コンテンツへスキップ

学会誌12号-研究論文2(谷口)

「僕はかぐや姫」における「男装」

谷口秀子

要旨:小論では、松村栄子の小説「僕はかぐや姫」(1990)について、「僕」という男性の自称の使用によるヒロインの修辞的な「男装」に焦点をあて、この「男装」がヒロインのジェンダー認識といかに関わっているか、また、作品に反映されている作者のジェンダー観はどのようなものかを考察した。その結果、ヒロインの修辞的な「男装」は、女性であることを理由に否応なく課される女性の性役割やジェンダーからの一時的な避難の手段であり、ヒロインが「僕」という男性のペルソナを装う背景には、彼女の因襲的なジェンダー観と、それに伴う「女性性」の否定があることがわかった。さらに、ジェンダーにとらわれないためには、自分の中にある因襲的なジェンダー観を見直し、性別に関わらず本来人間に備わっているいわゆる「女性的」とされる特質と「男性的」とされる特質の両方を生かして自己のアイデンティティを確立することが必要であるという作者の主張を明らかにした。

キーワード:修辞的な「男装」、「僕」、ジェンダー、性役割、両性具有

1.はじめに

日本の子どもおよびヤングアダルト向けの読み物において、女性登場人物が男装する作品は少なくない。その多くは少女漫画であり、女性登場人物の、特にヒロインの男装は、日本の少女漫画の大きな特徴のひとつであると言っても過言ではないであろう。たとえば、男装のヒロインの草分け的な作品である手塚治虫の『リボンの騎士』(1953-1956)におけるヒロインのサファイアは、とある国の王の娘であるが、男性でなければ国王になれない決まりのため、生まれたときから王子として育てられ、国を守るために勇敢な騎士として、男性を凌ぐほどの活躍をする。同様に、池田理代子の『ベルサイユのばら』(1972-1973)のヒロインであるオスカルも、貴族の家の跡取り息子として育てられ、フランス革命の時期に、自らの信念にもとづいて民衆の先頭に立って闘う。田村由美の『BASARA』(1990-1998)のヒロイン更紗は、自らの意思で男装し、死んだ双子の兄タタラとして、圧制者から村人を救うために壮大なスケールの闘いを繰り広げる。

上にあげた3つの作品の時代設定は異なるものの、いずれの男装のヒロインも、女性に対するジェンダーの制約の多い因襲的な社会において、男装をして男性として振る舞うことにより、ジェンダー越境を果たし、最大限に能力を発揮して社会のために活躍する。彼女たちが発揮する能力とは、闘いにおける勇気や強さといった、因襲的に「男性的な」特質と考えられているものであり、男装は、ヒロインにとってのエンパワーメント装置であると考えられる。

『BASARA』の連載開始と同じ1990年に発表された、松村栄子の小説「僕はかぐや姫」は、上にあげた少女漫画3作品とは異なる手法で、ヒロインの男装を描いている。「僕はかぐや姫」のヒロインである17歳の女子高生千田裕生(ちだひろみ)は、少女漫画の男装のヒロインたちのように異性装によって性を偽り男性の外見を手に入れてジェンダー越境を果たすのではなく、ましてや、剣を持って人々のために闘うのでもない。「僕はかぐや姫」で描かれるのは、思春期の少女である裕生の高校生活を中心とした日常であり、彼女が行う男装とは、その日常において、自分のことを「僕」と呼ぶ、言葉による修辞的で比喩的な「男装」注2なのである。

小論では、「僕はかぐや姫」におけるヒロイン裕生の言葉による修辞的な「男装」に焦点をあて、ヒロインの言葉による「男装」が、彼女のジェンダー認識とどのように関わっているかを考察する。その際に、裕生がどのような形で、また、どのような理由で「男装」をしているかを明らかにし、裕生の「男装」が、少女漫画の主人公のようにジェンダー越境やエンパワーメントの装置であるのか否か、そして、裕生にとって、「僕」と名乗ることにどのような意味があり、どのような理由で裕生は「僕」という自称を捨てるのかを論じることにより、ヒロインの「男装」を通して提示される作者のジェンダー観を明らかにする。

2.修辞的な「男装」

「僕はかぐや姫」のヒロイン裕生の言葉による修辞的な「男装」は、主として、「僕」という男性の自称の使用によるものである。この小説の舞台は、裕生の通う女子高にほぼ限られており、裕生以外の登場人物は、ほとんどが彼女の通う女子高の生徒であり、それ以外は、高校の男性教師や近くの男子高の生徒などが短いエピソードにおいてごく少数登場するのみである。このような女子高という女性ばかりの閉じた空間の中で、裕生は、自らを「僕」と称し、いわゆる「女言葉」注3 の使用を避け、自らに割り振った「うつむく青年」(p.17)の役を演じている。

裕生は「僕」と名乗り言葉の上での「男装」をしているものの、小説や漫画やドラマなどをはじめとする多くのメディアにおいて男性の言葉として用いられる「~だぜ」などのような誇張されたステレオタイプ的な「男言葉」を用いることはほとんどない。小説冒頭の、裕生と友人が登校する以下の場面におけるように、裕生の言葉づかいは、「僕」という男性性を強く意識させる言葉を除けば、全体としては、むしろ中性的な印象を与える。このことは、少女漫画の男装のヒロインが男装して男性として振る舞うときの言葉づかいに、男性性を強調したステレオタイプ的な表現が見られるのとは、対照的である。

そう思いながら、裕生は傍らの原田が何か尋ねたのを半ばさえぎるかたちで言った。
「僕さ、十七歳なんだよね、今」
「知ってるよ、あと二週間だけね。僕の場合はあと半年は十七歳」
   ・・・(中略)・・・
「あのね、僕は常々思ってた。年齢を問われるのが不愉快じゃない時期があるとしたら、それは三歳のときと十七歳のときだけだって」
「誰かの格言?」
「ちがう。四歳のとき僕がそう思った。どこかの知らないおばさんがニコニコしながら『いくつ?』って聞いたとき。うんざりした。頼むからもう少しマシなこと聞いてくれって思ったよ」
(pp.7-8)

