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学会誌10号ーウェスタン・ミシガン研究例会 講演採録 (Bardsley)

芸者、ポップスター、プリンセス: 「日本」を間違って配役? 

ジャン・バーズレイ
Jan Bardsley

(翻訳:ハンフリーズ牧子)

 
はじめに
グローバルな舞台では、誰が「日本」を演じることができる(演じてもいい)のでしょうか。その役とは、どんな役者にも公平に割り振られるものなのでしょうか。 「日本」を代表するとは、どのようなことを意味するのでしょうか。中国人の芸者、アメリカのポップスター、そして日本の皇太子妃をめぐる最近の論議がきっかけとなり、 このような疑問が投げかけられ、論争の的となりました。今日、それぞれのケースを検討してみると、どれもが、ジェンダー、人種、そして民族性について問いかけ、 日本語を単一民族言語としてではなく世界共通語としてとらえようという考えにつながっている、ということが分かってくるでしょう。
 
この三つのケースは刺激に富むもので、世界中の注目を集めました。一つ目のケースとは、2005年作のハリウッド映画『SAYURI』(Memoirs of a Geisha)で、 主要な役を演じた三人の中国人女優に関連した議論のことです。二つ目はアメリカのポップスターのグウェン・ステファニが、 四人の若い日本女性を「原宿ガールズ」として、バックアップシンガーの役に振り当てたことに対して憤怒が沸き上がったこと、そして三つ目は、 皇太子妃雅子が直面した問題と皇室に適応しようと奮闘する雅子妃が外国メディアの同情を引いたことなどに関連することです。 ここでは、一つ一つのケースを順に取り上げ、「誰が日本を演じることができるのか(演じてもいいのか)」 という疑問がどのようにして作り上げられてきたのかを考えてみましょう。最後に、「誰が日本語を語れるのか(語ってもいいのか)」という質問に、 このことがどのような示唆を与えるのかについても考えてみたいと思います。
女形から『蝶々夫人』まで――日本女性のふりをすること
この論議の背景として、「日本女性」の役を男性または外国人の役者が演じる時に起きる問題の歴史を振り返ってみる必要があります。 これは古くから白熱した議論が繰り広げられてきた問題なのです。どの場合においても、舞台の上で想像上のどんな女性像を演じることができる (演じてもいい)のかは、舞台外での人種とジェンダーの実態に基づいています。面白いことに、舞台のために想定されたこのような「日本人女性」 が理想的な女らしさのお手本となった例は、日本にもアメリカにもしばしば見出されます。
 
まず、一番興味深いと思われる、女形について考えてみましょう。女形とは、女性の演者が公衆の舞台から締め出された17世紀初期ごろに現れた、 女装して女役を演じる男性俳優のことですが、今も女形は歌舞伎の舞台では花形です。歌舞伎等の演劇の研究家、伊坂真紀氏によれば、 女形の人気が女形の表現を一般社会に広めることになったのだそうです。客席にいる女性たちは、男性が体現した非の打ちどころのない「女性」 を真似たいと思ったわけです。また、逆に明治時代には、花形の女性歌舞伎役者・市川九女八のように、女性が女形の役をあまりにも上手にこなし、 「その女形が男ではないことは誰にも分からなかった」とまでの賞賛を得た例もあり、男が女の役を演じ、 その女を演じる男の役を今度は女が演じるという堂々巡りによって、事態は一段と複雑になってしまいました注1
 
時代を下って現代の日本に目を向けると、ジェンダーの理想を奨励しながら身体とジェンダーの境界線を曖昧にしている例がたくさんあることが分かります。 トランスジェンダーのタレントで有名なメークアップ・アーティストであるIKKO (イッコー)は、男性であった自分の身体を女性の身体に作り直し、 女性向けの美容ガイドを書いています注2。 また宝塚歌劇団の女性たちは、超男性的または超女性的な役作りのため、化粧、ボディーランゲージ、 声を通して、自分たちの身体を変えています。どの場合も、観客は身体とジェンダーのつながりが転覆されているのを承知しています。観客の目は、作られ、 演じられている理想のジェンダーに注がれているのです。このようにして、異性装 (cross-dressed) した俳優が、 ステレオタイプ的な極端な女らしさと極端な男らしさを具現化する時、舞台はジェンダーのステレオタイプを転覆することもできるし、 また逆に強化することもできるのです。
 
