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学会誌13号-第13回年次大会 対談提題要旨(因)

【対談:メディアを通して見るジェンダーバイアス】

映画・ドラマ作品を通してみるジェンダーバイアス

因 京子

 1.はじめに

本発題では、第二次大戦後日米で発表された映画やテレビドラマのいくつかを取り上げ、それらの作品の中で女性たちがどのように描かれているかを観察することによって、我々が無意識に受け取って内在化しているかもしれない、公平さを欠き真実とは異なるジェンダーに関する観念(ジェンダーバイアス)を明示的に意識するきっかけを提供したい。映画・ドラマは、その時代の社会状況や人々の考え方を反映していると同時に、人々が考え方を形成し社会が変化していく様相に影響を与え得る。「映画やドラマは無邪気な娯楽と夢を提供するだけのもので、そこから自分の生き方について影響を受ける人などないのでは?」と言う人もあるが、映画やドラマが何を「素敵なもの」として、何を「無様なもの」として描いているかが個人の観念や社会の通念の形成に与える影響は侮り難い。映画やドラマが女性についてのどのような認識を表現しているのかを意識することは、ジェンダーバイアスから我々を解放する一助となるであろう。本発表でとりあげるのは膨大な作品群のごく一部でしかないが、どれも、公開当時のみならず、数十年を経た今でも再上映(再放送)されるなど、一定以上の支持を集めているものである。

2.アメリカの作品

2-1 第二次世界大戦後のアメリカ作品

この年代の映画の女性描写の特徴をやや乱暴に一言で表せば、「シンデレラストーリーの賞揚」と言えるだろう。「素晴らしい男性に選ばれるという幸福」を手にする若くて美しい女性が描かれ、その素晴らしさを強調するために、しばしば、男性に選ばれず「オールドミス」になってしまった中年および中年にさしかかった女性が対比される。

例えば、『パリのアメリカ人』(1951年、ビンセント・ミネリ監督)では、主人公の画家と若い女性との恋が描かれる。若い女性と知り合う前、彼は、年長で裕福で芸術好きの女性から援助を申し出られ、まんざらでもなさそうであったが、若い女性と知り合うや否や年長の女性のことは忘れてしまったようだ。新しい恋人との恋は描かれるが、年長の女性との関係をどうしたのかは描かれない。中年女性が差し出すことができるのは金銭だけで、その魅力は若い女性の魅力とは比べ物にならないということが示唆されているようである。

『ピクニック』(1955年、ジョシュア・ローガン監督)では、レイバーデイを祝うピクニックに沸き返る町へやってきた一人の男性をめぐってストーリーが展開するが、若い女性と若さを失いかけた女性とが露骨に対比されている。若い女性は男性の視線を一身に集めているが、一方、教師の職に就いている、中年にさしかかろうとする年齢の女性は結婚を焦っており、新来者の男性に意のあるところを示すけれども相手にされず、さらにそのことで他の人々から嘲笑と非難を浴びてしまう。とはいえ、若い女性の「栄光」も束の間でしかないことが示されてもいる。若い女性の母親は娘に、「今は19歳でも、来年は20歳、次は21歳、その次は40歳よ!」と一日も早く結婚するように急き立てるのである。女性は男性に選ばれて結婚することが必須であるという強い信念の前には、教師として立派に自活しているという実績など何の意味もない。この信念は、男性だけでなく、女性である母親にも共有されている。しかし、この母親もそれほど幸福そうには見えず、結婚していようがいまいが、女性が年齢を重ねることに明るさを感じさせる要素は乏しい。

オードリー・ヘップバーンの代表作の一つとして知られる『ティファニーで朝食を』(1961年、ブレイク・エドワーズ監督)でも、主人公と結ばれる作家志望の男性には物心両面で彼を支えてきた中年女性の恋人があった。今でもそのファッションが話題になる主人公は確かに美しいが、この中年女性も、素晴らしく美しく、優雅である。それでも、若い女性には全く太刀打ちできないものとして描かれている。