この会話において、作者は、誇張されステレオタイプ化された「男言葉」によってではなく、主に裕生と友人の描き方や会話の内容によって、二人が男性であるという印象を読者に抱かせようとしている。すなわち、二人が自分のことを「僕」と呼んでいること注4 に加えて、「ひろみ」という女性だけでなく男性にも用いられる名前、「裕生」という漢字の名前が持つ男性的なイメージ、そして、小説の語り手が裕生の友人を原田と呼ぶことも、二人が男性だと読者に思わせる効果を持っている。また、幼いときに年齢を聞かれたことについて語る際の、裕生のうんざりしたような突き放したものの言い方と、「常々」や「問われる」などの硬い言葉の選択などの、創作において男性を描く際に用いられるステレオタイプ的な描写法の採用が、二人の性別に対する読者の思い込みをさらに強化しているのである。

上の会話に続く裕生と原田の話しぶりも、二人が男性であるという先入観を持った読者には男性同士の会話のように聞こえる。

「可愛げのないのは昔からなんだ」
裕生は瞬きというにはもう少しゆっくりと瞼を閉じて開いた。
「それは認める。可愛いことが武器になるなんて思ってもみなかった」
「今だって思ってるようには見えないけど」
「教養が邪魔をする」
「ほう」
「だからね、僕はこうも思う。男性好みの女性を作りたいなら、断じて教育なんかすべきじゃない。いらぬ知恵を詰め込んでおきながら、三歩下がれったってそんなの馬鹿げてる」
(pp.8-9)

ここでの裕生の主張は、あたかも、男性である裕生が、女性は男性に従うべきだという因襲的でジェンダーバイアスのかかった視点から、なまじ女性に教育をすれば教養が邪魔をして男性に従うことができなくなるという理由で、女性に対する高等教育を批判しているかのような印象を読者に与える。しかしながら、その直後の、「六月、桜の樹からはよく毛虫が落ちてくるのでほとんどの在校生はこの並木を憎悪していた。同じように並木を迂回するスカートの裾がひらひらと揺れる」(p.9)という描写から、この学校が女子校であり、裕生と原田が女性であることが明らかになる。このとき、「男性好みの女性を作りたいなら、断じて教育なんかすべきじゃない。いらぬ知恵を詰め込んでおきながら、三歩下がれったってそんなの馬鹿げてる」という裕生の言葉は、言葉によって比喩的な男性を演じている裕生が、第三者的な視点を装い女子教育について語っているのと同時に、彼女自身が思春期の女性として現在感じているジレンマ、すなわち、建前上は男女平等の教育をしていながら、一方では女性に「女らしさ」や女性の性役割(ジェンダー・ロール)を押しつける学校や社会に対する反発を表しているのである。そして、これ以降、読者は、ヒロイン裕生の言葉による「男装」とその背景に潜むジェンダー的な意味に、否応なく対峙させられることになる。

3.「女性性」の否定と「僕」

『リボンの騎士』のサファイアら少女漫画の男装のヒロインの多くは、男性の衣服を着て性を偽り、公には男性として振る舞う。彼女たちは、このことによって、社会的に男性のペルソナを獲得してジェンダー越境を果たし、行動を束縛する因襲的な女性ジェンダーから解放された状況で、社会における行動の自由と力を手にし、持ち前の卓越した能力をいかんなく発揮するのである。また、彼女たちが発揮する能力は、戦闘能力などの、因襲的に「男性的な」特質とされるものが多いのが特徴である。一方、「僕はかぐや姫」のヒロイン裕生は、外見では、制服のスカートというお仕着せの女性の記号を身にまといつつ、同時に、言葉の上では、自ら選んだ「僕」という男性の記号をまとっている。裕生は、外見の性別の「女性性」を保ったまま、修辞的な「男装」をすることによって、何から解放され、何を獲得しようとしているのであろうか。

女性である裕生が男性の自称である「僕」を用いて自分を表現する行為は、裕生のジェンダー観あるいは、ジェンダー・アイデンティティの揺らぎと密接な関係がある。作者は、裕生が「僕」という自称を選択した理由の断片を彼女自身に語らせるばかりでなく、自由間接話法の手法を用いて「僕」の使用にまつわる裕生の心の内を克明に描き出していく。特に、友人の隠香(しずか)が、女性である裕生が「僕」と名乗っていることを奇異に感じ、その理由を尋ねる以下の場面に、裕生が「僕」と名乗るにいたる精神的な過程が示唆されている。

「男の子になりたかったの?」
    ・・・(中略)・・・
「よくわからない。きっと女の子は嫌だったんだと思う」
「どうして?」
   ・・・(中略)・・・
「産んでくれと頼んだわけじゃないのに生まれてきて、生きるって決めたわけじゃないのに、人間として生きることさえ選択してもいないのに、女性として生きるって決めつけられて何の選択権もないなんて、とても理不尽な話だって昔思ったんじゃないかな。『ちょっと待って』って言いたかった。だから、男の子になりたいかどうかはともかく、とりあえず女の子ってことはこっちにおいといてって」
実際、最近は同世代の男の子を見ていると、昔ほど無邪気に男の子になりたいとは言えないものを感じる。
「ふうん・・・・・・それってつまり、男とか女とか言う前ののっぺらぼうな人間ってこと?」
「えっ、うん、そう」
のっぺらぼうという言い方に少しとまどいながら裕生は頷いた。裕生の中ではそれは透明な人間性という意識だった。性以前の透明な精神性。
「女の子ってことはこっちにおいておくと、どうして<僕>になるの?」
隠香は曖昧に頷いてはくれなかった。意外な熱心さが裕生をとまどわせる。
「・・・・・・さあ。だって、日本語には男女共通の<I>ってないじゃない」
「<わたし>は?」
「おとなはともかく、僕らの年齢で男の子が<わたし>なんて言う?」
「言わないね」
「でしょ?子供って、女の子しか<わたし>なんて言わない。もっと小さい頃は自分のこと<ひぃちゃん>って呼んでたけど」
(pp.53-55)