現在北米で一番よく上演されているオペラがプッチーニの「蝶々夫人」であり、一方、イブセンの「新しい女」劇『人形の家』に人気があるということも、 上に述べた身体と演技の歴史の説明にうまく当てはまります。「蝶々夫人」が20世紀初期に新しいオペラとして現れ人気を博した時、 蝶々夫人の役は、ジェラルディン・ファラー (Geraldine Farrar) のようなヨーロッパ系アメリカ人の歌姫によって演じられました。 吉原まり氏が指摘するように、評論家たちはファラーの声は絶賛しましたが、ファラーの「日本女性」の演技は批判しました。彼らは、 日本女性は従順だと信じこんでいて、それを舞台上の彼女の演技に期待したわけです。評論家たちは、ファラーの蝶々夫人の演技は強すぎて、 か弱い日本女性のイメージに合うよう「自己を小さく萎縮させて見せる」のに失敗したと批判しました。ファラーは、日本人の住み込みのお手伝いを雇い、 お手伝いのしぐさをまねたりして「忠実な表現」をすべく腐心していたのですが注3。 このような本物に忠実であれという強い要望のおかげで、 蝶々夫人を演じたある日本人女性歌手が世界の注目の的となりました。それは三浦環(たまき)で、 彼女は1910年代から1920年代にかけて蝶々夫人役で世界的に有名になり、世界を舞台として活躍しました。三浦は日本人だったため、 外国の観客は三浦が芝居をしているとは思いませんでした。彼女は「生来」本当の蝶々夫人だと決めつけられてしまったのです。面白いことに、 日本に戻った三浦は、日本ではまったく日本人らしくないモダンな「新しい女」とみなされたのです。
 
1910年代は、日本でも、舞台上で「本物」であることが重視されるようになり、ついに女優が舞台に復帰することとなり、 身体と表現が「自然であること」がより高く評価されるようになりました。ところが、インドラ・リービ氏が示すように、日本の批評家たちは、 イブセンの『人形の家』のようなヨーロッパ人の役を演じるために必要な自己主張の強さとパワフルな身体を、 日本人女優は持っていないのではないかという疑問を投げかけたのです注4。 この件に関しては、 既に松井須磨子によって日本女性がいかに力強いノラを演じることができるかが示されていたのでしたが。
 
要するに、20世紀初期の日本とアメリカの批評家たちは、役者の身体と、その役者が演じることができる(演じてもいい)役の関連性とを議論したのです。 そもそも、演劇でいう「忠実な」表現とは何を意味するのでしょうか。前述のジェンダーの交差した(cross-gendered) 役どころと同様に、 これらの人種の交差した (cross-raced) 役柄も、そのアイデンティティーを自由に反映するには至りませんでした。むしろ、 身体とアイデンティティーは固定したものだという観念に基づいて役が決められたのです。同時に、そのような境界線を、人種や性にとらわれない「人間」 として超越したいと望むことが緊張感を生み出し、それが舞台で展開されたのです。後述するように、そのような演技は今日でも論争を招き、 多国籍メディア、国家主義、そして言語に関する表現に疑問を投げかけています。
中国人の芸者――Zhang Ziyi, Li Gong, そしてMichelle Yeoh
<例えば、こんな映画があったらどうか。舞台は仏蘭西は巴里。フランス人女性のトップモデルの物語。彼女を演じているのは、フランス人女優ではなく、 アメリカ人の女優。さらに彼女は不思議なことに日本語を喋っている。彼女だけではない。周りのフランス人も全員日本語を喋っている。 その映画は日本で製作され、フランス人気質とフランス文化は日本人が描いているとしたら……。>注5
 
1997年、アーサー・ゴールデン著の『SAYURI』(Memoirs of a Geisha)は出版されるや、創作と事実の境界線に関する議論を誘発しました注6。 この小説はシンデレラ物語を模した漁村の貧しい少女の物語です。この少女が京都の置屋へ年季奉公人として売られ、芸と狡猾さを磨くことによって恋愛、美、 そして富を得るという話で、1920年代から戦後初期の芸者の置屋のしきたり、芸者間のライバル意識、売り買いされる性、 男性客を操る芸者の技巧などが中心となって描かれています。英語版で400万冊以上も売れたこの小説は32ヶ国語に翻訳されました。 2400人以上のアマゾン・ドット・コムの読者がレビューしたということから分かるように、日本と芸者の世界の現実を知るために役立ったと信じている読者が多数います。 著者がアメリカ人で、しかも男性なのに、よく日本人女性の世界をかくもありありと創作したものだと驚嘆しています。
 
読者の多くは『SAYURI』が実在の芸者の回顧録だと信じているのです。本の表紙に小説であると明示されているのですが、 多数の読者は冒頭にある翻訳者の覚書を本当の話だと思い、この小説が実在の芸者の物語の翻訳だと信じこんでしまったのです。 本当のことを知った時だまされたと思った人もいたくらいです。・・こんな冗談は抜きとして、ゴールデンは『SAYURI』の謝辞で、 元芸者の岩崎みねこに資料提供者となってくれたことに感謝の言葉を述べていますが、岩崎はゴールデンが芸者を誤解しているばかりか (特にゴールデンが記述する芸者の性生活)、ゴールデンに情報提供したことは秘密にする約束だったのにこの関係を公表してしまったとして彼を告発しました。 最終的には、二人は裁判に持ち込まずに和解し、岩崎は自分自身の回顧録『Geisha, A Life』を出版することになりました。伝えられるところによると、 京都の芸者たちは、岩崎の本を喜ばしく思わず、また岩崎がゴールデンに協力したと受け止め、そのことも愉快ではないと思ったようです注7
 