これらの作品には、「若さ・美しさの礼賛」、「結婚していない女性への嫌悪」が明瞭に示されている。戦争中には、徴兵された男性労働者の穴を埋めるべく、女性たちは工場での肉体労働にまで駆り出された。リベット打ちでも何でもできる逞しい腕を誇示する女性が好ましいものとしてポスターに描かれた(「Rosie the Riveter」)。このことを考えると、戦後のこの変化には驚くべきものがある。Benshoff and Griffin (2004)は、この間の事情を次のように解説する:「戦争中にRosie the Riveterのような強いイメージを鼓舞され独立心を養った女性たちのもとに戻ってきたのは、今でいえばPTSD(Post-traumatic stress disorder,心的外傷後ストレス障害)を患っている男性たちである。男性たちの傷を癒すために、この時代の映画は、男性性を『女性をmanhandleする(手荒に扱う)逞しさ』として再定義したのである。」男性優位の家父長制と資本主義信奉に貫かれていた映画界の送り出す作品の中では、戦争中に自活する知恵や力を備え男性にとって脅威となりそうな女性は敗れ去る者でなければならず、若く美しくいかなる問題を持っていようと男性を崇拝し頼りにする女性が勝者でなければならなかったのである。

2-2 女性解放運動以後のアメリカ作品

1960年代の公民権運動、70年代に盛り上がったウーマン・リブを経て、女性の生活そのものには相当の変化が生じたはずであるが、80年代以降になっても、シンデレラストーリーへの傾倒は相変わらず根強い。しかし、前の時代には敗者でしかなかった中年女性が主人公となる作品も現れている。

『ワーキング・ガール』(1988年、マイク・ニコルズ監督)は、実業界に働く現代女性が描かれる。仕事に恋に女同士の戦いが繰り広げられるが、若い主人公が中年の女性上司から仕事も恋人も奪ってしまう。登場する女性たちのファッションこそダークスーツに変わったが、「若い女性が勝者、中年女性はヒール(悪役、悪者)」という定型には変化がない。『危険な情事』(1987年、エイドリアン・ライン監督)では、妻子ある男性と一夜の情事を持った女性が彼に執着し、その家族にも付きまとうのだが、最後は妻の手によって暴力的な手段で彼女が打ち負かされ、一家の平和が回復される。シンデレラのその後とも言える家庭の主婦が善なる存在として、独身の有職女性が凶悪な存在として描かれているのである。発題者はこの映画が封切られた時、これを米国中西部の一都市の映画館で見たのだが、妻が夫の情事の相手をピストルで撃ったとき観客から拍手が湧き起こったことが忘れられない。確かに、陰惨な手段で子供にまで嫌がらせをする女性が打ち負かされたときには思わず「よくやった」と言いたくなったのではあるが、この拍手には驚きと聊かの居心地の悪さを禁じ得なかった。「妻=善、独身女性=悪」という構図にやすやすと感情移入してしまいそうになった自身への苛立ちであったかもしれない。『プリティ・ウーマン』(1990年、ゲイリー・マーシャル監督)、『サブリナ』(1995年、シドニー・ポラック監督によるリメイク作品)は、若い女性がその若さと美貌(だけ)によって望むものを手に入れていくシンデレラストーリーそのものである。