「女性として生きるって決めつけられて何の選択権もないなんて」という裕生の言葉には、女性であるというだけで一括りにされ、「女らしさ」や女性の性役割を勝手にしかも有無を言わせずに押しつけられることに対する異議が込められている。裕生にとって、「女らしい」精神などというものの存在はとうてい認められないものであり、精神は肉体の性別とは関係なく存在すべきものである。裕生は、作品の所々で肉体と精神の関係に言及し、「肉体は精神の軛に過ぎない」(p.47)と主張して、生物学的な性別とジェンダーについての問いを投げかける。すなわち、裕生にとって、精神とは、身体的な男女の性別とは関係のない「透明」で中性的なものであるべきものであり、彼女は、生物学的な性別を理由に、行動ばかりか精神のあり方も規定されかねない状況に反発を覚えているのである。

裕生は、「性以前の透明な精神性」を持ち続けたいと願う。つまり、身体の性別によって規定されたり制限されたりすることのない、身体の性別によって色づけされていない「透明な」精神こそが、裕生の求めるものであり、彼女は、上の引用におけるように、自分を「ひぃちゃん」と呼んでいた幼い頃のような、肉体の性別によって規定されない、すなわち、女性ジェンダーにとらわれない精神を保ちたいと強く願っている。そのような理由から、裕生は女性という性を意識させる自称の使用を避けるのである。裕生は、たとえそれが男女両方が使用できる「わたし」という自称であろうとも、女性が用いる可能性のある自称を使うことを拒否し、女性が用いない男性特有の自称「僕」を使う。従って、裕生にとって、「僕」という自称による「男装」は、男性になるためではなく、女性という性にまつわるジェンダーや性役割や「女らしさ」の強制に絡め取られない中性的な存在でいるための一種の「防波堤」(p.87)なのである。

「女の子ってことはこっちにおいておくと、どうして<僕>になるの?」という隠香の問いは、示唆に富んでいる。女性ジェンダーから解放された、身体的な性別によって左右されない「透明な人間性」を表すための「男女共通の<I>」にあたる自称として、裕生が「僕」という男性特有の自称を選択したことは、裕生のジェンダー観をよく表している。裕生は、性やジェンダーによって色づけされていない「透明な存在」や「透明な人間性」を男性の自称である「僕」と関連づけ、以下のように考える。

多分そんなとき、裕生は<僕>に、より同化するのだろう。<僕>と書くとき、それは、ひとつの目、千田裕生の肉体やうっとうしい思惑を離れたひとつの魂の視点だった。透明な視点。何者でもない僕。(p.43)

ここでもやはり、「透明」であることとは、裕生にとって、女性という身体の性別に影響を受けない中性的な精神のあり方を意味している。しかしながら、ここで、裕生が、女性としての肉体から切り離された中性的な精神のあり方を、男性の自称である「僕」という男性の記号と同一視していることは注目すべきである。その背景には、「肉体やうっとうしい思惑を離れた」という表現に見え隠れする、いわゆる「女らしさ」や「女性性」についての裕生の否定的な思いが見てとれる。つまり、「きっと女の子は嫌だったんだと思う」、「とりあえず女の子ってことはこっちにおいといてって」という言葉にも表れている裕生の「女性性」に対する否定的な感情は、因襲的に「女性性」の対極に位置づけられている「男性性」へのあこがれへと転化しているのである。そのため、裕生は、彼女が望んでやまない中性的で透明な自己を表すために、「女性性」の否定形としての「僕」を用いるのである。

また、裕生は、「透明な精神性」とともに、「優しさとか思いやりとかいったお為ごかしをぬぐいさったところで、毅然と立っていられる強さがほしかった。何にも寄りかからずにまっすぐに立っている針葉樹の冷たい凛々しさがほしかった」(p.14)と、自立した強さと主体性を合わせ持つ存在であることを強く望んでいる。ここでも、裕生は、因襲的には女性に帰するとされる「優しさとか思いやり」を否定し、強さと主体性を兼ね備えた理想的な自己の像を表現する手段として、「僕」という男性の記号を選んでいるのである。さらに、

あれから裕生は<僕>を気取る自分の心情について考え始めた。もっと純粋でもっと硬くもっと毅然とした固有の一人称がほしいと思った。魂を、透けて見えても恥じない水晶のようにしたいと願った。(p.42)

という文章から、裕生が、「僕」という男性の自称を、「あたし」や「わたし」などの女性あるいは男女共通の自称よりも「もっと純粋でもっと硬くもっと毅然とした固有の一人称」として捉らえていることがうかがえる。「僕」という一人称は、裕生にとって、「女性性」の否定の手段としてだけではなく、「毅然と立っていられる強さ」を持つ自分のあるべき姿を表す言葉でもあるのである。つまり、裕生は、「毅然と立っていられる強さ」を持つ自分の理想の自己像は、女性の記号によってではなく、男性の記号によって表されるべきであると考えているのである。