こんなことがあってもこの小説の成功は損なわれることなく、『Memoirs of a Geisha』は世界のほとんどの国でよく売れ、 ついには『SAYURI』として日本語訳にもなりましたが、日本での売れ行きは思わしくありませんでした。映画は日本企業、ソニー・エンタテインメントから配給され、 ソニー の映画としてウェブサイトに載っています。映画『Memoirs of a Geisha』のスポンサーにとっては、 このハリウッド映画が芸者の生活や日本を正確に描写していないという非難はあまり問題とする必要のないことだったようです。
 
実際のところ、『Memoirs of a Geisha』は芸者を正確に描写したものではなく、映画の着物、ヘアスタイル、メーク、踊り、音楽は、その時代のものとも、 また現在の芸者のものとも、ほとんど似ていません。このような批判に対してロブ・マーシャル監督は、これはあくまでも創作されたラブストーリーで実際の話ではなく、 フィクションとして映画を作ったのであると反論しています。『Village Voice』とうい週刊新聞の批評家デニス・リムは、 作り話としてもこの映画はなっていない(The film doesn’t work.) と指摘し、これを「デラックス版東洋風低俗作品 (deluxe orientalist kitsch) 」 であると酷評しています注8
 
またアメリカのテレビショーMADtv (マッドテレビ) はMemoirs of a Geisha』 のトレーラー・シーンをわざと面白おかしく模倣して、風刺しています。MADtvに出てくる芸者がアジア系アメリカ人男性によって演じられ、 その芸者がこの映画は東洋風だと風刺するのです。言い換えると、アメリカの評論家たちにとっては、役者に問題があるわけではなく、 まずこのような「東洋風低俗作品」を上映すると決めたこと自体に問題があるのです。
 
しかし、この映画に対する最大の非難は、マーシャル監督が主要な役に三人の有名な中国系女優を選択したことに対して浴びせられました。 彼は『Crouching Tiger, Hidden Dragon』出演の Zhang Ziyi を主役の「ちよ・さゆり」に選び、次にマレーシア生まれの Michelle Yeoh, (同じく『Hidden Dragon』出演) を「善人芸者・まめは」の役に、そして『Raise the Red Lantern』で有名なGong Li を「悪人芸者・はつもも」 の役に当てました。監督は、いつも通り「ただその役にベストな人を選んだだけだ」注9 と宣言し、Zhangには美と才能が あり、主役に必要とされる英語力があるのだとも言いました。彼の人選に対して多くの人は、 マーシャル監督はZhang Liと Yeoh の名声と興行的なアピールを利用しただけであり、つまりは、この二人ほど世界的名声を得た日本人女優がいないということなのだ、 と反応しています。マーシャル監督がZhang について述べた程度に英語が操れる有名な若い日本人女優がいて視聴者の関心を集めることができたなら、 その日本人女優がその役を獲得できたのに、とは誰しも思うことでしょう。
 
中国政府は、中国人に人気のあるスターが日本人の役を演じているのを見ると国民の感情がかき乱されるとして、『Memoirs of a Geisha』 の国内上映を禁止しました。インターネットに書かれたコメントは、政府のコメントほど外交辞令的ではなく「Zhang」は 「八つ裂きにされるくらいの報いを受けて当然」というインターネット・ユーザーもあり、このコメントはTianji (Sky’s Edge) というウェブ・ポータル・サイトに載ったものですが、このサイトにはこの問題について千人以上がポスティングしました。また、他にも 「Zhang は恥知らずの娼婦だ」言う者や、「Zhang の中国の市民権を剥奪するべきだ」という投稿メッセージもありました注10。 どうやら中国人を立腹させたのは、Zhang が日本人の娼婦を演じたからだけでなく、1930年代の日本の残忍な植民地化を忘れたかのように、 よりによってその時代の日本人娼婦を演じたからであるらしいのです。これらの批評家たちにとっては、ただでさえ不名誉な役を、それも中国人女優が演じたことで、 その印象がさらに悪くなったのです。
 
Zhang はこの映画に出演したことについて、「アジア系俳優には喧嘩を演じるだけが、……娼婦を演じるだけが、……他の国に売られた貧しい「チャイナマン」 (中国人の蔑称)を演じるだけがふさわしいというのでしょうか。私たちはアメリカで主流の映画においても、そして第二言語ででも、 ちゃんと演じることが出来るのです」と自己弁護しました。クエンティン・タランティーノ監督作の『Kill Bill』に日本人の殺し屋石井おれんとして出演した、 中国系アメリカ人女優Lucy Liuは、マーシャル監督の配役の決断を支持しています注11。 彼女は、ステージ上の人種や民族性がステージを降りた時と同じであることを要求されるとしたら、それは「あらゆる面で」彼女を制限してしまうと言っています。またここで注目しなければいけないのは、ハリウッドのドラマの中で主要な役が全部アジア人で占められたのは、『Memoirs of a Geisha』が初めてだということです。(同じことをミュージカルで成し遂げたのは、1961年の『Flower Drum Song』でした。)注12
 