しかし、中年女性の感じ方を受容し安らぎを提供しようとするかのような作品も現れている。『イーストウイックの魔女たち』(1987年、ジョージ・ミラー監督)では、彫刻家、音楽教師、ジャーナリストという専門職を持つ女性たちが主人公である。凡庸な男たちに飽き飽きしていた彼女たちの前に、一人の魅力ある男性が現れ、3人それぞれに言いよる。ところが彼は実は悪魔で、自分の子供を彼女たちに産ませるために現れたのであった。3人はいわば「恋敵」であるはずだが、男性をめぐって仲間割れするという展開には至らず、彼女たちはその知恵を働かせ協力して悪魔を葬り去るのである。『ファーストワイフ・クラブ』(1996年、ヒュー・ウィルソン監督)では、夫を若い女性に奪われた「元妻」たちが手を結んで不実な夫にしっぺ返しをする。前の時代の作品と違って、中年女性は「やられっぱなし」の惨めな存在ではなく、知恵も力も仲間も持つ頼もしい存在として登場する。『ため息つかせて』(1995年、フォレスト・ウィテカー監督)では、4人の女性の恋愛、結婚、離婚、仕事にまつわるトラブルや悩みが描かれ、女性たちが様々な鬱屈を抱えながらも女性同士の連帯の中に安らぎと夢を見出す姿が描かれている。ただ、それがパートナーの男性への幻滅感の裏返しのように見える点が、いささか苦さを感じさせる。社会に活躍の場を得て実力をつけた骨太の女性には、庇護者としての「王子様」がいないのは当然としても、パートナーもいないということなのであろうか。『マジソン郡の橋』(1995年、クリント・イーストウッド監督)は有夫の中年女性の恋愛を描いているが、この作品でも、恋の素晴らしさの裏には夫との生活への深い失望がある。

2-3  2000年代のアメリカ作品

2000年前後のアメリカで圧倒的な人気を博した作品に、『セックス・アンド・シティ』がある。テレビドラマとして1998年から2004年まで放映され、映画版は、2008年と2010年に作られた(マイケル・パトリック・キング監督)。それぞれに専門的職業をもってニューヨークで働く4人の女性を中心とした話で、仕事も自分の生活スタイルも大事だが恋もしたい4人がそれぞれパートナーを得るまで、また、得た後も続く紆余曲折が、赤裸々な女同士の会話を交えて描かれる。

この作品の中には社会や認識の変化を反映していると考えられる点が数多く見られる。まず、女性主人公たちは、美しいが30代以上で、「初心な若い女の子」ではない。恋の経験も数々あり、男性を品定めする。この作品の中心的要素は、この4人の女性による会話、それも、性的話題を含む女性同士の会話である。そのほかにも、登場人物の人種、宗教、性的嗜好などが多様で、必ずしもWASP (White Anglo-Saxon Protestant)  
が理想的人物として描かれないこと、子供を持ち家族を作るという選択が恋愛関係の当然の帰結として想定されていないこと、女性の社会的地位が男性のそれより高いカップルが登場することなど、様々に現代社会と人々の認識の変化を反映する特徴を備えている。もちろん観客に娯楽を提供する「夢物語」である以上、現実の女性の生活や感情を等身大に反映しているわけではないが、男性に選ばれること以外の欲望を持ち、悩みや不安や利己的な気持ちを抱えている女性が「素敵な女性」として提示されるようになったことは、1950年代とは大きく異なる。

3.日本の作品

3-1 高度経済成長期以前の作品

1960年代前半までの、高度経済成長時代を迎える前の日本では、男性も女性も高等教育を受ける機会は限られおり、職業選択の幅にも大きな制約があった。その制約が女性にとってより大きかったことは言うまでもない。しかし、60年代前半の日本映画には、制約の中で生きる女性の逞しさを肯定的に描いた作品が複数見られる。『夜の流れ』(1960年、川島雄三・成瀬巳喜男監督)は、料亭を営む母とその娘、その料亭の料理人で実は母の愛人でもある男性を中心に話が展開する。娘は母と男性との関係を知らずこの男性を好きになってしまい、彼は遠くへ去る。その後、恋に殉じて全てを放擲しこの男性を追いかけていくのは、娘ではなく母である。娘は、当時としては珍しいことに大学を卒業しているのであるが、有利な縁談を断って自活の道を選ぶ。その道が母と同じ花柳界であるところには時代の限界が感じられるが、中年の母も若い娘も、それぞれの判断で自分の道を選択していく姿が描かれている点は、「人形のように可愛い女性が男性に選ばれる」姿を描いている同時代のアメリカ映画や、高度成長期のヒット作などとは、一線を画している。『小早川家の秋』(1961年、小津安二郎監督)は、京都伏見の造り酒屋を舞台に、主人である老人、その亡くなった長男の妻、養子を迎えて家業を継いでいる長女、未婚の次女、主人の昔の情婦とその娘などが登場し、長男の嫁への再婚話、次女への縁談、主人の死が描かれる。上品に描かれている女性もいささか野卑に描かれている女性も、それぞれの状況の中で生き抜こうとしている存在として提示されている。また、「嫁と小姑」との交情が、何かへの復讐心や諦めを前提としているのではなく、自分の道を選びとろうとしている者同士に生まれる清々しい共感に基づく連帯として描かれている。『鬼婆』(1964年、新藤兼人監督)は、仏教説話をもとに嫁と姑(若い女性と中年女性)との争いを描いた作品で現代劇ではないが、今泉(1997)は「二人の女の戦いがエロスの要素で勝る若い女の勝利に終わるという単純な筋道を辿らない」という点を評価している。高度経済成長期以前の日本映画において、中年・老年の女性が知恵と経験を備えた侮れない存在として、また、エロスにおいても若い女性と互角に渡り合う存在として描かれており、若い女性も「若さ・美しさ」だけでなく、自分の信念に殉ずる強さを備えた人物として描かれている点は、注目に値する。