「きっと女の子は嫌だったんだと思う」、「とりあえず女の子ってことはこっちにおいといてって」という裕生の言葉には、彼女がそうありたいと願う、身体の性別とは無縁の中性的な精神性が、いわゆる「女性性」や女性の性役割の否定や拒絶によって成り立っていることを表している。それを端的に表しているのが、上で述べた、裕生が中性的な自称として、男性同様女性が使う可能性のある「わたし」を排除し、女性が使う可能性のない「僕」を選択していることである。さらに、裕生の「女性性」に対する否定を裏付けるものとして、「僕はかぐや姫」の随所に、因襲的に「女らしさ」や「女性的」と考えられているものに対する、裕生の嫌悪感や不快感を見いだすことができる。たとえば、裕生は、他の生徒の女の子らしいポニーテールの髪型に「うっとうしい」(p.10)と不快感を抱き、進学校でありながら「良妻賢母」(p.11)教育よろしく掃除や礼法に重きを置く女子高のあり方に反発を覚え、可愛さや愛嬌を武器にして人に媚びることを拒否するのである。「僕はかぐや姫」の章のひとつの見出しになっている「否定語を並べれば僕ができる」(p.26)という言葉や「否定と拒絶からなる<僕>」(p.44)という表現は、まさに、このような裕生の「女らしさ」や「女性性」に対する拒絶と、その結果できあがった「僕」という裕生の装う男性のペルソナのあり方を表しているのである。

4.因襲的なジェンダー観

上で論じたように、裕生は女性に課せられる性役割に反発して、因襲的に「女らしさ」や「女性性」とされるものを拒絶し、女性の性役割とジェンダーへの嫌悪感を示している。注5 また、裕生は、女性の鋳型に浸食されていない「透明な」精神を保つ手立てとして、「女らしさ」や「女性性」の否定形としての「僕」という「男性性」を含んだ自称を利用している。裕生が「僕」という自称を使うのは、女性の自称としての「あたし」などが象徴する「女性性」や女性のジェンダーを拒否するためである。

裕生が演じている「のびやかで透明」(p.44)な「僕」は、裕生の「女性性」と女性ジェンダーに対する否定と拒絶の結果生まれた男性のペルソナである。裕生自身は、女性のステレオタイプに組み込まれることを拒否し、「僕」という男性の記号を用いることによって、「女らしさ」や「女性性」から距離を置き、中性的な精神性を保とうとしているのであるが、彼女がいわゆる「女性性」あるいは、因襲的に「女性的な」特質であると考えられているものに対して抱いているイメージは、きわめて因襲的でステレオタイプ的である。さらに、「少年という言葉には爽やかさがあるけれど、少女という言葉には得体の知れないうさんくささがある」(p.53)などという彼女の思いからも察することができるように、裕生は「女性性」に対してマイナスのイメージを抱いている。彼女は、女性としてカテゴリー化されて女性のジェンダーに縛られるのを嫌い、「女性性」と呼ばれるものを拒否しようとするあまり、因襲的に「女性性」と関連づけて考えられている特質の価値をおとしめ、その対極にある因襲的に「男性性」と関連づけて考えられている特質の方をより高く評価する傾向にある。また、自分が好ましいと思う特質を「男性的な」特質と考える傾向もうかがえる。上で指摘した「優しさとか思いやり」を「お為ごかし」と切り捨て、「毅然と立っていられる強さ」および「何にも寄りかからずにまっすぐに立っている針葉樹の冷たい凛々しさ」を求める裕生の態度は、まさにその良い例である。

このように、裕生の女性観は、極めて因襲的でステレオタイプ的である。彼女は、女性のジェンダーから逃れて中性的であろうとして、「女性性」を否定するとともに、「女性性」の対立概念である「男性性」を肯定している。同様に、裕生の男性観もまた、ステレオタイプ的であり、因襲的なジェンダーの影響を受けている。裕生は「男性的な」特質をプラス、「女性的な」特質をマイナスとみなしており、そこには、世間一般に見られる男性と女性の間のジェンダーの非対称性が反映されている。さらに、裕生は、人間の特性を、自動的に「男性的」「女性的」と二分し、自分があこがれる自由や強さに結びつくものを「男性的な」特質として肯定する一方で、優しさや思いやりを「女性性」と関連づけて否定するのである。言い換えれば、裕生は、「僕」と名乗ることによって、「女性的な」特質を受け入れることを否定し、「男性的」とされる特質を身につけようとしているのである。そして、このことは、裕生自身が自分が女性であることを肯定的に捉えることができないことを示唆している。

裕生は、修辞的な「男装」をしながら、自立性と主体性、強さ、利己主義、他人に対する未練のなさや冷淡さを装っているのであるが、それらの特質は、すべて、依存性と従属性、弱さ、他者に対する優しさと思いやり、他者への共感やケア役割や友情などの因襲的に「女性的」とされる特質と二項対立的な特質、すなわち、「男性的」と考えられている特質である。また、裕生には、彼女が否定する女性に課せられる性役割の対立概念として、抑圧に対する自由、控えめに対する活発さ、弱さに対する強さというような、「男性的」とされる特質へのあこがれがある。このように、裕生は、因襲的な女性ジェンダーから自分を解放し、中性的な存在でいるために、「男性性」を利用しようとしているのである。そのため、性別にとらわれずに中性的でありたいと願っているにもかかわらず、裕生は、自分でも意識しないうちに、男性のペルソナに支配されているのである。

さらに言えば、裕生は、「女らしさ」や女性の性役割に反発しながらも、あるいは、反発するがゆえに、ジェンダーの言説に深くとらわれている。たとえば、女性が男性に対して「三歩下がる」ことを意識し、男性は強く女性は弱いものだと決めつけ、女性である自分が数学が苦手なことは自然だと考え、隠香が数学が得意であることに驚き、女性は文学作品を好き嫌いで論じるが男性は理論的に論じると考えるなど、彼女自身のステレオタイプ的かつ因襲的な女性観・男性観は明らかである。裕生の心の中には、因襲的なジェンダーの言説や男女の非対称性が刷り込まれており、その言説を覆すに足るロールモデルの存在もない。そのため、裕生は、その言説に挑戦することによってではなく、「僕」という男性の記号を身につけて「女らしさ」や女性のジェンダーから一時的に避難することによって、ジェンダーの束縛から自由でいようとしているのである。