有名な中国人映画監督 Chen Kaige のこの映画に関するコメントは、Liu のコメントとは異なります。彼は中国人と日本人には民族的に本質的な違いがあり、 それが身体の表現に現れると言っていて、その違いを理解していないハリウッドの映画制作者たちを批判しています。「一つひとつのアクションを作る時、 例えば、どのように歩くか、どのように日本の扇を使うか、どのように人と接するか、人と喋るときはどんな表情を顔に浮かべるかというのは、 どこまで日本文化について高度な知識を持っているかに左右されます。……しかしハリウッドにとって、そんなことは関係なしですね。ハリウッドにとっては、日本 人と中国人の間に違いなんてないのです。」注13 Chen Kaige 監督としては、問題は配役にあるのではなく、 彼が本質的な民族のアイデンティティーの違いだと認識していることをハリウッドが理解していないことにあるのです。また、日本の評論家の中には、 ハリウッドはアジアをまったく「分かっていない」、ハリウッドがアジア人全体に対して抱いている神秘的でエキゾチックだという観念によってアジア諸国間の歴史的、 社会的な違いが無視されている、と発言している者たちもいます。
 
アメリカのインターネットサイトで起きた論争への反応の中には、この映画のフィクション性に関する議論(「それは単なる映画でしょう」といったもの) を生み出し、多くのスター(メリル・ストリープ、レネー・ゼルウェガー、ジュード・ロー (Meryl Streep, Renee Zellweger, Jude Law)が異なるアクセントで、 他の国籍の役を演じるのは日常茶飯事だと指摘しています。しかし、日本の芸者の役を、どの人種の俳優にも偏見なく開放すべきだと言う人は一人もいません。
アメリカのポップスター――グウェン・ステファニの原宿ガールズ 
例えば白人の俳優が日本の芸者を演ずるというのは、キャサリン・ヘップバーンやミッキー・ルーニーがアジア人の役を演じるのにグロテスクなメークをして、 黄色人種の顔(yellow-face)を作った時代を思い出させます。当時、アジア系俳優の演じる役は、白人俳優と同じような人種的流動性、 つまり自分と異なる人種や国籍の人物を演じる機会は与えられず、故パット・モリタがデビュー作のミュージカル『Thoroughly Modern Millie』で演じた 『東洋人、その二』ぐらいに限られていました注14。 かなり前から白人俳優には与えられてきた人種的流動性を有色人種の俳優にも与えてほしいという声が、今日の非伝統的キャスティング運動の火付け役となり、 アジア系俳優にも多様な役が振り当てられるようになることが期待されてきています。しかし、ステージに出られるからといって、 どんな役にでも飛びつく価値があるといえるのでしょうか。アジア人の役が割当てられるというのは、それがアジア人を賛美しているように見える役であったとしても、 それだけで本当に進歩だと言えるのでしょうか。グウェン・ステファニの原宿ガールズのケースは、そうとは限らないということを示唆しています。
 
カリフォルニア州アナハイム出身の30代後半のポップスター、グウェン・ステファニは、1990年代の後半に、人気バンド『No Doubt』のボーカルとして有名になり、 2003年のハワード・ヒューズの人生を描いた『The Aviator』ではジーン・ハーローの役を演じています。 ステファニのセンセーショナルなロックスター然としたあでやかさ、プラチナブロンドの髪、そして真っ赤な口紅は、 彼女の音楽と同じぐらい注目を集めました。彼女の面白おかしいファッション・スタイルは日頃からファッション雑誌に報道されていて、 『Elle』『Lucky』『In-Style』『Marie Claire』が、ステファニを雑誌のカバーに起用しています。2003年には、自分がそのファッションで有名であることを利用して、 『Love Angel Music Baby』の略であるL.A.M.B. という彼女自身のブランド名の衣類を市場に売り出しました。
 
ステファニの有名な2004年のデビューアルバムは、彼女の服飾ブランドにちなんだ名前が付けられていています注15。 2005年には、彼女は年間最優秀女性ポップ・ボーカリストとしてグラミー賞にノミネートされています。
 
ステファニが、東京の中心地にあるショッピング街・原宿を中心とする若者のファッションに惹きつけられたのは、彼女が無類の「服好き」であったからですが、 この若者ファッションに彼女が魅了されるのはいいのですが、その心酔ぶりの表現の仕方をめぐって、 特にブロガーとの間に論争が起こりました。ステファニは自分のデビューアルバム「Love Angel Music Baby」の発売にあたって、年、身長、体重、 そして顔立ちもよく似た若い日本人女性四人に、かわいいカラフルな原宿っぽいファッションを身に付けさせ、 原宿ガールズと呼ばれるバックシンガーのチームを作りました。その女性たちの名前はステファニが付けたのですが、(まさに、皆さんのご推察どおり)、 Love、Angel、Music、Baby といいます。公の場では、レッド・カーペットの上を歩く時も、ミュージック・ビデオの中でも、またインタビューのときにも、 原宿ガールズは常に同じ姿で同じようにステファニのバックシンガーを演じています。子供っぽい制服を着た原宿ガールズは、 背が高くブロンドのステファニの大人の性の魅力を際立たせているのです。
 