3―2 高度経済成長期の作品

高度経済成長期にヒットした作品の中では、理想の若い女性は「最高の男性に選ばれるシンデレラ」である。1961年から71年にかけて実に17本もの作品が作られた加山雄三主演『若大将シリーズ』(東宝)は、老舗料理店の息子でスポーツ万能の「若大将」と呼ばれる大学生が主人公である。若大将は、同じ大学に学ぶ女子学生をはじめ多くの女性に愛されるが、その心を射止めるのは常に「澄子さん」である。彼女は、客室乗務員、宝飾店店員、自動車修理工、旅行添乗員など、様々な職業を持つ女性として登場するのだが、女子大生であることはない。圧倒的に美しいが、ささいなことで拗ねたり、若大将の友人の「青大将」を都合よく利用したり、若大将のもとに駆けつけるために仕事を放り出したり、その行動はどう考えても褒められたものではないが、若大将がそれを問題視することはない。興味深いことに、この作品には、若大将の「祖母」「妹」「父」は登場するが、「母」は既に亡くなったという設定になっていて、登場しない。「選ばれる美しいシンデレラ」の欠点を見抜くだけの知恵と経験、恐らくはまだ美しさも十分残している中年女性は、はじめから注意深く排除されているのである。

では、中年女性はどこにいるのであろうか。中年女性は「家を守る女」という形で居場所を与えられている。家業を担う屋台骨として女性が奮闘するという内容を持つ作品が高度成長期には複数作られているが、その代表格とも言えるのはテレビドラマ『肝っ玉母さん』(1968-72年、平岩弓枝・石井ふく子)であろう。夫を失い、家業の蕎麦屋の経営者となった中年女性が、長男とその妻、娘、妻の実家の人々、従業員など、周りのすべての人に頼りにされつつ、元気に働いて蕎麦屋の暖簾を守っている。家族や近所の人々の間に起こるもめ事や心配事を解決に導く「母さん」は、悪人の誰一人登場しないドラマの中でも格別の善人で、経営者として、人間関係の要として、彼女をとりまく世界に君臨している。しかし、「母さん」自身にはエロス的要素は一切ない。『細腕繁盛記』(1970-74年、花登筐)は、嫁いできた女性が家業の旅館を窮地から救い発展させる物語で、彼女を巡る恋愛の要素も描かれるが、主人公は家業の発展のため自分の恋を成就させることを断念する。人気ホームドラマ『時間ですよ』(1970-89年、松田暢子他)でも、「おかみさん」である中年女性が皆に頼りにされる中心人物としての役割を与えられていたが、もちろん、エロス的要素はない。このように、高度成長期のドラマでは、中年女性が、主人公として、あるいは重要人物として、大きな位置を占めている。とはいえ、エロスの要素を持たない「母さん」「おかみさん」が職業人として活躍する舞台はあくまでも「家業」、すなわち、家庭の延長上にある自営業の範囲であり、彼女が取り仕切っている集団は、隣人たちを含む拡大家族ともいうべき集団であった。