5.性の相対化と「僕」

ジェンダーの言説にとらわれた裕生が作り上げた理想化された男性像と彼女の因襲的な男性観は、現実の男子高校生を前にして修正を余儀なくされる。また、修辞的な「男装」によって裕生が装っている男性のペルソナは、女子高という女性だけの閉じた世界においては、彼女にジェンダーの制約からの精神的自由を与える「ジェンダーをずらす」ための装置として機能するものの、現実の男性に対峙したときの性の相対化により、その機能の不全性を露呈することになる。

裕生が以前短期間交際していた男子高校生藤井彰と久しぶりに会ったときの、裕生と彰の会話は、男性のペルソナをまとっているはずの裕生の性が相対化されるようすを表している。裕生は、男性不在の女子高の中では自分が女性であることを強く意識させられることは少なく、男性のペルソナを演じて男性の仲間入りをしているつもりでいるのだが、現実の男性との対面は、彼女が女性であることを彼女自身にあらためて突きつけるのである。

彰との会話における裕生の言葉づかいは、女子高における彼女の言葉づかいと大差はなく、おおむね中性的な印象を与える。しかしながら、女子生徒との会話の場合と大きく異なるのは、6ページにわたって続く裕生と彰の会話において、裕生が一度も一人称の呼称を使わず、その結果、「僕」という言葉が全く使われないことである。ここで、普段「僕」と名乗ることによって修辞的な「男装」をしている裕生の言葉づかいは、以前好意を抱いていた彰との会話においては、「僕」という男性のペルソナを失いかけている。また、「可愛い」という言葉に、「女らしさ」の押しつけを感じて不快感を抱いているはずの裕生が、「あのとき、可愛かったもんな」(p.69)という彰の言葉には反論せず不快感も示さない。このように、裕生は、彰との会話においては、言葉による「男装」をしていないし、する必要も感じていないかのようである。つまり、「誰も女性である必要がない」(p.46)女子高においては、自らの性を「忘れていられた」(p.46)はずの、そして、「女らしさ」を拒否して修辞的な「男装」をしていたはずの裕生が、以前好意をもっていた少年と話すときには、性の相対化をされることによって、女性であることを意識させられ、男性の仮面をうまくまとうことができなくなっているのである。

また、彰という現実の少年を目の当たりにすることによって、裕生が思い描き自らもそれをなぞろうとしてきた彼女の理想としての男性像の妥当性が脅かされることになる。裕生は、目の前にいる彰の様子を見て、自分が思い描いている男性像と現実の男性との違いに気がつく。裕生は、「違うんだもん・・・・・・なんか思い描いてた男の子と」(p.70)と述べ、「・・・・・・何て言うか、木の枝みたいな脚でサッカーボール蹴ってるの。それでね、身体が軽いから風みたいにびゅんびゅんグラウンドを走るの・・・・・・」(p.71)という自分が思い描いていた、少女漫画に出てくるようなはかなげで清々しい少年のイメージと目の前にいる彰の筋肉質の身体の違いを認識する。そして、彼女は、自分が思い描いている男性像が、非現実的な幻想であり、彼女にとって好ましい理想化された男性像でしかないことを思い知らされるのである。また、日頃、他者への思いやりは「女性的な」感情だとして、他者に対して冷淡であろうとしている裕生は、男性である彰が彼女のことを思いやりながら話していることにも気がつく。このことは、彼女の女性観と男性観がいかにジェンダーにとらわれたものであるかを示唆しているのである。

さらに、裕生たち女子高の文芸部員が近くの男子高を訪れて男子高校生の実態に触れたときのエピソードにおいても、裕生のステレオタイプ的な、そして異性に対する幻想とも言えるジェンダー観が明らかになる。このエピソードは、現実の男子生徒が裕生の思い描いていた中性的な少年のイメージとは大きく異なること、裕生の抱いている少年のイメージとは、自分が好ましいと思っている幻想の中の男性像でしかないことを再び彼女に思い知らせることになる。たとえば、裕生が男子高で感じる不快感は、彼女が少年に対して抱いているイメージが、現実のものとは大きく異なることを雄弁に語っている。裕生は、男子高を「汚い学校」(p.74)だと感じ、文学部員の男子生徒たちが、自分が思い描いていたような「うつむく青年」や「憂鬱な美青年」(p.74)ではないのを見て、不機嫌になる。そして、「このおぞましい生物たちがネチネチと暗い部屋でモノを書いているのかと思うと吐き気をもよおしそう」(p.74)とすら考えるのである。また、色白のハンサムな少年に対しても、裕生は、女性に好意を持たれるはずだという彼の自信に満ちた態度に不快感を覚える。このように、現実の少年たちは、裕生が考え自らそのペルソナを装っている幻想の中の中性的な少年とは似ても似つかないのである。

また、男子高の文学部員たちは、「『僕は』口調」(p.75)で「男装」している裕生たち女子高文芸部員に対して、同類として仲間意識や親近感を持つどころか、逆に違和感を覚え、「憐れむように口を閉ざし」(p.75)すらする。また、裕生たちがいかに「『僕は』口調」で男性のペルソナをまとおうとしても、男子部員にとっては、彼女たちはあくまでも女子高校生でしかない。このように、女性だけの閉じた世界ではジェンダーから逃げ、「ジェンダーをずらす」装置として機能していた彼女たちの「男装」が、外の世界で男性を前にすると、ジェンダーを超えて男性の範疇に入るための切り札にはなりえないのである。