原宿ガールズを呼び物にしたグウェン・ステファニの2005年のウェブサイトは、かなり面白おかしく誇張されたもので、フィクションだと明示されているものの、 ここに表れた人種的な非対称性を打ち消すことにはなっていません。グウェン・ステファニの公式サイトへのリンクhttp://harajukulovers.com/ に行くと、 抱きしめたくなるような可愛いアニメキャラクターが順番にパッ、パッと出てきて、原宿ガールズを紹介します。右には漫画化されたステファニがいて、 背が高く、ミニスカートをはいており、扇を手にしています。左側の四人のガールズは、芸者の髪型や着物に現代風の「可愛さ」(cuteness) を混ぜ合わせたような姿をしています。このスクリーンをクリックすると、ウェブを訪れた人たちは漫画化された原宿駅に連れて行かれます。 リアルな駅の騒音が聞こえ、グウェンと彼女の友達の姿が目に映ります。右上の看板には “Harajuku lovers is here….let the cuteness begin (sic)” (原宿LOVERSがここにいます。「可愛い」を始めましょう)の文句が浮かび、 そこを訪れた人々に、L.A.M.B. のアクセサリーの新製品が買える店の情報などを売り込んだりしているのです。
 
ブロガー (blogger) たちは、ステファニは日本のクールな面に拍手を送ることで、それをまんまと我が物にしようとしている、自分のものとして利用している、 そして最終的には、あたかも日本のファッショニスタたち(ファッションに敏感な人たち)のほうがステファニのファッションを求め、 彼女に認めて欲しいと思っているかのように描写しているのだ、と指摘しています。例えば、アルバムL.A.M.B. の中の一曲「原宿ガールズ」は原宿の女の子達の独創性、 独特な流行スタイル、そのいたずらっぽいスタイルを賞賛し、また、ステファニは原宿の町の女の子達の「一番の」ファンだと自称しています。が、 これは、ステファニが自分は日本通で、日本人が最新ファッションを好むことも知っている、Yohji Yamamoto (山本耀司)、Vivienne Westwood (ヴィヴィアン・ウェストウッド)、John Galliano(ジョン・ガリアーノ)、Comme des Garcons (コムデギャルソン)、そしてその他 Hysteric Glamour や Bape (デザイナーNIGO所有で、BATHING APEを短くしたもの)などの、超クールな原宿の店の名前をあげて、 こういうことも自分はちゃんとわかっている、と誇示するために利用されているのです。ステファニの日本のバックシンガーたちは、強い英語訛りの言い方で、 そしてこの上なく可愛い声で、『cho-kawaii(超可愛い)』などとボーカルに合いの手を入れます。原宿ガールズの一人がとても嬉しそうな声で、 「Gwen Stefani, you LIKE ME!」(「グウェン・ステファニ、あなたは私のことが大好きなのよねえ!」)と歌う個所もあります。ステファニは、 原宿スタイルのチアリーダーのごとく、原宿ガールズを、 “Work it, express it, live it, command your style.”(がんばりなさい、 表現しなさい、楽しみなさい、自分のスタイルを追求しなさい」)などと鼓舞するのです。 ステファニのファッションは原宿ガールズからインスピレーションを受けてデザインされたものなのに、ステファニは、 原宿ガールズたちはかわいい「小さな手で」私のファッションを手にいれようとうずうずしているのよ、と夢想しているのです。
 
ステファニの演出への批判はインターネットで猛威をふるい、そのほとんどが、彼女の原宿ガールズの描き方は人種的階層を強化するものだと指摘しています。
 
『Memoirs of a Geisha』が「東洋風低俗作品」と批判されたのと同様、ステファニの憚ることをしらない白人エゴが批判され、風刺されています。 一番ユーモラスな風刺の一つは「四人のグウェニハナ・ガールズ(グウェンの娘たち)を自由にする」ために設けられているサイトで、 ステファニのポスターに手を加えて、まるで原宿ガールズがグウェンによって投獄されているかのように見えるようにしたものです。また、 四人のうちの一人は実は日系アメリカ人で、四人とも「巡業中は契約上英語を喋ってはいけない」 ことになっているという噂がウェブ上を飛び交っています注16。 評論家たちは、この女の子たちは操り人形のように、 アクセサリーのように、またはパリス・ヒルトンのチワワのように扱われている、と酷評しています。評論家の一人は、 「男にかしずくハーレムの女みたいにキャッキャッと言いながら後をついて回るアフリカ系アメリカ人の女の子たちの前でダンスするステファニ・グウェン なんて想像できますか。ステファニがメキシコ人の女の子たちと同じことができるなんて、考えられますか」注17と問いかけています。 また別の評論家は、「色彩・色調の違いは別として、 この女の子たちは常に揃いの服を着ています。常により派手でより手の込んだスタイルのグウェンを引き立たせるように自分たちのスタイルを合わせています。. . . 彼女たちは、アディダスの運動着を身につけ、腰をくねらせヒップ・ホップを踊る黄色系ギャルに変身するのです注18 」と言っています。
 