高度経済成長期を支えた類型的な「幸せ神話」の中で、女性は、「素晴らしい男性に選ばれるシンデレラ」となることが最高であり、もはやシンデレラではいられない年齢の女性には、「家庭の幸福の番人」という立場が与えられたと言えよう。この中年女性の立場に様々な制限があったことは確かであるが、この時期にも、中年以降の女性が中心人物と位置づけられていたことは、日本の映像メディアにおける女性描写の一つの特徴と言えるのではないだろうか。

3-3 高度経済成長期後の作品

高度経済成長期も終わりに近づき、「バブル期」へと向かおうとしていたころから、家庭を舞台とするドラマも、ほのぼのとした人間模様を描くというよりは、家族や近所づきあいの日常の中にある対立や諍いや不満を描くようになっていった。いわゆる「辛口ドラマ」と言われるものである。また、「家族の幸せだけを願う母」でなく、自分のエロス的要求を追及する中年女性が登場するようになる。『岸部のアルバム』(1977年、山田太一)は、何一つ不自由のない家庭の貞淑で幸福な妻と見える中年女性が若い男性を恋人に持つというストーリーで注目を集めた。『阿修羅のごとく』(1979年、向田邦子)でも、夫を亡くし妻子ある男性と恋愛関係にある中年女性が登場する。

若い女性の描かれ方にも、新たな傾向が出てきた。恋愛が重要要素であることは変わりないが、職業人としての側面がそれ以上に大きく扱われるようになった。新しい要素を含んでいたと思われる作品として『悪女』(1992年、深見じゅん原作)を挙げたい。これは、同名の連載漫画を原作にした作品で、主人公は、落ちこぼれ女子大生であったが運よく一流企業に採用され、失敗を重ねながらも頭角を現していく。「ダメな子」が「エリート」に勝っていくというのは典型的に漫画的なストーリーではあるものの、着目すべきは、主人公が「企業の中で出世して見せます」と社会的野心を露わにすることである。普通の女性が一般的組織での成功を欲すること、しかもそれを明言することを肯定的に描くという点は、従来の描写とは少しく異なる。ほかにも、女性が料理人を目指して努力する『おいしい関係』(1997年、槇村さとる原作)、女性があらゆる窮地を救う「超人」として登場する『ハケンの品格』(2007年、中園ミホ脚本)など、職業人としての女性を描くドラマが多く作られている。これらの作品の描写には体制側にとって都合のよいイメージが差し出されていると言える点があり、また、「結婚」をゴールとする徒競走のような恋愛を描く作品も相変わらず作られているが、「男性に選ばれること」が若い女性にとっての理想でありゴールであるという前提が弱まり、社会の中での一職業人としての女性が多く描かれるようになってきたことは確かである。女性が努力して職業上の成功を手にする物語はこれまでにもあったが、それらの多くは、前節で述べたように婚姻(および、夫の死去か無能)によって女性に差し出された家業、あるいは、「バレリーナ」「女優」など特殊な才能が人を選ぶ分野を舞台としており、平均的女性が自分の意志で選び取った仕事とは言えなかった。

4.メディア分析から見えてくるもの

非常に大雑把に日米の映像メディアに現れた女性像を概観してきたが、さらに大雑把にその傾向を纏めるならば、アメリカは、女性を性的な存在としてとらえる傾向が支配的であったのに対し、日本では、その母性に焦点をあてる度合いが高かったと言えるのではないだろうか。高度成長期に現れた、エロス的要素は封印されているが安定と権威を得ている中年女性の像は、母性を基盤に確固たる地位を占めている女性像の典型であろう。

