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学会誌13号-国際大会2013 in ウクライナ シンポジウム発表要旨(ヒダシ)

【シンポジウム:翻訳から見たジェンダー表現の諸相】

翻訳におけるイノベーションと想像力のインタープレイ

ジュデット・ヒダシ

原文、起点テクストには、暗示的な、明確に表現されない、目に見えない次元が存在する。それらは、例えば、テクストの奥に潜む文化的な示唆や、テクストの中に織り込まれた文学的(あるいはその他の)暗示、(当該環境では周知のことであるために)起点テクストの中では明確に表現されない暗示などで、これには性に関わるものも含まれる。目標言語で最も理想的な解決策を見出すため、翻訳家に非常に大きなインノベーション能力が必要とされていることは、想像に難くない。その一方で、ある文学作品を完全に受容するには、読者にも大きな想像力が必要とされる。ある翻訳が成功したかどうかを決めるのは、この2つの幸運なインタープレイにかかっている。

翻訳に対する期待は文化によって異なる。西洋では、従来、翻訳に求められてきたのは、第一に訳文(目標テクスト)の読みやすさ、なめらかさ、オリジナルは異言語で書かれた作品(起点テクスト)であることを読者に忘れさせるような自然さであった。今でもほとんどの翻訳家は、この理想を求めて苦労を重ねているはずである。一方、ハンガリーの読者にとっては、文化的に見て遠くにある文学作品の場合、起点テクストの「持ち味」、オリジナルの「エキゾチシズム」をほのかに感じさせるようなハンガリー語への訳出を行う翻訳家が高く評価される傾向がある。これは、考え方の違いなのであるが、翻訳の本質に関わる重要な観点である。なぜなら、このような考え方の違いによって、訳出された目標テクストはまったく異なるものとなってくるからである。一方の訳出では「異質性」が全く感じられない。もう一方の訳出では、日本語らしい表現など、起点言語のテクストが持つ文化的特性を感じさせるような要素が意図的に訳出に反映させられている。後者のストラテジーを取った場合、翻訳の受容は困難を伴う。文化的には異質でないためにきわめて簡単に消化できる訳出に比べ、読者は翻訳を理解・受容するためにより大きな努力を強いられることになる。起点言語の文化の痕跡が残る目標言語のテクストを理解することは、当然のことながら難しい。とはいえ、それだからこそ、読者の能力を試し、読者に挑戦をしかけ、読者を考えさせるという意味で、読書の楽しみはより大きなものとなる。これにより受容の過程はより活性化させられるのである。つまり、受容は読者の想像力に拠りかかっている。読者がテクストを深く理解しようとするならば、活性化せざるをえない想像力に訴えることになるのである。

『雪国』が川端康成の著名な作品の一つであることは、誰も異論を挟まないだろう。この小説の執筆は1934年から始まり、一時期、筆を休めることも何度かあったが、1937年まで執筆が続き、その後、発表直前の1947年にもう1章加筆したものである。1957年にエドワード・サイデンステッカーが翻訳し(豊田四郎監督が映画化したのもこの年であったが)、これを機に『雪国』は、1968年にノーベル文学賞を日本人として初めて受賞するまで、まさに世界を席巻する旅に乗り出したと言える。『雪国』がこのワークショップでもしばしば取り上げられるのも偶然ではない。既に翻訳された言語は世界33ヶ国語に上っているからである。ハンガリー語の翻訳出版は1969年のことであった。

ハンガリー語は、他のヨーロッパ諸言語とは異なり、日本語に似て文法的性が存在しないのだが、「性」が重要な役割を占める言語の翻訳は難しさを伴う可能性が高い。なぜなら、そのような翻訳の場合、例えば、翻訳者は起点テクストにはない社会的あるいは年齢的な他のパラメーターを使用せざるをえないからである。では、もし目標言語で性が作り出せるとすれば、どのように作り出せるのであろうか。また、目標言語への翻訳において性を具体化した場合、原著者の意図を歪めることにはならないだろうか。日本語の場合、この点で特殊である。なぜなら、明示的に性が記されることはないが、暗示的には敬語の使用を通じて、性的属性を明示化することができるからである。ハンガリー語の翻訳では、ジェンダー代名詞が存在しないことは理解の妨げにはならないが、表現スタイルの貧弱さをもたらす。たとえば、ジェンダーを示す終助詞「わ」は、ハンガリー語には存在しない。

ハンガリー語への翻訳では、『雪国』全体の物語の背景をなしている日本の社会や文化に関する知識が読者に不足しているという事実が、翻訳家及び読者の技量を試す最も大きなチャレンジとなる。これは、恐らく、他の言語への翻訳に際しても同様であったと思われる。そもそも作品のタイトル自体が問題を含んでいる。『雪国』というタイトルはおとぎ話のイメージを読者に抱かせるものであるが、それ以上にハンガリー人が想像する日本の風景と全くかみ合わない。もう一つの基本的な語彙の問題として「温泉芸者」を挙げることができる。温泉芸者に対応するハンガリー語の語彙は存在しない。ハンガリーに温泉がないわけではなく、その反対にハンガリーには非常に多くの温泉があるのであるが、温泉からハンガリー人が連想するのは、日本人の温泉にまつわる連想と全く異なっている。しかし、最も大きなチャレンジは、「芸者」という語であろう。「芸者」という言葉は、日本以外の文化では、殆ど全ての文化において誤解あるいは誤訳されていると言えるだろう。つまり、ここで述べたいのは、ある種の「レアリア」が存在しないこと、またその語が言外に持つ含意、コンノテーション(語にまつわる社会文化的意味)の知識が不足していることにより、作品のコンテキスト全体が不十分なものとなることである。

ハンガリー語への翻訳において、翻訳家は明示化を行っていない。例えば、ススキや萱、桐などハンガリーにはない木や植物というレアリアの名称に説明を加えておらず、日本語をそのまま使用している。これは、特に問題とはならない。なぜなら、読者は、想像力によりおおよその理解が可能だからである。一方、「地蔵」という語、概念に関しても説明を加えていないのは、問題である。「地蔵」の持つ意味を理解しない場合、「死」と「子供」のモチーフの連結の可能性に対する含意がなくなってしまうだろう。また、「縮み」に関しても説明がないのは不満が残る。川端のメタフォーラでは、この語にも意味を込めているはずである。さらに、着物や浴衣、寝巻き、羽織など日本特有の衣類の訳出も非常にぎこちなく、稚拙なものが多い。例として挙げるならば、「寝巻き」は「夜の着物」と訳出されている。「裾」は、着物の裾のことであり、原典では20回程度使用されている。もっとも、「山裾」という語でも使われているのだが、これらはきわめて日本的な繊細かつ洗練された語句であり、その繊細さ・洗練さを読者が感じ取るには、日本の社会文化的な環境、その語句の持つニュアンスや背景をホリスティックに理解することが必要になってくる。

このような翻訳の不完全性にもかかわらす、『雪国』のハンガリー語訳は、原典の持つ詩情や繊細さの多くをハンガリー語への訳出でも再現させることに成功している。その証拠にハンガリーの読者の間でも好評を博した。逆説的だが、このハンガリー語訳の成功に貢献したのが異質性であったといえよう。そこにハンガリーの読者はある種のロマンチックなエクゾチシズムを感じたのである。『雪国』のハンガリー語訳は、「異質性」と「親和性」を読者に伝えることに成功している。

(Judit Hidasi ジュデット・ヒダシ ブダペスト商科大学教授)


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