しかし、この批評家たちを批判する人たちもいます。「グウェニハナ・ガールズを、意思をもたない「でくの坊」と見なす人がいるなら、それは、 彼女たちをまるで解放されなきゃならない奴隷のように見なしていることになる。この女の子たちは頭が弱く、自分の仕事上の決断が下せないので『救済』」 してあげなければならない、と決め付けるのはなぜだろうか。このような考え方こそ、アジア人女性は従順で、救済して面倒を見なければ ならないという固定観念を広めるものだ。」注19 、言い換えると、役柄そのもの、または配役担当者が悪いというよりも、 Zhang Ziyi や原宿ガールズのように、売名行為として、このような役を引き受ける人間にこそ責任があるとしています。
 
「原宿ガールズ」という歌の中で、ステファニは、原宿スタイルを「中身とは無縁のスタイル」で、いかにも自由なファッションであるかのように言っています。 作り話として映画に撮りたかったというMemoirs of a Geishaの監督・ロブ・マーシャルと同様、ステファニも、人種が関われば、 スタイルこそが中身になるのだということを理解していませんでした。それゆえに非難の的となったのです。
日本のプリンセス――誰が天皇の役を演じるチャンスを得るのか?
セレブに対する憧れが、有名な王室の人々をグローバル・スターへと変身させます。一番有名なのは英国大衆のアイドルであるエリザベス女王で、 女王のファンは世界中にいます。彼女は、パロディーのネタにも、また賞賛の的にもなっています。しかし、英国には、 王室は封建的な制度であって現代社会に存在するにはふさわしくないと主張している人も多く、彼らは、 王室制度の存在は人種と階級の階層制度を強化し民主主義を支持しないものであるから、人種の多様化が進んでいる一国の象徴にはなれないと主張しています。
 
世界の人々には、日本の皇室はどのようなファンタジーと見なされているのでしょうか。日本の皇族を巻く論争は、「グローバルな舞台で、 誰が日本を演じることができるのか(演じてもいいのか)」という問いかけに、どのような答えを示してくれるでしょうか。 日本で最も有名な皇室の女性である美智子皇后のイメージと皇太子妃雅子のイメージは、次に紹介する二冊の英語で書かれた本が形作ったといってもいいでしょう。
 
最近アメリカでは、美智子妃や雅子妃に関する本が相次いで出版されているのですが、これをみても、日本のプリンセスへの関心が今もすたれていないことが分かります。 2008年、美智子妃を主人公とした『 The Commoner 民間人』というタイトルの本が出版されました注20。 著者のシュワルツは、美智子妃の結婚生活を宮内庁や皇室のしきたりにがんじがらめにされたものとして描いています。また、この本は雅子妃との関係にも触れ、 両者が共に民間の出身であり、常に一般の目にさらされると同時に一般からは隔離された境遇にあること、さらに、複雑な姑と嫁の間柄にあることなどを描いています。 雅子妃といえば、2007年にオーストラリア人ベン・ヒルが彼女についての本を出版しました注21。 シュワルツの美智子妃像と同様に、 この本も、雅子妃を宮内庁の圧力におしつぶされそうになっている悲劇の女性として描いています。 雅子妃と皇太子のロマンスがいかに悲劇的コースをたどったかを伝え、秘められた皇室の秘密を暴きだすというわけです。 この二冊の本を見ても分かるように、 現在のアメリカの美智子妃と雅子妃像からは、輝く民主主義を連想させたかつてのカリスマ性は感じられません。かわりに、両者には「とらわれのプリンセス」、 つまり皇室の頑迷な伝統に苦しめられる悲劇のヒロインの役が与えられているようです。 日本のプリンセスは、芸者と同様に、美しくエキゾチックな着物で身をつつまれ、 その持って生まれた知性と創造力を頑固なしきたりや習慣におしつぶされそうになっている存在なのです。 すべてを持ちながら、何も持てないでいる女性。メディアは、そのように、この悲劇のプリンセスのイメージを世界に伝えています。もちろん、 美智子妃や雅子妃が日本でも例外的立場にいることは建前としては理解されていますが、本音のレベルでは、アメリカ人の多くが、 この二人の例外的境遇こそ、抑圧的な日本的伝統のシンンボルにちがいない、と信じているのです。ここで、興味深いのは、2007年、 皇位継承論争のさなかに男の子を生んで今や三人の子供の母となった紀子妃がこの「とらわれのプリンセス」の物語には登場しないことです。
 