このように、「女らしさ」や女性のジェンダーから距離を置き、中性的であるために、「僕」という男性の一人称を用いた修辞的な「男装」をすることによって、ジェンダーからの逃避をしている裕生は、どこかで自分が普通の女性とは違う名誉男性的な存在であると感じているのであるが、現実の男子高校生を前にして、自分が理想として演じている男性像と実際の男性像との違いと自分が紛れもなく女性であることを強く意識させられる。そして、裕生は、女性のジェンダーに影響されず性以前の中性的な精神性を保ち、「透明」でいるために、「僕」と名乗っているはずであるのだが、現実の同世代の男性と比較すると、自分は無色透明な存在ではありえず、すでに彼らとは異なる色がついていることを痛感させられる。同様に、裕生は、女性ジェンダーから無縁であり、そのため、中性に近く「透明」に近いと思っていた少年たちが、実は中性的でも「透明」でもありえず、「男性性」や男性ジェンダーの色がついているという現実に目覚めるのである。また、「彼ら[男子生徒]の小説に出てくる少女は決して裕生たちのように自意識過剰の理屈屋ではなかったし、裕生たちの作品に出てくる少年たちは決して彼らのように醜くはなかった」(p.75)というように、両者はそれぞれすでに中性的でも透明でもなく、「男性的」「女性的な」視点を身につけており、それぞれが自分たちに都合の良いイメージや好ましい姿を異性に押しつけているのである。作者は、このようにして、裕生が幻想の中で作り上げた「透明な」人間像としての男性の理想像に姿を借りた「僕」が、女性だけの閉じた世界でしか存在しえない、現実味がなく弱く虚ろな存在であることを露わにすると同時に、色のついた男性という記号を、「透明性」という中性性を表す記号として用いることの不当性を裕生に思い知らせるのである。そして、その結果獲得された裕生のジェンダー認識の深まりは、彼女の修辞的な「男装」にも影響を与えずにはおかないのである。

6.修辞的な「男装」を超えて

「僕はかぐや姫」という本作品のタイトルは、ヒロイン裕生の修辞的な「男装」の意味を端的に表現している。「白雪姫やシンデレラよりは月に帰るかぐや姫に心を打たれた。可哀想だと思ったのではなく、羨ましかったのだ」(p.39)という裕生の内的独白は、女性の性役割やジェンダーに対する彼女のスタンスを代弁している。すなわち、裕生は、白雪姫やシンデレラのように因襲的な性役割にただ従うのではなく、意に染まぬ求婚を退け月に帰るかぐや姫のように、因襲的な性役割から逃れることを望んでいる。そして、裕生が「僕」という男性の自称を使って、「女性性」や女性の性役割から逃れようとする姿は、まさに月に帰るかぐや姫と同様、現実からの逃避に他ならないのである。

作者は、「僕」という男性の記号を装って現実から逃避することが、裕生がジェンダーに対して抱いている違和感の解決策になるとは、考えてはいない。作者は、裕生の中にある因襲的なジェンダー観と女性としての自己肯定感の低さを暴き、彼女が用いている「僕」という男性のペルソナのあやうさを露呈させることによって、裕生の言葉による「男装」が、ジェンダーから一時的に逃れるための手段に過ぎず、真の意味で彼女をジェンダーから解放するのではないことを明らかにする。裕生のジェンダー認識が深まるに従い、作者は、堤防が崩れるイメージを用いて、裕生がジェンダーから逃れるために演じている男性のペルソナ「僕」が無力化する様子を比喩的に描く。最終的に、裕生は男性の自称である「僕」を捨て、男女共通の自称としての「わたし」を選び取るが、このことは、裕生がジェンダー認識と自己認識を深め、精神的に成長したことを示している。

さらに、作者は、女性ジェンダーに取り込まれないために裕生が装っていた「僕」という男性のペルソナに投影されていた凛とした強さをはじめとする因襲的に「男性的」とされる特質は、実は、男性のペルソナを借りなくとも彼女の内面にもとから存在していた特質であることを明らかにし、さらなる認識の転換を図る。作者は、凛とした強さや自立を装うために裕生が仮面として身にまとっていた「僕」に投影されていた「男性的な」特質は、「他ならぬ彼女自身の一部」(p.88)であり、「たった今まで胸のここにあった自分の存在の一部」(p.89)であることを裕生に認識させる。このことによって、作者は、女性である裕生の心の中に、因襲的に「女性的」と思われる特質の他に、因襲的に「男性的」と思われる特質が存在することを示唆するのである。また、裕生は、自分の中に、優しさや思いやりなどの因襲的に「女性的」とされる特質と強さや主体性などの因襲的に「男性的」とされる特質を兼ね備えているのであるが、因襲的なジェンダー観とジェンダーの言説にとらわれていたために、そのことに気がつかなかったのである。作者は、裕生が、人間に生来備わっている精神的な両性具有性を自覚することによって、ジェンダーにとらわれない精神を持ちうる可能性を暗示しているのである。

裕生は当たり前のように<わたし>と小さく呟いてみる。<あたし>にならないように唇を触れあわせて<わたし>と。それはなんだか透明に思えた。<僕>よりはずっと澄んだ、硬質な響きに思えた。毅然として見えた。
(p.88)

 

裕生は手に入れたばかりの<わたし>を振り返る。男でもなければ女でもない、子供でもなければおとなでもない。そんな場所が今この刹那は許されているような気がした。この<わたし>は強い。ゼロではあってもマイナスではない。(p.90)

ここでは、作者は、自らのうちにある凛とした強さを認識した裕生が、修辞的な「男装」によって男性のペルソナを装わなくとも、彼女が希求しているジェンダーにとらわれない透明で硬質で毅然とした精神性を保つことが可能であることを示している。また、「女性性」の「否定と拒絶からなる<僕>」が「虚ろに弱々しくもあった」(p.44)のに対して、「女性性」と「男性性」の両方を含む「わたし」の強さが強調され、精神的な両性具有性こそが、ジェンダーにとらわれない精神のあり方を保つ方法であるという作者の考えが示唆されるのである。裕生の両性具有性は、男性と女性の両方に用いられる「ひろみ」という名前に象徴的に表されており、男女共通の自称である「わたし」が「女性的」でも「男性的」でもあるのとパラレルになっているのである。

