赤い靴 女の子 異人さんに
赤い帽子白い帽子 いつも通るよ女の子
青い眼の人形 日本の嬢ちゃんよ
人形 わたしの人形は
森の熊さん お嬢さんお逃げなさい
 
【差別? なし】
アイスクリームの歌 王子でも王女でも
秋の子 一、二の三人
あの子はだあれ かわいい美代ちゃん、隣の健ちゃん
歌の町 よい子が住んでる
おはなし指さん この指パパ、この指ママ
ことりの歌 かあさんよぶのも、とうさんよぶのも
ちいさい秋みつけた 誰かさんが
ドロップスの歌 こどもがなめます
へのへのもへじやーい そうそうあの子
やさしいおかあさま わたしがおねむに
夢のお馬車 可愛い姫さま 王子さまを
2.「隠れたカリキュラム」としての「童謡の歌詞」

学校教育で、家庭で、子供の世界で繰り返し歌われる「童謡」の中にセクシズムが浸透し、「隠れたカリキュラム」として子供たちに歌われ続けている。そしてその歌詞を書いたのは男性の作詞家が大部分であり、作詞家自身も、「僕らを乗せて…」という歌詞の中にジェンダーバイアスがあるとは意識もしない。そして「性差別イデオロギー」は再生産されているのではないだろうか。

中村桃子(1995)は「社会には性差別イデオロギーを表現しているディスコースがあふれている。しかしそれらが「人間は男だけだ!」「女は性の対象物だ!」と性差別を直接表現している場合は非常に少ない。むしろ「性差別イデオロギー」を既に常識となった当然のことと仮定し、性差別イデオロギーを生産している場合が多い」と述べている。

童謡での呼称の「僕」はその典型的な例と言えないだろうか。高度成長時代を経て、キャリアウーマンが増え、その子供たちはどんな歌を歌って育つのだろうか。レコードやラジオ、そしてテレビやCDとメディアの媒体は変化しても子供たちの歌は歌われ続ける。NHKの長寿番組「お母さんと一緒」でも、「知ってしまったぼく」(作詞・あきやまただし・作曲・松本雅隆)という歌が歌われているが、その歌詞の内容は、昨日まではいろいろなものをこわがっていた「ぼく」だけど、見てよ、もう何もこわがらない「ぼく」に変わったよ、というものだ。

作詞家の意識が変わらない限り、そしてそれを放映するテレビ側の意識が変わらない限り、このような歌は「性差別」に何の問題もなく、むしろ「男の子」が勇気ある子供に育つように配慮された良質の歌として存在するのだ。

3.イデオロギー再生産装置としてのカラオケ

パイオニアのカラオケ白書によれば、一日あたりのカラオケ歌唱人口は630万人にものぼり、日本社会における娯楽文化の一つとして無視できないものとなっていることは確かだ。(佐々木1995)

その中でも男性が女性言葉で歌う歌謡曲には、男性がのぞむ「女性の生き方」が隠れた装置として内在する。

「私バカよね」を繰り返すフレーズで知られる「心のこり」(作詞・なかにし礼、作曲・中村泰士、歌・細川たかし)。昭和50年に作られたヒット曲だが、今でもカラオケボックスでは人気の歌の一つだそうである。

たった4行のフレーズの中に呼称の「私」から始まって、「よね」という終助詞で女性を表現し、「女性は『あなた一人』に命をかけるもの」という倫理観(差別感)を朗々と歌い上げ、最後に「女が耐えることは美徳である」と結ぶ。こういった類の歌が一日に何回も小さなカラオケボックで歌われ、最近では通信販売を通じて家庭で歌われ、歌の歌詞は再生産されていく。

次の文はコミュニケーション場面での「察し用法」について書いたものであるが、上記の歌の歌詞にも当てはめることができる。

コミュニケーションする相手が、常に同じ待遇関係の観点を取っていれば問題は生じない。文末表現に気を付ける「察し用法」は整然と行われる。しかし、待遇関係のどの側面に中心をおくかは、暗黙の了解のうちになされるのであり、相互の対人関係のバランス感覚による。(佐々木1998)

この歌では「あなた=男性 上位」「私=女性 下位」であり、女性は男性よりバカで人から陰口を言われながらも、相手の男性だけを信じて「従っていく」というアンバランスな関係が示されている。このような「構図」は歌謡曲の中で繰り返し示され、男たちの口によってリフレインされ、やがてそれらは、「理想的な形の男性と女性の関係」としての学習されていく。それがまさに隠れたカリキュラムとして「歌の歌詞」が機能している所以なのだ。

しかし、「さそり座の女」という歌では、作詞をしたのは斎藤律子という女性であり、「女性が男性のために男性歌手が歌う女性の立場の歌」を作詞していることになる。

この歌詞は、男性は「遊びのつもり」だが、女性は「命がけ」で、そして女性が男性のあとをどこまでもついていく、という内容だ。これほど男性の望む構図をしかも女性の立場でなぜ男性に歌わせるのか。場合によってはむしろ男性が女性に対しても歌ってはどうだろう。キャリアウーマンと草食系男子なら十分にありうる構図だと思うが、歌の歌詞としてはまだ支持されないかもしれない。

4.おわりに

諸イデオロギー装置は既存の社会構造をそのまま単純生産するための社会装置ではありえない。なぜなら資本主義的な社会・経済体制は固定された状況にはないからである。資本の自己増殖、技術革新と産業構造の変容、階級闘争やフェミニズム・レイシズムなどの社会運動、さらにその他種々の国際/国内要因の影響により、資本主義社会は常に激しい流動プロセスにある。(木村涼子2003)

木村が指摘するように、2012年の日本は、大震災、原子炉の廃止といった激しい流動プロセスの中にあり、大震災では「家族の絆」が再認識された。そのような時代背景の中では、ここで例に出したような歌詞は、童謡が時代を超えて歌い継がれてきたようには、もはや本来の「イデオロギー装置」としての役目を果しえなくなっているかもしれない。むしろ大きな変革を迫られている現在、人々は既成の価値観とは異なる歌詞を求めている。それは、次々にシンガーソングライターが出ていることにも現れているのではないだろうか。

参考文献
  • 木村涼子(2003)『学校文化のジェンダー』勁草書房
  • 佐々木瑞枝(1995)「カラオケの文化」『日本事情ハンドブック』大修館書店
  • 佐々木瑞枝(1998)「日本語表現を通してみた察しの文化」『世界の中の日本型システム』新曜社
  • 中村桃子(1995)『ことばとフェミニズム』勁草書房
(佐々木瑞枝 ささきみずえ 武蔵野大学大学院教授)

 


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