「誰が日本を演じることができるのか(演じてもいいのか)」という質問に戻ると、オペラ・スターのジェラルディン・ファラーは 1910年代に日本人女性のステレオタイプの問題に直面したのでしたが、世界に流布している美智子妃像と雅子妃像は、 これと同じステレオタイプを強化していると思われます。この二人も「自己を小さく萎縮させて」日本の皇室に自分の役割に合わせなければならなかったのです。 エリート教育(ハーバード大学、東京大学、それにオックスフォード大学)を受け、数ヶ国語に堪能で、また短いながら外務省でのキャリアを持つ雅子妃においては、 特にそうなのです。皇太子妃の役を演ずるため「自己を小さく萎縮させた」ために、雅子妃が2004年にうつ病に悩まされたことはよく知られていることでしょう。 彼女には、公の場での発言も、実体のある役割を果たすことも、ほとんど許されていません。また、彼女はもう国民ではなく、 選挙権もないのです。自分の意志で国内・国外を旅行することもできません。その結果、雅子妃にあてがわれた、世界をステージとした「日本人女性」としての役は、 主役ではなく、ただの通行人の役なのです。アジア系アメリカ人スター、故パット・モリタと同様、彼女は「アジア人、その二」となってしまったのです。
 
さらに、誰に役をふるかという問題の中で最も論議を呼ぶのは、プリンセス愛子に関連する問題です。プリンセス・愛子は、 皇太子徳仁と皇太子妃雅子の八才になる一人娘で、一人っ子です。愛子親王が数世紀ぶりに日本の女性天皇になるかもしれないということをめぐる論議が、 日本中でかまびすしくなりました。報道によれば、80%以上の日本人がジェンダー平等に関する日本の約束事に沿っているとして、 この考えを支持しているとのことです注22一方、極右の評論家たちは、天皇になれるのは男子だけだとしてこうした見解を批判し、 女性の体は不浄であること(生理、妊娠のため)、母としての務め、愛子親王の将来の夫が配偶者として抱えるかもしれない問題などを挙げて、 彼女が天皇になるべきではないのは明白だと主張しています。
 
2007年に愛子親王のいとことなる男児が誕生したことで、今のところ、この論議は静まっています。しかし、この二人のどちらかが天皇になるという可能性が、 ジェンダー問題を越えた論争を引き起こしています。英国の王位を批判する人たちと同様、日本の批評家たちも、皇室制度は非常に封建的で、 民主的な原理に反すると非難しているのです。非難の内容とは、皇室制度は、皇族の実生活を束縛するだけでなく、「本当の日本人」は日本 人の血を引く人間だけだという考え方を強める、というものです。これに関連して、日本では「日本語」ではなく「国語」が、 現在の教育制度でも教育科目名として使われていますが、日本人のための言語教育が「国語」教育で、外国人へのそれが「日本語」教育だという考えが、 何やら当たり前のように通用していることも、皇室の話す言葉が「日本語」ではなく「国語」である、というような、言葉と国家主義とを結び付ける議論から派生している、 と考えられているようです注23。 
 
日本の極左の人々にとっては、ジェンダーの問題や、プリンセスがもっと力強い役割を果たすべきであるということなどは、まったく問題にはならないのです。 皇室制度に関する議論で彼らが問題視するのは、血と人種で結ばれた人々(一つの民族)を正真正銘の日本人だとする神話なのです。 中国人の芸者や大げさに面白おかしくふるまう原宿ガールズとは違い、皇室の役割を演じる役者は、いつしか退場していく人物とも、 また舞台に立っているとも見なされていません。つまり、そのスタイルこそが中身そのものなのです。スタイルであり中身である人種、役柄、そして演技を、「想像の正統性」 (imagined authenticity)としてまとめあげるのです。一方、極右の人たちは、 この想像の話を維持するために細心の注意を払って日本の役を割り振らなければいけないということを熟知しているのです。
ジャパニーズ(日本語)を世界共通語として教えること
最後に、日本語を世界共通語として教えるとき、また学ぶとき、この議論がどんな意味合いを持つかということに触れてみたいと思います。 私たちの学生はロックスター(rock royalty)でもなく、本物の皇室のメンバーでもありませんが、教室で、または教室外で、この日本語という言語を話すとき、 この言語と直に接触しています。
 
日本語を第二言語として教える方法としては、いろいろな方法がありますが、日本語講師は、ほとんどが日本の文化背景を踏まえて言語を理解するように学生を教育します。 学生は丁寧な挨拶、くだけた話し方、お辞儀や名刺交換の仕方などの一般的なボディーランゲージについて学びます。しかし、このような訓練は、 ジェンダーと階級に関する因習を否応なく強めてしまうことになりかねません。例えば、 男性と女性の話し方の違いや正確な敬語の使い方が過度に強調されることがあります。こうしたアプローチは単一民族的血統主義、 つまり日本語と日本文化は本質的で普遍的であるという根強い考え方に基づいています。しかし、第二言語としてより多くの人が日本語を話すようになると、 この言語自体が必然的に変わってくると思います注24。 これは、今日世界共通語である英語が、世界中の人々が話すことによって、 新しく創造されて変化していく言語となっているのと同様です。日本語が世界共通語として盛んに用いられるようになるには、 「誰が日本を演じることができるのか(演じてもいいのか)」という質問に対して、最も偏見のない解答を出す ことが必要です。ジェラルディン・ファラーやグウェン・ステファニが演じたような、最も「東洋的な」日本人、最も「可愛い」日本人に倣うべきだということが、 はたして解答となり得るでしょうか。むしろ、日本語を第二言語として多くの人々が学ぶよう促し、その人たちに 「偏見のない配役」を奨励していくことが望ましいのではないでしょうか。舞台の上で、多くの、そして千差万別の「せりふのある役」 が演じられることを推進していきたいものです。
 