ヒロインの言葉による修辞的な「男装」は、ジェンダーの押しつけに対する思春期の少女の反発や戸惑いをよく表している。作者は、ジェンダーから一時的に逃げることでは、問題は解決しないことを訴え、女性がジェンダーから自由であるためには、男性の記号を借りるのではなく、自分の内面にある両性具有的な特質に目を向けることが重要であると示唆している。また、ジェンダーにとらわれずに、自分らしくあるためには、自分自身の中にある因襲的なジェンダー観を見直し、自己認識を深めてアイデンティティを確立することが、今後のエンパワーメントにつながることを、作者は訴えているのである。

7.おわりに

『リボンの騎士』が発表されて以来、男装のモチーフは、主に少女漫画において、女性の登場人物にジェンダーを越境させ、行動の制約から解き放ち、「男性的な」活躍をさせる装置として用いられてきた。その前提には、社会における男女のジェンダーの非対称性があり、ジェンダーによって女性に課される制約の多さがあった。『リボンの騎士』が発表された1950年代当時、女性の社会進出は一般的ではなく、進出できる分野も極めて限られていた。読み物においても、華々しい活躍をする主人公はほとんどが男性であった。そのような時代に、冒険活劇的な物語の脇役としてではなく主役として颯爽と活躍する男装のヒロインのサファイアは、たとえ虚構の中のことであったとしても、子どもたちにとって、強くて勇敢な女性像のロールモデルとなった。

「僕はかぐや姫」における「僕」という男性の自称を用いたヒロインの修辞的な「男装」もまた、「女らしさ」や性役割から自由であろうとするジェンダー越境の試みである。しかしながら、少女漫画の男装のヒロインとは違って、「僕はかぐや姫」のヒロインである裕生は、修辞的な「男装」によるジェンダー越境によって、華々しい成果をあげるわけではない。それどころか、裕生の修辞的な「男装」の目的は、ジェンダー化された社会において、因襲的な「女らしさ」や女性の性役割の押しつけから逃れることであり、自分が女性であることを意識しないですむことである。

女性登場人物による「僕」という自称を用いた、異性装を伴わない修辞的な「男装」は、「僕はかぐや姫」においてのみ見られるわけではない。修辞的な「男装」という手法は、かなり以前から特に少女漫画などにおいて採用されており、その多くが脇役的な登場人物によって行われている。もともとこのような修辞的な「男装」は、因襲的な価値観や行動様式にとらわれない特異な女性登場人物を提示するために用いられることが多く、ジェンダーの越境もそのひとつである。1961年から1962年にかけて少女漫画雑誌に連載された、わたなべまさこの『おかあさま』に登場する礼子は、ズボンを履くことはあっても異性装によって性を偽ることはなく、「ボク」または「ぼく」と自称することによって修辞的な「男装」をしている。礼子の言葉による「男装」は、彼女を因襲的な女性像とは異なるものにしており、彼女独特の価値観や積極的な行動が、苦境に陥ったヒロインを救う働きをしている。礼子は、因襲的な女性ジェンダーの束縛から自由であり、因襲にとらわれない価値観を持った、飛び抜けて行動力のある女性像として描かれており、彼女の修辞的な「男装」は、彼女がジェンダーの制約や因襲的な価値観から自由であることを表す記号として用いられているのである。

「僕はかぐや姫」におけるような「僕」という男性の一人称を用いた修辞的な「男装」は、漫画や小説などに限らず、現実の同時代の少女の間にも見られ、現在では、「僕」と自称する女性に対して「僕っ子」や「僕っ娘」などの名称が与えられるほど社会的に認知されつつある。注6「僕はかぐや姫」は、このような男性の自称の使用による修辞的な「男装」をしているヒロインの内面を描き出した小説であり、作者は、現実に、思春期の少女の多くが抱いている、女性であるという理由だけで課される「女らしさ」や女性の性役割に対する違和感や反発を、ヒロイン裕生の修辞的「男装」によって象徴的に描き出しているのである。それゆえ、修辞的「男装」をして「僕」と名乗る裕生は特別な存在ではなく、彼女は、同様に修辞的な「男装」をしている女子高の文芸部員たちの代表であり、同時に、「女らしさ」やジェンダーの押しつけに戸惑い違和感を覚える同時代の思春期の少女たちの代弁者なのである。

「僕はかぐや姫」において、修辞的な「男装」は、ジェンダー越境によるヒロインのエンパワーメントや新しい視点の獲得を意味していない。むしろ作者は、ヒロインの裕生が「僕」という自称によって「男装」することによって「女らしさ」の押しつけから逃れようとするようすと、彼女が「女らしさ」や性役割の押しつけからの逃避の手段である「男装」から抜け出し、自己認識を深めて自己のアイデンティティを確立し始める過程を内面から描くことにより、思春期の少女たちのジェンダーに戸惑う心のあり方への理解と彼女たちの真のエンパワーメントのあり方に関するメッセージを発信しているように思われる。

「僕はかぐや姫」が発表された1990年を中心とする10年間は、日本における女性の社会的な状況に変化が訪れた時期である。1985年に日本は女子差別撤廃条約に批准し、それと連動して、1993年には中学校で、1994年には高校において、家庭科の男女共修が始まった。また、同じく1985年に、男女雇用機会均等法注7が公布され、さらに、バブル景気を経て、女性の雇用が増大し、社会における女性の活躍の場も広がった。このような学校や社会における女性を取り巻く状況の変化は、男は仕事・女は家庭というこれまでの因襲的な性役割に対して、別の選択肢を提示するきっかけのひとつとなったことは言うまでもない。しかしながら、裕生が口にする、「男性好みの女性を作りたいなら、断じて教育なんかすべきじゃない。いらぬ知恵を詰め込んでおきながら、三歩下がれったってそんなの馬鹿げてる」という言葉に象徴的に表れているように、社会においては、建て前ではジェンダー平等をうたい女性の社会進出を歓迎しているものの、個人としての女性に対しては、いまだに「女らしさ」や女性の性役割を押しつけるようなダブルスタンダードが存在している。社会は、男女共同参画社会への舵を切り始め、女性の活動の場は広がり、女性にとってのあからさまな制約は少なくはなったものの、男女のジェンダーの非対称性は完全には解消されず、「女らしさ」や三歳児神話をはじめとする女性の性役割への信奉もまだ色濃く残っている。このような社会状況が、裕生の修辞的な「男装」を、天真爛漫に男性の記号を身にまとうことができたサファイアの男装や礼子の修辞的な「男装」とは異質の、複雑なものにしているのである。