家庭という王国の権力者という太母的中年女性の像は、日本女性の位置を理解する上で重要な鍵となるように思われる。日本のジェンダー間の平等の度合いは、世界経済フォーラム(World Economic Forum)
のまとめたジェンダー格差指数(Global Gender Gap Index)によると2012年には世界135か国中101位で、この数値から見る限り、日本女性の地位は男性に比べて著しく低い。興味深いことに、「教育程度」「健康・生存」の面ではほぼ完全に近い平等が達成されていて社会進出のための基礎能力は得られているはずであるにも関わらず、「経済的参加」の度合いが低く、「政治参加」に至ってはほぼ完全不平等とも言える数値で、世界でも最低ランクなのである。アメリカ映画によく現れる、日本人女性にとっては違和感を抱かずにはいられない弱々しい日本人女性の像、たとえば、『ガン・ホー』(1986年、ロン・ハワード監督)の中の経営者の妻が夫に隷属しているように描かれるのも、こうした数値から見れば無理もないかもしれないと思わせられる。しかし、それにも拘わらず、70年代以降アメリカで高まりを見せたウーマン・リブ運動も日本では大きな勢力を得るには至らず、一部の人々の真摯な努力にも関わらず夫婦別性も一般化せず、いまだに結婚によって多くの女性が夫の姓に改姓する。不思議とも思われるこのような状況を生み出している一要素として、家庭経済のやりくりをほぼ全面的に任されていた妻が少なくなかったという事実が指摘できるだろう。もちろん、日本人の妻のすべてが家の財布を握っていたわけではなく、支配権が及ぶのは家庭とその周辺だけという制限はあったものの、経済的裁量権を手にした女性は、豊かなアメリカの家庭の専業主婦でも自分自身の収入を持たない場合にはなかなか得られなかった自由を味わっていた。発題者は、高度経済成長期に子育て期を過ごした専業主婦である日本女性が「夫のお金は親のお金より使いやすいよね、安月給が玉に瑕だけど」と述べ、その友人の数名が笑いながら大いに同意して頷く場面に居合せたことがある。結婚に伴う改姓も、夫の家の正式な一員としての地位が与えられ、夫の死などに際しては妻が家業の経営権を得ることができる立場を保障するという面があった。もちろん、一般家庭の妻の地位は「おかみさん」という経営者の地位とは異なるが、規模は小さいものの「おかみさん」にも通じる裁量権があったことは、自信と安定につながっていたのであろう。女権拡張運動の盛り上がらない日本における女性のこうした特権的な一面を指摘する著作(Ho,1988年など)が現れる前から、統計からは見えにくい女性の実情、また、女性たちがどのようにその特権的立場に倦んでいくかを、映画やドラマはいち早く明らかにしていたと言える。

5.おわりに

アメリカにおいても、日本においても、映画やテレビドラマにおける女性像はこの半世紀、大きな変貌を遂げてきた。その変貌を推し進める最大の要素は社会そのものの変化であるが、それを支えるのは我々の認識であるが、一方、メディアが描き出す像は我々の認識に大きな影響を与え得る。観客としての我々が、娯楽を享受しつつも、メディアが描き出す姿を分析的に眺めていくことが、自分の、そして社会の認識をより大きな自由へとつながるものにしていくことに貢献し得るであろう。

参考文献

  • 今泉容子(1977)『日本シネマの女たち』ちくま書房
  • 日下翠(2000)『漫画学のススメ』白帝社
  • 因京子(1998)「映像メディアに見る女性」『放送芸術学』No.14,73-82
  • Benshoff, H.M. &Sean Griffin(2004) America on Film:Representing Race, Class, Gender, and Sexuality at the Movies, Blackwell.
  • Ho,Lucy(1988)『女性天国ニッポン』、マクミランランゲージハウス
  • Sigonrielli, N.(1987) Television and conceptions about sex-roles:Maintaining conventionality and the status quo. Paper presented at the annual conference of the International Communication Association.
  • ____________ (1990) Children, Television and Gender Roles:Messages and Impact, J of Adolescents Health Care, 11, 50-58
  • 世界経済フォーラム ジェンダー格差指数(Global Gender Gap Index by World Economic Forum)http://www.weforum.org/reports/global-gender-gap-report-2012
  • (因京子 ちなみきょうこ日本赤十字九州国際看護大学教授)


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