(この採録をまとめるにあたって、ハンフリーズ牧子、因京子、久保田竜子、斎藤理香の諸氏の協力を得ました。感謝してここに記します。)
 
注(引用文献)
  1. Maki Isaka, “Woman Onnagata in the Porous Labyrinth of Femininity: On Ichikawa Kumehachi 1,” U.S.-Japan Women’s Journal. English Supplement. No. 30-31 (2006): 105-131.本文に戻る
  2. IKKO, IKKO女の法則―幸運を引き寄せるココロとオンナの磨き方(世界文化社2007)。本文に戻る
  3. Mari Yoshihara, Embracing the East: White Women and American Orientalism (Oxford University Press, 2003), p. 89.本文に戻る
  4. Indra Levy, Sirens of the Western Shore: The Westernesque Femme Fatale, Translation, and Vernacular Style in Modern Japanese Literature (New York: Columbia University Press, 2006).本文に戻る
  5. 立川志らく「アメリカ的な日本、豪華に描く」朝日新聞20005年12月22日本文に戻る
  6.  Arthur Golden, Memoirs of a Geisha (New York: Knopf, 1997); Robin Swicord, Memoirs of a Geisha , film directed by Rob Marshall, released by Sony Pictures, 2005.本文に戻る
  7. Iwasaki Mineko with Randee Brown, Geisha, A Life (New York: Washington Square, 2003).本文に戻る
  8. Dennis Lim, “Orient Excess,” Village Voice, December 5, 2005.本文に戻る
  9. I have a very simple philosophy about casting, and that is: cast the best person for the role," Marshall told reporters Tuesday. "The demands were enormous and Ziyi was the best." “Marshall defends controversial ‘Geisha’ casting decision,” Los Angeles Times, Mar. 7, 2005.本文に戻る
  10. “Marshall defends controversial ‘Geisha’ casting decision,” Los Angeles Times, Mar. 7, 2005.本文に戻る
  11. Kill Bill, vols. 1 and 2, directed by Quentin Tarantino, released by Miramax Films, 2003-04.本文に戻る
  12. Flower Drum Song, directed by Henry Koster, released by Universal Pictures, 1961.本文に戻る
  13. “Marshall defends controversial ‘Geisha’ casting decision,” Los Angeles Times, Mar. 7, 2005.本文に戻る
  14. Thoroughly Modern Millie, directed by George Roy Hill, released by Universal Pictures, 1967.本文に戻る
  15. Gwen Stefani, Love Angel Music Baby, released by Interscope, 2004.本文に戻る
  16. Anne Ishii, “English as a Second Language: From ‘Memoirs of a Geisha’ to Gwen Stefani’s Harajuku Girls, Asians Get Lost in Translation.” Village Voice. January 3, 2006.本文に戻る
  17. Posted May 5, 2005 to Gwenihana.blogspot.com本文に戻る
  18. Ibid.本文に戻る
  19. Posted April 20, 2005 to Gwenihana.blogspot.com本文に戻る
  20. John Burnham Schwartz, The Commoner (New York: Nan A. Talese, 2008).本文に戻る
  21. Ben Hills, Princess Masako: Prisoner of the Chrysanthemum Throne (Sydney:Tarcher, 2006)本文に戻る
  22. Amy McCreedy Thernstrom, “Introduction,” Amy McCreedy Thernstrom, ed., Japanese Women: Lineage and Legacies, Washington, D.C.:Woodrow Wilson International Center for Scholars, October 2005.本文に戻る
  23. 「日本語」と「国語」の関係については、イ・ヨンスク(1996)『「国語」という思想--近代日本の言語認識』岩波書店、ましこ・ひでのり(1997)『イデオロギーとしての「日本」--「国語」「日本史」にお知識社会学』三元社、を参照のこと。また国語政策と女性語との関連で「国語」を論じた英語論文として、Saito, Rika “Building and Maintaining Women’s Speech: Covert Language Policy in Japan.” (unpublished dissertation, Univesity of Pennsylvania, 2005) がある。本文に戻る
  24.  佐藤慎司、ドーア根理子(編)(2008)『文化、ことば、教育—日本語/日本の教 育の「標準」を越えて』明石書店、を参照のこと。本文に戻る
 
(ジャン バーズレイ Jan Bardslay  ノースキャロライナ大学チャペル・ヒル校準教授)
 
 
 
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