  1. 「僕はかぐや姫」は、1990年に海燕新人文学賞を受賞し、翌年、「僕はかぐや姫」と「人魚の保険」の2編を収録した単行本『僕はかぐや姫』が出版された。本文に戻る
  2.  小論では、異性装による男装と区別するために、言葉による修辞的で比喩的な男装を「男装」と表す。なお、修辞的な「男装」には、異性装をした女性登場人物による男性の自称の使用は含まないこととする。本文に戻る
  3. 「男言葉」「女言葉」については、金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』、因京子「マンガ――ジェンダー表現の多様な意味」、岡本成子「若い女性の『男ことば』――言葉づかいとアイデンティティ」他を参照。本文に戻る
  4.  「僕」という自称を用いている女子高生は、裕生だけではなく、友人の原田ら、文芸部員数人が「僕」と名乗っているが、裕生以外の「男装」の少女の内面はほとんど描かれない。本文に戻る
  5.  「僕」を女性ジェンダーから逃れるための避難所にしているのは、裕生だけではない。自分のことを「僕」と呼ぶ文芸部の部員たちは、裕生と同様、身体の線を出さないためにどんなに暑くてもベストを脱がず、少女特有の優しい友情を嫌って互いに冷淡な態度で接し、文芸部で取り上げる作家は男性ばかりである。また、中には、尚子のように、一時は「僕」と名乗って「女らしさ」の押しつけから逃れようとしたものの、その限界に気づき、逆に、過剰適応とも言えるほど、因襲的でステレオタイプ的な女性のペルソナを身につけている者もいる。本文に戻る
  6.  近年、漫画やライトノベルやゲームなどにおいて、異性装の女性登場人物も含めた、「僕(ぼく・ボク)」という男性の自称を用いる女性登場人物が読者の間で注目されており、「僕っ子」あるいは「僕っ娘」などと称される場合がある。また、男性を受け手に想定している作品の中には、修辞的な「男装」をしている女性登場人物の内面よりも、その登場人物が「僕」と名乗ることによって逆に際立つ「女性性」や醸し出される女性としての性的魅力に重点を置いた作品も少なくない。さらに、現実の世界においても、思春期の少女たちによる「僕」などの男性一人称の使用や「男言葉」や悪ぶった乱暴な言葉の使用は珍しくない。本文に戻る
  7. 男女雇用機会均等法は、1997年に改正され、1999年には男女共同参画社会基本法が公布された。本文に戻る

 
参考文献

  • 池田理代子(2009)『ベルサイユのばら1~5』集英社.
  • 石井達朗(1994)『男装論』青弓社.
  • 遠藤織枝(2001)『女とことば――女は変わったか 日本語は変わったか――』明石書店.
  • 岡本成子(2010)「若い女性の『男ことば』――言葉づかいとアイデンティティ」、中村桃子(編)『ジェンダーで学ぶ言語学』世界思想社、pp.129-144.
  • 金水敏(2003)『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店.
  • 佐伯順子(2009)『女装と男装の文化史』(講談社選書メチエ)講談社.
  • ダウリング、コレット(1989)『シンデレラ・コンプレックス――自立にとまどう女の告白』(柳瀬尚樹(訳))三笠書房.
  • 谷口秀子(2000)「おとぎ話のジェンダーとフェミニズム」『言語文化論究』11、九州大学言語文化研究院、pp.29-38.
  •  _____(2002)「少女漫画における男装――ジェンダーの視点から」『言語文化論究』12、九州大学言語文化研究院、pp.29-34.
  • _____(2003)「ジェンダーフリーと異形――絵本の中の女性像 ――」『言語文化論究』17、九州大学言語文化研究院、pp.29-43.
  •  _____(2004)『ジェンダーを越えるヒロインたち――子どもの本における多様な女性像の提示を目指して――』九州大学大学院言語文化研究院言文叢書.
  • _____
    (2009) “Yamambas, an Alternative to Gender-Stereotyped Heroines,
    in Contemporary Children's Books in Japan:A Step Forward from Tough Heroines in Comics”
    ,Studies in Languages and Cultures, No. 24, pp. 67-78.
  • 田村由美(2011)『BASARA 1~16』小学館.
  • 因京子(2010)「マンガ――ジェンダー表現の多様な意味」、中村桃子(編)『ジェンダーで学ぶ言語学』世界思想社、pp.73-88.
  •  手塚治虫(1999)『リボンの騎士――少女クラブ版』講談社.
  • _____(1999)『リボンの騎士 1~2』講談社.
  •  松村栄子(1991)『僕はかぐや姫』福武書店.
  • わたなべまさこ(2000)『おかあさま 1~2』集英社.
  • Butler, Judith. (1990)Gender Trouble:Feminism and the Subversion of Identity.New York and London:Routledge.
  • Connell, Raewyn. (2009)Gender(2nd edition). Cambridge and Malden:Polity.
(谷口秀子 たにぐちひでこ 九州大学言語文化研究院教授)
 
Copyright © 2001 The Society for Gender Studies in Japanese
All Rights Reserved.